「いいんだよ!男の子だって お姫様になれる!」
HUGっと!プリキュア 第19話より
「HUGっと!プリキュア」。
”示唆的”ではなく”直接的”に社会制度やジェンダーに言及する「攻めた作品」だな、とは思っていましたが、第19話「ワクワク! 憧れのランウェイデビュー!?」では、ついに
「男の子だって、お姫様になれる!」
に言及しました。
「女の子だって、ヒーローになれる」を15年間ずっと体現してきたプリキュアで
「男の子だって、お姫様になれる!」に言及したのは、プリキュアが15年かけて培ってきた2000年代のジェンダーロール(性別によって社会から期待されたり、自ら表現する役割や行動様式*1*2)を再認識する上でも「けっこう凄い事」なのではないかと思うのです。
小さな女の子向けのアニメだから「女の子だって、ヒーローになれる」を言い続けてきたのは判ります。
小さな女の子向けアニメで「男の子も、お姫様になれる」に言及出来るのが「HUGっと!プリキュア」の強さなのじゃないかと思います。
19話における性差に対する言及
HUGっと!プリキュア第19話「ワクワク! 憧れのランウェイデビュー!?」では2人の「男の子」を使って、旧来の「女性を男性の庇護下に置こうとする家父長的なジェンダー観*3」と、個人を尊重する(比較的新しい)ジェンダー観を対立させました。
愛崎えみる(多分新しいプリキュア)の兄、愛崎正人は、旧来の「男は守る側、女は守られる側」といった(いわば古い)ジェンダー観に縛られているキャラクターとして描かれ
その対象として
スケートの実力も相当高い自立したアンリ君という「性差は関係ない、自分は自分である」といったキャラクターを対比させています。
「女子みたいな恰好」をバカにする愛崎正人
正人「ヒーローってのは男のための言葉だよ、女の子は守られる側だろ」
女の子の格好をするアンリ君に「君は男だろ?」
それに対し、
アンリ君「僕は自分のしたい恰好をする」
アンリ君「自分で自分の心に制約をかけるのは時間、人生の無駄」(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
ジェンダー観の対立が「どストレート」に表現されます。
(これを「女vs男」ではなく「男vs男」で表現するのは、あらゆる意味で上手ですよね。)
19話でひたすらに描かれるのは
「自分を否定しない事」「自分を決定づけるのは自分だけである」という事です。
アンリ君は性別的にも役割的にも「男性」であり(LGBTの範疇ではなく)「自分のしたいことをする、自分に似合うから女性の服を着る」というキャラである事も重要な要素ですよね。
あくまで、今回はLGBTの問題ではなく「社会のしがらみ」vs「個人の自由」をメインで扱っています。
また、愛崎正人君は今回、自由を否定する悪役キャラを演じていますが、彼もまた、おじいちゃんに植え付けられた「旧来のジェンダー観」に縛られて生きている、という事も示唆されています。
「人の心をしばるな!」という野乃はな。
(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
「女の子だって力いっぱい活躍できる」「女の子もヒーローになれる」というプリキュアが15年かけて「体現」してきた事を、提唱するのは先回プリキュアに救われた「女性デザイナー吉見リタ」
(「女の子もヒーロー」のファッションショーに「男の子」のアンリ君を出すセンスもさすがが一流デザイナーです。)
(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
古い制度に縛られている正人君は、女性がヒーローになる事をあっさり否定します。
「女の子もヒーローになれる!おかしいよね?」
しかし、それに反発するのは、主人公「野乃はな」
(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
「誰の心にだって、ヒーローはいるんだよ!」
「人の心をしばるな!」
と言い放ちます。
まさに「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」といった古い制度の否定です。
はなちゃんが「人の心をしばらないで」ではなく「人の心をしばるな!」って強い口調で、強いメッセージを発するのも良いですよね。メッセージの強さを感じます。
そしてオシマイダーに捕まって
「これ ボクお姫様ポジションになっちゃてない?」というアンリ君に対し、
(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
「いいんだよ!男の子だって、お姫さまになれる!」と言い放つキュアエール。
しかしあくまでアンリ君は「お姫様ポジション(=守られる役割)になっちゃった」、と言っているだけなのに対し、
キュアエールは「男の子だってお姫さまになれる」と返すのが面白いですよね。
「男の子が守られる立場になる」のは過去のプリキュアで幾多も描写されてきましたが(むしろそれがプリキュアの骨格ですよね)「男の子がお姫様になっても良い」と直接言及できるまでになってきたのは時代が変わってきた事の証であると思います。
また「お姫様」と言われたアンリ君も「自己をしっかり持った自立したキャラ」なのですよね。
