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松坂大輔、退団後も古巣に…寺原隼人が明かす「冷蔵庫伝説」【喜瀬雅則】

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 2001年、盛夏。寺原隼人は、甲子園のマウンドで松坂大輔の「球速」を超えた。1983年生まれの寺原と1980年生まれの松坂には、高校時代の直接対決はもちろんない。それでも寺原は松坂大輔という“見えない目標”を常に追い続けていた。

 その2人が2015年から3年間、ソフトバンクで僚友となった。

「超えた男」と「超えられた男」。

 甲子園のスターだった2人が、長い月日を経てチームメートになった。その2人の“交錯”から、松坂大輔という男の一面が浮き彫りにされるはずだ。

 そう思って、寺原に問いかけてみた。

「松坂さんのことなんだけど?」

 その瞬間、寺原の表情が緩んだ。

 「あの人、ね」

 そう前置きして返ってきた答えに、実はちょっと拍子抜けしたところがあった。ただ、よくよく聞いていると、これほどまでに「松坂大輔」という男の“デカさ”を感じるエピソードも、これまでなかったような気がする。

 前置きが長くなった。

 寺原が語ってくれた松坂大輔という男。そのストーリーを綴ってみたい。題して「冷蔵庫伝説」だ。

 福岡・筑後にあるソフトバンクのクラブハウス。ここは2軍、3軍の選手たちの練習拠点になっている。

 1軍登板1試合に終わった松坂の3年間のソフトバンク生活。この筑後は、彼がリハビリに明け暮れ、悔しさを押し殺し、復活を期して地道にトレーニングを重ねてきた場所でもある。

 クラブハウスの1階にある「トレーナー室」。選手たちは、そこでトレーナーから疲労回復のマッサージを受けたり、アイシングを行ったりする。そこに設置されている1台の冷蔵庫がある。そのドアを開けると、いつもぎっしりと缶コーヒーやミネラルウォーターが補充されていた。

 冷蔵庫横には段ボールのケースが置かれている。飲み物を冷蔵庫に移し替えるのは若手選手の役割だ。その段ボール箱の伝票に書かれた差出人の名前は「松坂大輔」。松坂は冷蔵庫の中の飲み物が切れないよう、数が少なくなれば自ら通販会社に連絡し、発注して送ってもらっていたのだ。それは常々お世話になっているトレーナーたちへの差し入れという意味合いが大きかったという。もちろん、松坂のポケットマネーだ。

「松坂さん、ごちそうさまです」

 若手選手たちは、いつしか松坂がその場にいなくても、そうつぶやき、各々が好きな飲み物を取るようになり、それが当たり前のようにもなっていた。しかし、昨年11月5日に松坂の退団が発表されると、その日から冷蔵庫の飲み物が減ることはあっても、増えることはなくなっていた。

 ある日のこと。寺原がその冷蔵庫のドアを開けた。

 空っぽになっていた。

 もう、松坂さんはいないんだ。その寂しさが、ふと心によぎった。その感傷とともに、ちょっと茶目っ気が出た寺原は空っぽの冷蔵庫の中をスマートフォンのカメラで撮影したという。

「あの人に、送ってみようかな」


 その場で写真を添付し、LINE(ライン)で松坂へこう送信したのだ。

「松坂さんがいなくなったから、冷蔵庫、空っぽですよ」

 その数分後だった。寺原のスマホにメッセージが届いていた。差出人は「松坂大輔」。「早いな……」と思ってメッセージをクリックした瞬間、寺原は仰天した。

「これでいい?」

 メッセージとともに添付されていた画像は、なんと注文書だった。松坂は空っぽの冷蔵庫に入れる飲み物をいつも通りに発注して、その注文が受理されたことを示す業者側のメールを寺原に転送してきたのだ。

「ビックリしました。ホント、すぐですよ」

 感激と驚き。ただ松坂も茶目っ気を忘れていない。こんなメッセージも続けて寄越した。

「これからは、ワッチに頼んでね~」

 ワッチとは、和田毅の愛称だ。松坂と同級生でソフトバンクのエース左腕。『最年長なんだから、後輩たちの面倒はお前が見ろよ』。和田へ向けた、ちょっとした松坂流の苦言でもあったようだ。

 寺原が言う。

「ホントに写メを送ってからすぐだったんです。でも、そんなこと、普通してくれます? あの人、中日に行ったのに、僕らの飲み物を買って送ってくれるんですもん」

 さらに、この話には後日談がある。

 松坂の発注した飲み物のケースが筑後の寮に届いた。差出人の名前を見た寮の関係者が運んできた業者に「これ、間違いですよ。もう松坂はいませんから」と言ったが、念のため松坂に直接連絡を入れると「僕が送りました」と言う。「そんなの、先に言っといてくれよ」と、寮の関係者も仰天したという。

