2018-06-11

私はハグプリの正しさが少し怖かった

ネットでも割と話題になっているのでなんとなく知っている人が多いと思うが、今年のプリキュアはとりわけ出来が良い。

ベテラン佐藤順一監督がこれまでのキャリアを全部ぶち込んで全力で殴りに来ているような出来の良さである

ため息が出るほど感心してしま優等生ぶりである

ストーリーセリフキャラクター造形に関して、よく練られているというか、あらゆるツッコミを想定して作られているような盤石ぶりを感じた。

あらゆることに対して相当な配慮がなされている作品だと感じた。

しかし、それ故に私は少しその「正しさ」が怖かった。

そして、最新話で、その恐れていたことが表面化してしまった。

吉見リタがファッションショーテーマに「女の子だってヒーローになれる!」を掲げた時、私は「こんなにわかやすメッセージ性を掲げてしまって大丈夫?」とかなり不安になった。

もうこの時点で、放映後にはジェンダー論点から語る人がたくさん出てくるのが想像できて、いやになった。

そして、アンリに対してはなが「いいんだよ!男の子だってお姫様になれる!」と言ったとき、ああ、この回は「そっち」に持ってかれちゃうな、と思った。

どういうことかというと、

私が恐れていたのはこの三つである

一つ目。

この回では、「女の子だってヒーローになれる」「男の子だってお姫様になれる」という二つの言葉によって、「ジェンダー」という特定テーマばかりが強調されてしまっている。

しかし、物語特定メッセージを伝えるだけのものではないはずで、あらゆる側面を持っているはずである

この回はシリーズの第19話であり、当然それまでのお話と地続きの物語であるわけで、そのテーマ以外のあらゆる側面が存在するはずである

例えば、佐藤順一監督ツイッター言及していた、えみるとルールーの関係

この二人の、「ふたりプリキュアになる」という目標につながっていく感情の動きがこの回では描かれていた。

他にも、正人のトゲパワワをもとに作られたオシマイダーに対し、アンリが「君も苦しいんだね」「自分を愛して」と言ったこと。

一言では片づけられないような正人の苦しみが存在していること。

そして、「自分を愛する」という言葉に対し、ルールーが反応していたことにも、ジェンダーテーマ以外の側面が感じられる。

別にジェンダー的なメッセージは、お話の一つの側面に過ぎないわけで、その一つの側面のみで作品が語られてしまうのは、正直残念である

二つ目

ジェンダー」というテーマが独り歩きし、キャラクターに、そのテーマ対応する「役割」が付されてしまっている。

代表的な例が、えみるの兄、正人だ。

彼は「ジェンダー」的な観点でいえば、いわゆるステレオタイプな古い価値観を持った人間として見られるように描かれている。

だがしかしキャラクターは、物語を動かすための「装置」ではない。

否定されるべき古い価値観メタファーとして彼が見られてしまうのは、非常に残念である

キャラクターは、特定役割のために存在しているのではなく、あらゆる側面を持った生きものである

兄としてえみるに向ける感情一言で片づけられないものであるだろうし、ただ「男の子らしさ・女の子らしさ」の価値観に縛られているからそれを逸脱するアンリを敵視したのだと断言することも出来ない。

彼には彼の物語というもの存在していて、この回における彼の言動は、その結果でしかない。

また、「女の子だってヒーローになれる」を掲げたファッションデザイナー吉見リタにしても、単にこの回のために用意されたキャラというわけではない。

かつて彼女は、園児の泣き声で集中力乱れるから保育園クレームを入れ、その時のトゲパワワがオシマイダーの素体に利用されたことがある。

さらに、前回ではアイデアが浮かばないスランプのトゲパワワで再びオシマイダーの素体にされている。

そんな彼女が、今回のファッションショーでこういうテーマを掲げるようになった経緯についても、小さいながらも物語があるのだと想像できる。

特定テーマに対する「役割」という考え方では、人間的な深みがオミットされてしまうし、作品世界観を狭めてしまう。

最後に、「正論」をぶつけることで生じる様々なことについて。

私は典型的優柔不断で、断定するのが怖いタイプ人間である

それが原因なのか、今回登場したような、「人の心を縛るな!」等のメッセージ性がはっきりとした強い言葉が苦手だ。

彼女たちの言葉は正しい。しかし、正しいことを断言することで切ってしまう何かもある。

アンリというキャラクターが初登場時どうであったかを思い出してほしい。

彼は自分がいいと思ったもの、正しいと思ったことに対して真っ直ぐに行動する人間で、それは今回の話でも同様であった。

しかし、かつてアンリは、自分の信じる正しさでもって、ほまれをはなたちから引き離そうとしたことがある。

はなに正論をぶつけて傷つけてしまたこともある。

アンリは間違ってはいなかったが、その正しさで別の何かを切ってしまった。

ツイッターでよく「正論相手論破する漫画」を見るが、それに感覚としては近い。

正論をはっきりと示すということは、何かを正すことになる。

まり、正される「何か」が産まれしまう。

皮肉にも、今回アンリが放った言葉がそれを代弁している。

「僕は君のために僕を変えることはできない」

これは正人が、自分価値観に合うようにアンリを変えさせたかたこからくる言葉と捉えられるが、逆であっても同じことが言えるのだ。

正しさをもって他人価値観否定することは、「人を変えさせる」行為であり、攻撃的側面を持つのだ。

から、今回、メッセージ性がはっきりしすぎている言葉が出てきたとき、その正しさが、何かを攻撃することになるのではないか、と思ったのである

それが正しいのだとしても、それは自分にとっては少し怖いことでもあった。

まとまりのない文章だが、以上である

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