Die Zeit heilt alle Wunden《完結》 作:ダイコクコガネ
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アゼルリシア山脈。それは王国と帝国の間に境界線を引くように存在する、魔の山脈だ。南側の麓にはトブの大森林が広がっており、極寒の山々の北側は海に隣接している。
生態系の頂点としてフロスト・ドラゴンやフロスト・ジャイアントなどが生息しており、彼らは日々この山脈の覇権を争い――有象無象のその他として、ドワーフや多数の亜人種が暮らしていた。
そんな山脈にある山の一つを、ある亜人種が登っていた。
奇妙な亜人種だった。
人間のように手足を持ち、ワニのような硬い鱗と長く伸びた尾を持ち、二足歩行する種族。その爬虫類に似た姿を持つ亜人種を、一般的にはリザードマンと呼ぶ。しかしその山の中を歩いているリザードマンは、同じリザードマンから見ても「異形」としか言いようのない体躯をしていたのだ。
二メートルを超える巨体。異様に右腕の筋肉が発達し、シオマネキのような姿。薬指と小指が根元から欠けてしまった左手。胸に押された焼印。
彼の名は、ゼンベル・ググー。外の世界へ飛び出すことを決め、リザードマンの階級社会から外れた、“旅人”である。
ゼンベルは背の高い木々に囲まれた、坂になっている荒れた草と土の上を踏んで歩く。リザードマンの足の指の間には水かきのヒレがあり、水の中を走ることは得意であるが反面、陸地を歩くのには適していない。そのため山を登る速度は遅々として進まないが、それでもゼンベルは山を登った。
登っていく内に青空は茜色に染まっていく。木々の隙間からその光景を見たゼンベルは、さすがに夜闇の中を歩くほどの蛮勇は持ち合わせていなかったので、この近くで一晩を明かすことにした。
ゼンベルはちょうどよい茂みを見つけ、その背の低い草をクッションにして座り込む。途端、凄まじい疲労が全身を襲いかかってきた。
(……山を舐めてたな)
ゼンベルは心の中で舌を巻き、その場で疲労を回復する。寝そべることはしない。いつこの山に棲息するモンスターに襲われるか分からないのだ。身を起こす一瞬の隙が煩わしい。
「……ふぅ」
ゼンベルは息を整える。周囲の警戒は怠らない。何か敵意がある存在が近寄ったら、即座に反応するためだ。そうして座り込んでいると、茜色の空はすぐに暗くなっていき――木々が月や星の輝きさえ遮って、周囲を暗闇が覆う。ほとんど、何も見えなかった。
ゼンベルは緊張に震える。たった一人で、こうして大自然の中を過ごすということが、ここまで恐ろしいとは今まで想像もしていなかった。
(……ここまで疲労が強いと、明日は食料と水の確保に専念した方がいいな)
だが、水場には動物だけでなく様々なモンスターが集まるのが常識だ。果たして明日までにこの疲労が完全に取れているか――
(いや! 関係ねぇ! 俺は強くなるためにこの山を登ったんだ! ……多少、コンディションが悪い程度で負けるってなら、俺は所詮そこまでのオスだったってわけよ!)
