「他のディレクターさんとは違いますね」栗城さんに、そう言われた。褒め言葉ではない。困惑と失望が込められていた。
婚約者がいる、と栗城さんに聞いて、私は「是非お会いしたい。もしカメラに抵抗があるなら話だけでも聞かせてほしい」と頼んだ。彼はなかなか首を縦に振らなかった。「なんでそこにこだわるんですか?」「山に登る映像だけじゃ番組にならないんですか?」と渋った。
答えは簡単だ。登山家は命に関わる仕事だからだ。彼の講演からして「デズゾーン(死の領域)を行く登山家」と会場に横断幕が掲げられていた。「標高7500メートルを超えると、空気中の酸素は地上の3分の1になります。この領域はデスゾーンと呼ばれています」。そのデスゾーンに向かう婚約者を送り出す女性の気持ちを知りたかった。むしろそこに関心を持たない方がおかしい。
交渉を重ねてようやく会うことを許された。映像も音声も収録しない、話をするだけ、という条件だ。ホテルのカフェで会った婚約者のKさんは、栗城さんより一回り近く年上で身長も高かった(栗城さんは162センチ。「小さな登山家」を自称していた時期もある)。スラリとした細身の美人だった。Kさんの勤める会社が栗城さんの講演会を企画した縁で親しくなったという。
Kさんは、栗城さんが登山中にネット配信する動画は、「怖いので一切見ない」と言った。ヒマラヤ遠征から帰ってくる日だけをただ指折り待ち続けるだけ。両親は心配しているが、私は彼が無事に帰ってくるのを待つしかない。一日も早く念願のエベレストに登頂してもらって結婚をしたい……そんな話をしていた。多忙な本人は時間の感覚を忘れがちだが、待たされるだけの女性にとっては、彼が留守の一日は時間が止まったように長いのだ。そんな健気なKさんだが、時おり「あねご肌」も覗かせた。「え、そんな予定聞いてないよ!」「なんでテレビの人が知ってて私に言わないの!」と婚約者を叱責することもあった。
私のドキュメンタリー番組には、Kさんの姿こそ映らないが、栗城さんのマンションの玄関で二人が口論になるシーン、その後一度は車に乗り込んだ彼がまた家に戻って、「仲直りのオニギリ」を作ってもらって出てくる場面が構成されている。もちろん彼も了解の上で取材をした。
ある日、東京でのスポンサー廻りを取材後、一緒にホテルに帰ると、栗城さんの携帯電話が鳴った。「え、東京にいる?」と栗城さんが驚いた。日本にいるのに何でこんなに忙しいのよ!と、Kさんがしびれを切らせて会いに来たのだ。この後インタビューの予定だったが、私はKさんの気持ちを思い時間を譲った。
2009年秋のエベレスト初挑戦のとき、Kさんは栗城さんを成田まで見送りに行った。Kさんはそのころ仕事を週の半分にして、残り半分は栗城さんの事務所で伝票処理などの雑務をこなしていた。私は栗城さんと話し合った末、遠征中にKさんをカメラ取材する承諾を取り付けていた。
二人は、この年のクリスマスに結婚式を挙げる予定だった。式場を選んだのは、Kさんだった。「そこに下見に行ったら、窓がすごく大きくて、森をバックに雪がしんしんと降っていたんです。彼はもう一つ見た別の式場がいいって言ったんですけど、結婚式は新婦が主役よ、ってこっちに決めました」Kさんのはにかんだ笑みに、私は栗城さんの無事を祈った。
Kさんから私にメールが入ったのは、栗城さんが帰国した翌日のことだった。『彼が信じられないことを言い出しました』。
結婚延期を告げられたのだ。その後、私はKさんにも栗城さんにも会うことを拒まれるようになった。彼の登山スタイルに取材の意欲を失っていた私の、最後に残されたテーマもこうして立ち消えになった。
その数年後、風の便りに、Kさんの方から別れを告げた、と聞いた。