【連載1】加護亜依 母は私の名前を「パセリ」にしたかったらしい…
【加護亜依の笑うカゴには福来る!?:連載1】「モーニング娘。」時代に「加護ちゃん」の愛称で親しまれたタレントの加護亜依が今年、三十路を迎えた。節目の年に、激動の半生を振り返る渾身の連載がスタート! 知られざる幼少期から頂点を極めたアイドル時代、ワイドショーを騒がせたプライベート、そして結婚して母になるまで――。波瀾万丈の30年の足跡をたどっていく。
「死んじゃった…」
1988年2月7日、奈良県の病院。当時19歳だった母は、産声を上げずに真っ青な顔色をした私を見て泣きじゃくったそうです。
心肺停止。生まれてもしばらく呼吸しなかったそうです。
ほどなくして産声を上げて泣きだし、主治医の先生が「奇跡の子だね」と言ったのが私の“生”の始まりでした。
この話を小学生になって母から聞きましたが、へぇ~としか思いませんでした(苦笑)。だって当然、記憶になく、今、元気なので。ただ、5歳の長女と1歳の長男を育てる母親となり、そんなことが起きたらショックを受けただろうなと思うようになりました。
私は生まれながら心臓に穴が開いていて、しばらく保育器に入っていたと母から教えられました。穴は自然にふさがりましたが、いまだに心臓がキューッと痛くなることがたまにあって。皆さんもそういうことあるかな?
名前の「亜依」は、母の名前と母のいとこの名前から1字ずつもらいました。由来は「誰からも愛されるように」。最初つけようとした「愛」はそのころ、はやっていて「亜依」にしたそうです。
でも、母は「パセリ」にしたかったと!「加護パセリ」って(苦笑)。
母は少々、ぶっ飛んでいます。3文字の名前にしたかったらしく、かつ「パセリ」という響きが好きだったそうです。
中学生になって、母から「ホントは『パセリ』にしたかったの」と言われ「えっ、ウソでしょ…」と絶句。それじゃなくて良かったです。ほんの数年前だったら、キラキラネームでありそうだけど、30年前は時代に合わずにいじめられそう。今でもレストランでパセリを見ると、あぁ…と思い出します。
小さいころはとても人見知りでした。母がそばにいないとダメ。どこに行くにも金魚のふんみたいにくっついていました。
当時、母の世代ではロングスカートがはやっていました。自分でも覚えていますが、例えば夕飯の買い出しにスーパーへ行っても母のロングスカートの中に潜り込み、お尻に抱きつきました。さすがに歩きづらいですよね。スカートがめくれて下着が見えそうになり「やめて~!」と言われました。「ダメ!」と注意されると立ち止まって大泣き。それくらいくっつき虫でした。
困った母はスカートをはかなくなり、パンツスタイルに変わりました。私はそれでもくっつきました。まさに甘えん坊。5歳くらいまで続きました。
モーニング娘。として2000年にデビューした後、弟、妹、そして弟と年が離れたきょうだいが3人生まれます。みんな今、10代だけど、仲は良くて。家族でグループLINEを作っていて、今でも1日1回は母をイジっています(笑い)。
次回は“モグラ”になりたかったお話です。
☆かご・あい=1988年2月7日生まれ、奈良県出身。血液型=AB。4人きょうだいの長子。2000年に「モーニング娘。」の4期生として辻希美らとともにデビュー。明るい性格で人気を博し、国民的アイドルとして活躍する。04年、グループを卒業。幾多の騒動や離婚を乗り越えて再婚。現在はタレントや女優、歌手と幅広く活動。家族は一般男性の夫、5歳長女と1歳長男。今月27日に東京・GINZA Lounge ZEROでライブを行う。
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