ゼンベルは自らにそう喝を入れ、精神を落ち着かせる。例え万全の状態でないとしても、明日は食料と水の確保だ。例えモンスターがいようが、その予定を確定とする。
強くなるのだ。強く。リザードマンの誰よりも。――“
ゼンベルは、そのためにリザードマンの集落を離れ、旅人となったのだから。
翌日、なんとか無事に夜の山で一夜を明かせたゼンベルは、予定の通り水場を探す。しかし、体調はやはりと言うべきか、万全とは言い難かった。むしろ――
(クソが! 全然寝た気がしねぇ……)
休む前より悪化しているような気がする。当然だ。意識が沈もうと些細な物音がする度に目を覚まし、何度も浅い眠りを繰り返すばかりでは疲労が回復するはずが無い。幸い、ゼンベルの手に負えないモンスターには今のところ遭遇していないが――このままではいつかは、手に負えるはずのモンスターでさえ手に負えなくなるだろう。
ゼンベルは何度も足を止め、耳を澄まし、木々の騒めきの他に水の音がしないか確認する。動物の鳴き声がした場合は、そちらに足を進め――時折空を見上げては、木々の隙間から空の色を確認した。日が暮れる前に、なんとか水場を発見したかった。
そうして何度も注意深く、根気強く探っていたためか――ゼンベルの努力は天へ通じ、ゼンベルは大きな水場ではないが、ちょろちょろと水が流れる小川を発見することが出来た。
「水……!」
ゼンベルは地面に膝をつき、顔を水に浸けて喉を潤す。川底は浅く、手を伸ばせば川底の石を探れそうだ。川底の石を退かすと、その石の下に潜んでいた蟹が驚いて別の石の下に逃げようとする。ゼンベルはそれを捕まえ、口の中に放り込んだ。蟹はゼンベルの好物である。
「あー……うめぇ」
口の中で咀嚼し、飲み込む。一応、普段は全く食べない木の実などで飢えを凌いでいたが、やはり食べ慣れない物なだけあって、全く食べた気がしなかったのだ。酸味と甘味が融合したような、果実の味はリザードマンの舌にはまったく合わなかったのである。
「……今日から、この川の上流を目指して進むか」
ゼンベルはそう決め、その日は小川の近くで一夜を明かす。勿論、昨夜と同じように寝そべることはしない。
――次の日。ゼンベルはやはり、疲れの取れない、睡眠不足のまま行動を開始した。しかし、前日ほどの疲労は感じない。これは水場の近くを歩いているという、精神的な意味での安息がもたらした結果だろう。
ゼンベルは小川の上流を目指し、足を進める。何度かモンスターに襲われたが、幸いにもゼンベルで対処出来る程度の強さのモンスターだった。
そうして数日間かけてゼンベルは山を登っていく。小川であったものが段々と横幅が広くなり、流れも速くなっていた。もはやゼンベルの足腰であっても、流されないのが精いっぱいの流れだ。対岸に渡ることは不可能だろう。
(……まずいな)
それが意味することを悟ったゼンベルは、内心で舌打ちをしながら上流を目指す。そして――
「……ケッ! やっぱり滝かよ……」
段々と大きくなる、爆音とも言えるような水の音を捉えたゼンベルは、溜息をついた。おそらくこのまま川に沿って歩いても、そこには滝と崖があるだけだろう。崖の高さ次第では、ゼンベルは迂回するしかない。
「……とりあえず、滝壺までは進むか」
ゼンベルはそう決めて、足を進める。叩きつけるような水の音は激しくなる一方で、ゼンベルの予想を確信に導いていた。
「――――はぁ」
そして、ゼンベルは滝壺に到着する。滝を見上げたゼンベルは、その滝が三〇メートルはあろうかという長さなのを見て、早々に崖を登ることを諦めた。
「すぐに迂回道が見つかればいいんだがなぁ……」
尾を不機嫌にびたんびたんと地面に叩きつけ、ゼンベルは呟く。とりあえず、今日はこの近くで一夜を明かそうと決めて――水の音では無い、別の物音に気がついた。
「……なんだ?」
その奇妙な音の発信源を探す。水の音に紛れているこの奇妙な音。これは――滝の上から聞こえてきていた。
何かが、滝から降りてくる。それに気づいたゼンベルは、急いで近くの木に身を隠す。正直、ゼンベルの巨体では頭隠して尻隠さずといったところだが、それでもそうしないよりマシだ。
ゼンベルが身を隠して滝を窺っていると――ついに、
(――デケェ! なんだありゃ!?)
