姫岩伝説 (創作民話)

 舗装された滝道から、その対岸の道、いわゆる左岸の道へと、鶴島橋と名付けられた橋を渡った場所に、姫岩と云う巨石がある。それは、修業の古場の真下でもある。その岩は、まるで刃物で切られたように、縦に真っ二つに割れ、その間は、人がちょうど一人通れるくらいの隙間になっている。おそらく、活断層の真上にあって、地震によって割れたものであろう。
 その名の由来は、多分、女性の性器になぞらえたと云う、単純なものであろうか。
 しかし、それでは、「姫岩」という美しい名にふさわしい夢を感じることが出来ないし、何よりも、少しエゲツナ過ぎる。
 そんなことを思いながら、私は一つのストーリーを作っていった。
 

その若い山伏は片目であった。なんでも東の方の国からやって来たとのことだった。彼が語るともなく呟くところによると、女の美しさに心を奪われ、戦の場で不覚にも左目を失ったとのことである。

 彼はある荘園の庄司の三男、俗名は兵衛。既に可憐な妻がおり、子供までなしていた。ところが、隣の国と戦になり、彼も郎党を率いて戦場に赴く。激しい白兵戦の最中、一軍を率いて側面から襲いかかろうとする敵の将をふと見ると、見目麗しい女武者、流れる様な黒髪を純白の鉢巻できりりと結び、身には小振りな緋威しの鎧を着け、栗毛の馬に打ち乗って、今にも、弓矢をきりきりと引き絞る。その矢の先は明らかに自分に向けられていた。しかし、彼は彼女の余りの美しさに呆然とし、一瞬すべてを忘れた。彼は彼女の弓から引き放たれた矢が飛んで来るのを、まるでスローモーションカメラを見るように、ぼんやりと見ていた。

 矢は過たず、彼の左目を深々と貫いた。どっと馬から落ちる。郎等たちが走り寄る。そして、意識を失った。
 気が付くと、我が家の館(たち)の広間の中だった。傍らで妻が看病をしてくれている。子供の顔も見えた。しかし、彼は再び意識を失い、十日余りも呻き苦しんだ。夢の様な無意識の中に、あの美しい女武者の顔が何度も何度も現れて来た。自分を射た女であったが彼女に対しては何の憎しみもなかった。いや、それどころか、彼は夢の中で彼女としっかり堅く抱き合っていた。

 再び意識が次第に戻ってゆき、武士としての我が身を思い出した時、彼は激しい自己嫌悪に陥っていった。女の色香に迷ってこの不覚。この不覚はどう贔屓目に考えても、自分自身の中にある色欲によるもの。

ようやく傷が癒えた日、彼は妻に「山へ入る」とだけ告げて、何一つ持たずに館を出た。
山伏の中に身を投じ、己の中にある淫欲の血を最後の一滴までも振り払おうと考えたのであった。
「貴方、どちらへ」と、袖を抑えて引き止める妻を、邪険に振り払うと、後ろも見ずにすたすたと歩いて行った。
 
 それから、彼が何処をどう歩いたのかはつまびらかでない。羽黒山に入り、戸隠山へ行き、更に西へ歩いて、ここ箕面山までやって来た。この時、彼は忍快と名乗っていた。箕面寺は修験道山伏の発祥の聖地。しかも、女体にまします弁才天を祀る寺。女淫の邪心を消し去るには、かえってこの地が相応しいように思われたからでもあった。

 彼は寺に杖を留めたその日から、「修行の古場(しゅげのこば)」の岸壁の上で座禅を組み、般若心経を唱え続けた。
 眼前を滔々と流れる激流の音に、彼の読経の声がかき消されても、彼は朝から夜まで、いや、時には夜を徹して一心不乱に、ひたすらに般若心経を唱えた。。
 
ある朝、彼がふと対岸に目をやると、巨石の上に一人の女がうずまくっていた。彼は、またしても女武者の幻が現れて、我が道心を迷わそうとするのかと思ったが、再び目をやると、それは紛れもなく故郷に捨て置いた我が妻に相違なかった。

 その時、妻の方も、我が夫をはっきりと見た。
彼女は、よろよろと岩の上に立ち上がりながら、
「あなた、貴方、兵衛さま、兵衛さまではありませんか・・・」
と叫んでいた。
 
彼女はあの日から、我が夫を尋ね歩いた。親たちが止めるのを振り切り、侍女三人だけを連れて夫を追った。夫と思しき人が通らなかったかと里人に尋ねては、夫が向かったと思われる方へと急いだ。

