ナマケモノの飛行訓練

記憶のすべてがかすんでみえる。うろ覚えでつづるひこうくんれん。

雨に潜る。

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 どうやら関東もいよいよ梅雨入りとのことですね。

 

 梅雨入り。発表されるや急に快晴となるのがここ数年、お馴染みの気候なような気もする。この時期の長雨に窮屈なおもいをした記憶も、ないような気がする。どうだったか。今年はちゃんと降るのだろうか。どうなのだろう。

 

 そうかとおもえば突然のゲリラ豪雨。これはもはや梅雨というよりも新たな夏の風物詩という印象。梅雨入りと見せかけて、パンパンに膨れた太陽がこんにちは。あらゆる水分を気化させるまくり、ぎゅうぎゅうに集まる雨雲こんにちは。で、許容量を超えた水分がいっきに栓を抜いたように局所的に落ちまくる。これぞ日本の夏。亜熱帯化ニッポンこんにちはということだろうか。

 

 個人的には急な雨に降られるようなことは、そう嫌でもない。むしろ予期せぬハプニングとして少々ワクワクもするのだけれど、それが温暖化なぞの影響ともなると呑気に浮かれてもいられない。

 日本は四季がなくなり冬と夏だけになってしまうという声も聞くが、それはちょっと嫌だなとは感じる。生態系への危惧ももちろんだけれど、そんな難しい問題を抜きにしても、なんていうか、それじゃ弱いなぁ、風流。と率直に寂しくなる。

 春にも夏にも秋にも冬にも、わたしは常にしんみりとしていたい。四つの季節で同じようなしんみり感をいつでも味わって生きていきたい。

 

 なんだろう。いくらでもできるぞ、天気の話 。若い頃は天気の話なんてどうでもいい、しょうもない、なんなら天気の話なんて、何も話していないのと同じだとおもっていて、なんで大人は天気の話ばかりするのだろう、とさえおもっていたのだけれど、いつの間にやら今では真逆の感情を抱いているフシギ。

 ご近所さんと気候についてとりとめなく立ち話をする心のゆとり。なんと豊かな暮らしかな。

 

 それはともかくとして話を戻すと、わたしは濡れることをそれほど不快に感じないようだ。わたしのかのじょはまあ女性だということもあるだろうが極端に濡れることを嫌い、空がぐずつくとすぐに傘をもって出かける。

 わたしは少々の小雨ぐらいなら傘など持ちはしない。降られたら降られたで走ればいいかぐらいにしかおもわない。雨ざらしなら濡れるがままさと、ちょっとかっこいいではないか、キシシのし。

  

 ところでわたしの幼少期は海の側で育ったので、しょっちゅう海で遊んでいた。小学生をあがるまでは、五月から十月になるまで、ほとんど半年間を海辺で過ごした。

 だから梅雨時期にはすでに泳いでいた。もともと遊泳禁止の海岸だったので、海開きを待つ必要もなかった(フィクション)

 六月の雨の日に泳ぐ感覚がわかるひとはどれくらいいるのだろうか。わたしは雨の日に泳ぐのがとてもすきだった。

 雨の日はなぜだか海水が温かく感じ、水面を打つ細かい波紋をみているのは気分がよかった。泳いでも浜辺に上がっても同じように皮膚が濡れる感覚がつきまとった。

 目をつぶって潜ると、重力から解放された身体が喜んでいるのがわかった。くるりと回転をしたり深く潜ったりした。じぶんの長い髪の毛が、暗闇のなか踊っているのがわかった。続く限り目一杯、息を止めた。

 そうして水面に浮上し、目を開けてもそこはまだ海の中のようだった。海面は厚く覆った灰色の雨雲と同じ色をしていた。空と海の境界は雨で煙り曖昧になっていた。雨に潜っているような気持ちになった。

 