それは、細長い体躯の魚だった。しかし顎が異様に伸びており、口の中は鋭い歯がびっしりと生えている。何よりも異様だったのはその体躯だ。あまりに大き過ぎる。おそらく、十メートル近くあるだろう。ゼンベルでさえも一飲みにしてしまいそうな巨大魚だ。そんなものが滝から降ってきたのだ。
バン、と巨大魚が滝壺に叩きつけられる。大きな水柱が上がり、雨が降るように、水飛沫が周囲に降り注ぐ。
巨大魚は滝壺に降りたと同時、何故か異様に暴れている。ぐるん、ぐるんとその巨大な体躯を動かし、何かを振りほどこうとしているようだった。
そして、ゼンベルは見た。巨大魚の上に乗る、漆黒の影を。
「――――!」
巨大魚の上に漆黒の
しかし、漆黒の戦士は大剣を巨大魚に突き立てたまま、平然と暴れる巨大魚の上に立っていた。そして――もう片方の手に握っていた、同じような大剣を巨大魚に振り下ろす。
一閃。血飛沫が舞い、巨大魚の頭部が胴体から切り離される。
巨大魚は完全に沈黙し――漆黒の戦士は沈む巨大魚の上から飛び去るように跳躍。そのたった一度の跳躍で、滝壺から岸辺へと降り立った。
漆黒の戦士に汚れは、何一つ存在しない。舞った血飛沫さえ、漆黒の戦士を汚すことは叶わない。漆黒の戦士に飛び散る前に、その戦士は既に血飛沫の範囲から逃れていたが故に。
(出来るか――俺に! あの巨大な魚モンスターを、あそこまで鮮やかに倒すことが!)
不可能だ。ゼンベルには出来ないだろう。討伐することは可能だろうが、あそこまで完璧に、鮮やかに完全勝利を収めることなぞ出来はしない。
そして――かつて自分が敗北した、あのリザードマンでさえあそこまでの完全勝利は不可能だろう。
凄まじい技量をゼンベルに見せつけた漆黒の戦士は、背中に両の大剣を仕舞うと崖の上を見上げる。ゼンベルが何をするつもりかと眺めていると――漆黒の戦士は再び跳躍した。
「――――」
ゼンベルは口をぽかんと開けて、漆黒の戦士を見送る。
漆黒の戦士は
後には――呆然とするゼンベルと、頭部の無い巨大魚だけが残された。
「…………」
ゼンベルは崖と、頭部を失った巨大魚を見比べ――
「――オオオォオォォオッ!!」
咆哮。その絶叫染みた声は山に響き、木の上にいた鳥達が驚きで飛び去っていく。
「フーッ! フーッ!」
心の底から、腹の底から咆哮を上げたゼンベルは、続いて心を落ち着かせるように息を吐くが、それも乱れていた。
――悔しかった。そして、同時にやはり旅人になったのは間違いではなかったと……心の底から確信した。
世界は広い。リザードマンの世界は狭い。こんなところに、自分やあのリザードマンでは勝てないような相手がいる。
強くなるのだ。必ず。あの
ゼンベルがそう決断し、最初の一歩を踏み出そうとしたその瞬間――
「――え?」
背後から、物音。続いて、裂くような絶叫。まるで断末魔のような……。
ゼンベルが慌てて背後を振り返ると、まるで揺らめくように、滲み出るようにゼンベルの体躯より巨大な蜘蛛が現れた。口らしき部分から泡と粘ついた血液を溢れ出させ、その胴体部分には深々と大剣が突き刺さっている。胴体に大剣を突き刺され地面に縫い付けられたその姿は、まるでモズのはやにえを思わせた。
「な、な、な……」
何が起きたか分からない。分かるのは一つだけだ。この大剣を、自分はつい先程見た気がする。頭上から声が降りてきた。
「不可視化が出来る蜘蛛が潜んでいるから、この山ではそう大きな声を出さない方がいいですよ。転移門のせいで、生態系が狂っていますから」
その声に弾かれたように頭上を見上げる。滝のある崖の上、そこに――先程去ったはずの、漆黒の戦士がゼンベルを見下ろしていた。
●