だからこそ、その「お姫様」はその先の展開で、怪物(オシマイダー)との対立で「古い価値観」に向かって「自分を変えるのは自分だけ」「自分の人生は自分のもの」「自分を愛そう」と言い放つのです。
そして、そのアンリ君の価値観もまた「プリキュア」により再認識させられたものなのです。
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(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
「お姫様」となった「ノーマルの男の子」が、
「君のために、僕を変えることは出来ない」
「僕は、僕の心を大切にする」
「僕の人生は、僕のものだ」
「君も、君の心をもっと愛して」
を「古いジェンダー観」に向かって説得を試みます。
この場合「お姫様」は「守られるだけ存在」ではなく
「男の子だろうと女の子だろうと何だろうと、制度を越えて、何にだってなれる存在」という意味なのでしょう。
まさに「HUGっと!プリキュア」の「なんでも出来る、なんでもなれる」を体現しているのだと思います。
「何でもできる!なんでもなれる。いっくよーー!」
「フレフレ、みんな。フレフレ、私!」
「HUGっと!プリキュア」は第1話から、見ている子供たちに対し、
「自分を否定しないで」
「自分を大好きになって!!」
と言い続けてきました。
この「自己肯定」の考え、大人の間では(完全に浸透しているとは言えないけれど)比較的、浸透してきている考えではあると思うのですけど、
まだまだ、子供の世界では「男の子だから泣かない」「女の子だから優しくしよう」等を(無意識の中でも)言及される事も多いと思います。
(バンダイの玩具ですら今だに「男の子向け」「女の子向け」表記です。)
(余談ですが、東映ホテルプリキュアプリティルーム」は「女の子も、男の子も」となっています)
「女の子だって、暴れたい」から始まったプリキュア。
「男の子だって、お姫様になれる」に言及するまでに至ったプリキュア。
「男の子」が「プリンセス好き」だって
「女の子」が「ロボット好き」だって
当然、否定されるものでもありません。
(仮面ライダーが好きな女の子が、親から否定されるなんて悲しい事件が少し前に話題になりました)
「何でもできる!なんでもなれる。」
これを描いていくには「社会的規範」「ジェンダーロール」をどう乗り越えていくか、の戦いになっていくものと思われます。
その1つの回答が今回の「男の子だって、お姫様になれる」だったのではないでしょうか。
そして、そんな当たり前の事を「子供向けアニメ」で、子供と、その保護者に向けて、要は「未来に向けて」描いていけるのが「HUGっと!プリキュア」の強さなのでしょうね。
従来のアニメーションでも当然、この様な描写は多々あったと思います、セーラームーンも、少女革命ウテナ・・カードキャプターさくら・・
だた「未就学児がメインの小さな子供に向けて特化してメッセージを発する」プリキュアというアニメーションで、この様な表現が行われた事は、結構凄い事なのではないかと思います。
そして
きっと、まだ性差が未熟で性別の自覚がない子供が、この先、成長して性差に苦しむ場面もでてくるものと思います。
そんな時、
「女の子だって、暴れたい」
も
「男の子だって、お姫様になれる!」
も
大きなメッセージとして子どもたちの心の支えになってくれると良いな、って思います。
「自分の想いを否定しないで」
「自分をもっと好きになろう」
これを子供たち(と、その保護者に)ずっと訴え続けている
「HUGっと!プリキュア」。
ようやく次回新しいプリキュア2人が登場する様ですが、まだ「20話」なのですよね。
約50話あるなかで、まだ「半分」もいっていないのです。
ものすごい濃密な描写が続いているので、この先どんな展開が待ち受けているのか楽しみです。
あと。
(画像:HUGっと!プリキュア 第19話より)
敵組織「クライアス社」ですが、
「女の子だってヒーローになれる」
「男の子だって、お姫様になれる」
に続き
「悪役だって、定時退社できる!」
らしいですよ。
いいな、定時退社できる悪の組織。
新しい女性幹部も増えて楽しそうだし(不適切発言)
定時退社できるし、タクシーに経費で乗れるし、発注早いし。
何とか、入る方法ないのでしょうか。クライアス社。
(おわり)
性役割(せいやくわり、gender role)とは、その性別に、社会的に期待されている役割のことである。
例えば、「男だから、めそめそしない」「女だから、おしとやかにする」などの行動規範に従って行動するとき、その人物は性役割を演じているとされる。この場合、特定の性に本人の好むと好まざるとを問わず、一定の役割を期待すると共に、その役割に応ずる準備や能力、資質、性向がない場合、不要なストレス、劣等感を当事者に持たせ、社会的に自分が不完全であり、不適応であるとの疎外感や差別感を持たせることになってしまう。これは、女性に賃金労働上の成功のチャンスを与えないばかりか、男性にマッチョイズム(男性至上主義)のシンボルとして適合しない場合、その権威への落第者といった自己評価の低下をもたらすなど、さまざまな議論を投げかけるものでもある。
*3:※ここでいうジェンダー観とは、身体の特徴などの生来の性別の違いではなく、社会的、文化的につくられる性差の事を差します。