「エリクサー」とは日本のRPG『ファイナルファンタジー』シリーズに登場する、「HPとMPを全回復する」アイテム。強力故に貴重なアイテムであり、プレイヤーがもったいながってこのアイテムを使えない現象を、「エリクサー症候群」と言う。
エリクサーを使うか否かの答えは個人の価値観に依るものとして、ゲームデザイン的に「エリクサー症候群」など発生させるべきでない。
本来、プレイヤーを極限まで追い詰め、嫌でもエリクサーに手を伸ばしてしまう、というのが正しいゲームデザインである。
そも、エリクサーを使わないという行為は、純粋にゲームを攻略する上でのナメプである。仮に将棋で飛車角落ちといったハンデもなしに、対等な人間同士が対戦した時、飛車を使わず勝利しようと考えるだろうか。
同様のゲームを何度もプレイした上級者や、天才的な頭脳がある人間でもない、ごく普通のゲーマーにとって、エリクサーを使うほど追い詰められて勝利するのが、「楽しいゲーム」である。
ここまで追い詰められて、あえて使わない判断もまた良い。そのエリクサーは、縛りプレイのトロフィーとして役割を果たす。
が、単にエリクサーをケチっても普通に勝てるのなら、それはナメプであり、死闘を繰り広げて生き残った達成感は薄い。
だから、ゲームはエリクサーを使わせなければならない。
1998年の『Half-Life』は好例である。研究所からの脱出を描いた本作において、グレネードやマグナム弾は大変貴重だが、初見プレイならこれらを適切なタイミングで使えば、辛うじて満身創痍ながらクリア出来るようにデザインされていた。
理想の難易度調整であり、「エリクサー」で喉を潤す喜びを見事に再現していたと言える。
ただ、難易度を上げすぎて最適解が一つというのも健全ではない。こうなると、ただのパズルになってしまう。
正しいゲームデザインは、プレイヤーに「エリクサーを使いか否か」を迫るものより、「いつエリクサーを使うか否か」迫るものであるべきだ。
例えば、先程の『Half-Life』の場合、グレネードは複数の雑魚を一掃する範囲攻撃として、マグナムは単体の強敵を討つため、使うべきタイミングに使えば効果を発揮する。
この点、エリクサーはデザインがよろしくない。
「HPとMPを全回復」というエリクサーは、強ボスとの短期決戦ではMP回復が余分になり、雑魚敵との消耗戦ではHP回復がダブつく。もったいなくて使えないというより、あえて使う必要がないから使わないだけだ。
また、「エリクサー」をゲームデザインとして組み込む上では、使用する上でのリスクを伴うのが良い。
『ロックマンエグゼ』シリーズの「ダークチップ」は使うほどに体力が減り、『LISA』の「Joy」という麻薬はゲーム的デメリットはないがプレイヤーの倫理観が揺れる。『Civilization』の核兵器は外交ペナルティが付き、戦争以外の道が閉ざされる。
単純に貴重、というだけではデザインとして弱い。「使うか、使わないか」でプレイヤー個人の価値観が試されるようなものがベストだ。
何にせよ、貴重なアイテムはリソース管理が前提のゲームにおける、デザインの肝だ。明確な用途を与えるにせよ、相応のリスクを組み込むにせよ、使っていて「面白い」と思えるモノであるべき。
「エリクサー症候群」など引き起こすべきではないのだ。
ところで、私の好きなマンガ『銀の匙』には、こんな台詞がある。「お金の遣い方で男の価値は決まるものよ」と。エリクサーの遣い方でゲーマーの価値は決まると私は思う。
(一応「エリクサー症候群」の話だが、別に『FF』批判ではない。というか、『FF』はこの点の調整は上手い方だと思う。)