漆黒の戦士の名はモモンガ。このアゼルリシア山脈の近くにある、亜人達の国アーグランド評議国で冒険者をしているのだとゼンベルは説明を受けた。崖の上に去った後のモモンガは、ゼンベルの咆哮に驚いて踵を返し、ちょうど不可視化している蜘蛛系モンスターがゼンベルを襲おうとしているのを発見。背中のグレートソードを投擲して助けてくれたらしい。
助けてくれた理由は、評議国にもリザードマンが住んでおり、冒険者の同僚がいたので
「――それで、君はどうしてこんな山に?」
モモンガの疑問は当然だ。リザードマンは湿地ならともかく、陸地を歩くのに適していない。それがこんな山の中を歩いているのだから不思議に思うだろう。ゼンベルは説明した。
別部族の族長であるリザードマンに負けたこと。強くなりたかったこと。この大きな山になら、強い者がたくさんいるだろうと思い武者修行にちょうどいいと思ったこと。そして――知識を得るために、ドワーフを探していたこと。
ドワーフを探していると告げたゼンベルに、モモンガは驚いたようだった。
「ドワーフ? なんだ、ということは目的地は同じなんだな。私も私用でドワーフの国を探していてね」
「そうなのか?」
「ああ。評議国では作れない装備を作って欲しくて、ドワーフなら出来るかもと思ってな。とは言っても、見つけた都市は廃墟でどうしたものかと思っていたんだが」
(ゼンベルにムズムズするからやめてくれと言われて)敬語をやめたモモンガの言葉に、ゼンベルも驚いた。廃墟、聞いていない。
「西の方にあった裂け目の奥に存在する都市を見てきたが、何かに襲撃でも受けたのかとても住めるような状態ではなかった。ただ、噂話を聞いたかぎりでは、人間の国の一つ、バハルス帝国は未だにドワーフが数人貿易に来ているようだから、どこかにはいるんだろう」
「へぇ……」
ドワーフはまだ生きている。それを聞いてゼンベルは安心した。さすがに、目的の一つがこうもあっさり消えてしまうと、悲しいものがある。
ただ――知識を得るという目的は、目の前の戦士からでも得られるような気がした。強さの方も。しかし――
「――私に稽古? あー……やめておいた方がいい。私も他者に教えられるような腕ではなくてね。それに、私の本分は
魔法戦士。魔法を使うことが前提の戦闘スタイルは、確かにゼンベルの戦闘スタイルとは全く違う。ゼンベルは魔法なんて使えない。
戦士としての腕前はゼンベルから見て、謙遜が過ぎると思ったが――おそらく、モモンガはまだ自分の腕に納得がいっていないのだ。未だ精進の身であると本人が告げる以上、稽古をつけてくれとゼンベルは確かに言いにくい。
だが――
「なら、せめて一度でいいから戦ってくれよ。俺とアンタの間にある、強者の差ってやつを心に刻んでおきたい」
「……手加減は苦手なんだが」
「構わねぇさ。死んじまったら、
ゼンベルはそう断言し、モモンガに立ち向かった。
結果は、言うまでもなく。ゼンベルが目を覚ました時、太陽は既に真上にあった。ずっと気絶していたらしい。
「起きたか? さて、私はもう行くが――ここから崖沿いに十キロ進んだところに、坂道がある。ただ、この川をもう一度見つけて川沿いに進もうと思うのはやめておけ。崖の上は熱帯雨林染みたことになっていてな、あの蜘蛛みたいなのがうじゃうじゃいるし、川沿いなんて歩いていると魚に一飲みにされるぞ」
見張りをしてくれていたらしいモモンガが、ゼンベルが起きたのを見てそう忠告する。ゼンベルは痛む頭を抑えながら、素直にモモンガの忠告に頷いた。不可視化する魔物に襲われては、さすがのゼンベルも対応出来る気がしない。
奇妙な戦士との会話はこれで終わり。モモンガは前と同じように、平然と跳躍だけで崖を登って姿を消し、ゼンベルは再び、ドワーフの姿を探して山を登っていく。
同じくドワーフの国を探す者同士。再び、どこかで出会うこともあるだろう。ゼンベルはこの偶然を偶然として片付けて、再び山を登っていく。
モモンガにグレードソードの柄で小突かれたであろう額だけが、一夜明けても無性に痛かった。