 しかも松坂は、今も時折筑後のトレーナーたちや後輩たちへ飲み物の差し入れを送ってくるというのだ。

「もう、神対応ですよ」

 寺原は松坂の偉大さを痛感したという。

 日南学園時代の寺原は「松坂二世」の異名を取った。
 
 松坂は横浜高時代の甲子園で151キロをマークした。それが当時の「甲子園最速」記録だった。

「それを超えたかったんです。だって僕が松坂さんに勝てるとしたら、それしかなかったんです」

 松坂を超えたい。甲子園で。寺原は、そのことだけしか考えていなかったという。


「今だから言います。ホント、高校時代のチームメートには悪かったなと思います。でも、あの時の僕はスピードを出すことしか考えてなかったんです」

 思い切り腕を振った。勝つためにかわす、力をセーブする。そんなことはまったく頭になかった。松坂さんを超えてやる。俺が一番になる--。

 2001年8月16日。2回戦の玉野光南戦。寺原の剛速球がうなりを上げたのは6回だった。ネット裏に陣取っていたアトランタ・ブレーブスのスカウトが構えていたスピードガンの表示に、周囲がどよめいた。

「98」

 マイル表示だった。キロに換算すると「157.7」。テレビ中継の表示でも「154」。寺原がスピードで松坂を超えた瞬間だった。

 甲子園最速をマークした寺原だが、準々決勝では松坂の母校・横浜に敗れてベスト8に終わった。春夏連続制覇、PL学園との延長17回・250球の熱投、京都成章との決勝戦ノーヒットノーラン。松坂が高校3年の夏に築いた数々の伝説には遠く及ばなかった。そもそも自分に、そんな離れ業ができるとは思ってもいなかったという。だからこそ、彼はスピード超えだけを狙ったのだ。ギラギラした野心。若き日の思い出だ。

「自分がプロになりたい。そう思うようになったのは、あの人を見たからです」

 寺原は松坂の存在をそう表現する。

 プロ1年目の2002年5月29日。寺原は西武・松坂と先発で初対戦した。「怪物対決」と騒がれた18歳と21歳の初対決は、6回108球、151キロの剛球をマークした寺原が松坂に投げ勝ち、白星も挙げている。

 その「憧れの人」と一緒に過ごした2015年からの3年間。寺原は今、ちょっとだけ悔やんでいることがある。

「グッズとか、もらっとけばよかった……。実は持ってないんですよね、松坂さんのもの」

 グラブでもウエアでも何でもよかった。退団に際してロッカーを整理していた松坂が処理するグッズを分けていたとき、寺原は誰もいない筑後のロッカーに無造作に置かれていたその“処分予定品”を、こっそり探ったという。その中に汗取り用のウエア、通称“しゃかしゃか”という、走るとそんな音がする、あの薄いウインドブレーカーがあった。そして、そのウインドブレーカーには松坂の背番号『18』が記されていた。


「これ、いいな」

 しかし、背中を見たら「MATSUZAKA」の名前がどこにも入っていない。ちなみに松坂から背番号18を受け継いだのは寺原と同じ宮崎県出身の後輩の武田翔太だった。

「18だけだったら武田ですやん。武田と思われたら嫌やし……。だから、もらうのはやめときました」

 今季の寺原は右膝痛で調整が遅れていたが、交流戦開幕から1軍に昇格した。サファテ、岩崎翔がいない救援陣の中で中継ぎもセットアッパーもできるタフな右腕は重宝されている。6月5日のヤクルト戦(神宮)では9点ビハインドという状況の5回からマウンドに上がると、残る4イニングを無失点で切り抜けた。34歳の右腕は、まだまだ健在だ。

 松坂大輔と寺原隼人。甲子園の夏を沸かせた2人はプロで投げ合い、チームメートにもなり、そして今、再び「好敵手」として相対するときがやってきた。

「松坂さん、ウチの試合で投げるんですよね」

 寺原が嬉しそうにつぶやいた。ソフトバンクは6月8日からナゴヤドームで中日との3連戦に臨む。松坂はカード初戦となる、きょう8日の先発が決まった。

 松坂対ソフトバンク。古巣に対して、どんな投球を見せてくれるのだろうか。「99」を背負った憧れの人との再会が、寺原も待ち遠しくて仕方がない。(文・喜瀬雅則)

●プロフィール
喜瀬雅則
1967年、神戸生まれの神戸育ち。関西学院大卒。サンケイスポーツ~産経新聞で野球担当22年。その間、阪神、近鉄、オリックス、中日、ソフトバンク、アマ野球の担当を歴任。産経夕刊の連載「独立リーグの現状」で2011年度ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。2016年1月、独立L高知のユニークな球団戦略を描いた初著書「牛を飼う球団」(小学館)出版。産経新聞社退社後の2017年8月からフリーのスポーツライターとして野球取材をメーンに活動中。
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