 彼女は、夫なる兵衛とは遠縁に当たり、幼な友達であった。彼女は人々から「館(たち)の姫君」と呼ばれていたので、夫はいつも彼女を「姫」と呼び、自分も夫のことを「兵衛さま」と呼んでいた。

 やがて長じて後、彼女は彼の武人として凛々しい姿に恋心を抱く。微笑ましい二人の姿に、親たちは二人を結ばせた。嫁して妻となった時からは、家にあっては優しく、郎党に対しても思いやり深い彼に、この人にこそ私の総てを捧げようと心に深く決めていた。
 
 そんな彼が、突然に家を出ていってしまったのである。何よりもまず、何で家を出たのかを知りたかった。誰か他の女の人に心を移したのかとの疑念もあった。しかし、そんな事よりも、この人にこそ添い遂げようと決めた心を貫きたかった。

 こうして、彼女は羽黒まで辿り着いた。そこは女人禁制の山。山麓の村々を尋ね回って得られたことは、それと思しき男の人は既に羽黒を出ていった様子。そして、戸隠へ辿り着いたが、ここでも同じだった。こうして、とうとう箕面に来た時、夫と思われる人がこの山中に居ること知った。その時までに、付き従った侍女も、一人去り二人去り、彼女は一人きりになっていた。

やっと追いついた。しかしここも女人禁制の寺。山門へと続く渓流の細い道は、既に枯れ葉を散らし始めた木々によって厚く覆われていた。彼女は、その渓流の岩陰で、ひたすらに彼を待つより他になかった。
 そして、遂に、愛する夫をその目で見ることが出来たのである。
 
 夫も我が妻をはっきりと見た。自分をここまで追いかけてきた妻へのいとおしさが、わっと胸にこみあげて、思わず「姫」と叫びかけた。

 しかし、彼はそれにぐっと耐えた。たとへそれが妻とは云え、ここで女人に心を移したならば、今までの必死の修行も一瞬にして空しいものになってしまう。 女人への一切の思いを断ち切ろうとした日々が霧のように消え飛んでしまう。彼は敢えて目をつぶり、顔を伏せた。
 
 その時であった。「あぁっっ・・・」
 我を忘れて走り寄ろうとする妻は、高い巨岩の上から足を滑らせて、谷底に転落した。谷底の岩が彼女の頭部を砕いた。
 
 それでも、忍快坊兵衛は微動だにしなかった。彼は溢れ滾る思いを必死で耐えていた。そして、ただ一心に般若心経を唱え続けていた。
 
 寺の僧たちは、彼女の亡骸をその岩陰に葬った。
 
 兵衛は、もはや、その場を動こうとはしなかった。夜になっても、朝になっても、風が吹こうと、時雨が降りかかろうとも、・・
 彼は、妻が死んだ対岸の岩の上に、妻の幻が立つのを見ていた。そして、妻の声を聞いていた。
「貴方は、つれないお方。妻を捨て人を悲しませて、何の悟り。私は今や怨霊となって貴方を道連れにしないではおきません」

 彼は、その声もまた我が心の迷妄に過ぎぬと、さらに読経を続けるのであった。
 そして、七日目の朝、彼は事切れた。餓死である。
その時、彼の身体は大きく揺らいで、そのまま谷底へ崩れ落ちた。
 
やがて、修行の古場の対岸の大岩の上に、夜になると女人の亡霊が立つと云う噂が広まった。しかも、その亡霊を見た者は足を滑らせて谷に落ちて死ぬとも云われた。

 そして、何人かがそこで命を失ったと聞いた一山の座主は、怨霊調伏のための修法を行ずることにした。

 その夜もまた怨霊は立ち現れていた。氷雨が激しく地を叩く寒い夜であった。彼は修行の古場に座を設け、香炉を捧げて大日不動明王を祈り降(く)だし、東方に降三世(ごうざんせ)明王、南方に軍荼利(ぐんだり)明王、西方に大威徳(だいいとく)明王、北方には金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王を降だして、祈りに祈った。

 やがて、黒雲が空を覆うと見ると、突然に大雷鳴が轟き、眼前の岩の上に稲妻が走り、電光が貫いた。そして、大岩は真っ二つに裂けていた。
 次の瞬間、嘘のように空は明るくなり、月さえがこうこうと照らした。
 
 その時、虚空から妙なる枇杷の音が聞こえ、鈴を振るわすような美しい声が聞こえてきた。
「我は弁才天なり。姫の命は、今生まれ変わって我が浄土にある」。
そして、その声は次第に遠ざかり、やがて、渓流に水の音のみが高かった。
 
 こうして、真っ二つに割れたその岩は「姫岩」と呼ばれるようになった。