 おもえばそんな原風景の記憶とイメージに、わたしはいまだに捕らわれたままでいる。都会に絡められ、海に潜ることなんてしなくなったいま、わたしはその暮らしに少しだけ抗うふうにして、あまり傘を持たずに出かけるのかも知れない。

 

  そういうわけで、いまでも本当は雨天でもバイクで通いたいのだけれど、単純に危ないのと、年甲斐もなくずぶ濡れでパイクに乗っているというのも、ビジュアル的に少々恥ずかしいので、さすがに朝から土砂降りなぞの日には、不本意ながらも電車通勤に切り替えることになる。

 

 周知のとおり梅雨時の電車はかなり鬱陶しい。暑いとおもえば寒かったり、そうかとおもえばやっぱり暑かったり。如何ともし難い空調具合。やけに蒸して他人のにおいも自分のにおいも気になる時節。長距離で乗り合えばどことなくみんなギスギスしていくような雰囲気さえ、感じたりする。

 

 時々ぞうきんを絞ったようなにおいがほんのり車内に充満しているときもある。この時期のおじさんはもう少しにおいに気を払ったほうがいい気もする(もちろんわたし含めてだが)

 海岸の側には米軍基地もあったので少しわかるのだけれど、いわゆる外国人はおおむね、はっきりいって体臭がキツい。けれど、ほとんどのひとは香水を付けているので気になることは少ない。

 ところがこの香水の匂いもキツいといえばそうで、なかにはそちらのほうが耐えがたいというひともいるが、たしなみとして付けているぶんには、配慮のあることだとおもう。少なくとも日本人は体臭が弱いから問題ないと信じ込んでいるおじさんよりも、よっぽど紳士的だとはおもう。

 

 かといって、気にしなくてはならないのは、おじさんばかりでもないぞと言いたくもある。若い人の体臭も場合によってはけっこうキツかったりする。

 以前かのじょが講師だったころの同僚(ゲイ)のひとがたまに、「いぁん、におう〜、」と、この時期になると通りすぎる生徒たちを尻目にそっと耳打ちをしてきたそうだ。汗くさかったですねというと、「違う違う、これは思春期のにおいよ。」という。

  なるほどなんとなく若い子には独特の、果物が腐ったような、すえたような、何ともいえないにおいがあるような気がしていたのは、そのせいだったのか。

 わたしもかのじょも妙に合点がいったものだ。(こういうと語弊があるかもしれないが、)確かにゲイのかたに言われるとそういうものかなという気もした。そういうひとは性差に関する事柄に、敏感かつ的確なような気がするのは、偏見というわけでもなさそうだ。

 

 わたしの会社の最寄り駅には女子校ばかりが三つくらいあるので、雨降りの帰宅時には必ずその集団に出くわす形になる。ぴちぴちの若人に囲まれて帰宅なんて聞こえはいいかもしれないが、実情はそうでもない。この時期の電車通勤ともなると特に。 

 

 勉学や部活に勤しんだ若者たちがシャワーも浴びずに集団でホームを割拠する。彼女らはみんな一様に揃っていて、自分たちの匂いが気になるはずもない。そこではむしろわたしたち大人こそが異分子になる。電車に乗り込むと彼女らは、数人の仲良しグループで円を描くように立とうとする。ところがホームからはどんどん人が乗り込んでくる。そのなかにわたしも含まれる。

  彼女らは不快そうな顔をするが仕方ない。こちらも大変なのだ。痴漢に間違われる危惧さえある。なるべく両手をあげ、極力彼女らに触れないように努める。ぎゅうぎゅうになった車内。六月の雨。蒸された身体。気化熱。ぞうきんのにおい。すえたにおい。汗に混じった思春期のにおい。わたしはぐっと我慢する。

 わたしは心の中で「いやぁんにおう〜」と呟いて、静かに目をつぶり、息を止めて海の中を潜る。ゆらゆら踊るイメージを描く。

 目を開けると、窓には空とビルの境界が雨に煙り、曖昧になっている。