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東京都目黒区のアパートで、また悲しい事件が起きた。詳細は書かない。事件の詳細をここで詳しく書いても仕方がないし、こんなアホみたいなブログで詳細を記すこと自体、被害者の気持ちを思うと、何となく申し訳ない気持ちになる。
事件のことは、新聞や TV で何度か見聞きした。子育てしている身として、直視できないながらも、何とか消化した。直視できないのは、あまりに痛ましい事件であることもそうなんだけど、子育てなんてのは紙一重であり、経済的な状況や子育ての環境によっては、誰しも簡単に紙のこちら側とあちら側とを行き来し得るものであり、その紙の薄さに改めて気づかされたから、というのが大きい。
自分自身だって、自覚がないだけで、疲れてる時やストレスが溜まっている時なんかは、子どもたちの心の1つや2つぐらい、容易に傷つけてしまっているんだろう。と、自分の器量の小ささをいつも呪っている。
自分が小学生のころ、今振り返ると「虐待を受けていたのかもしれない」と思える同級生とよく遊んだが、中学生になったら見事な非行っぷりで驚かされたことがある。大人になって自分の子どもが小学生になると、「ひょっとして虐待を受けてるのか?」と思われる風采の友だちがうちに遊びに来ることもままある。でも、分からない。それとなく聞いてみても、分からない。分からないから、変化を見守るようにしている。自分は非力だから見守って、せめて「今」だけでも楽しい時間を過ごして欲しいと願っている。
今回のように虐待などが報じられると、虐待という事件の性質と、全国何百万、何千万という視聴者がテレビの前やネットの向こう側である種の「期待」をしている、というシチュエーションから、コメントする方々は、基本的には正論を述べることしかできないと思う。
もちろん、コメントする方々の本心であり、心の叫びでもあると思うから、コメント1つ1つには大いに共感するし、どれだけ声を大にしてもほとんど何処にも届かない自分の気持ちを代弁してくれる方々だから、何ていうのか、嬉しく有り難く思う。
ただ、この状況を全体として眺めた場合に、そもそも加害者に正論が通じるのなら、このような事件は起こっていなかっただろうし、テレビやネットを通じてコメンテータの正論が届くのは、やっぱり正論に聞く耳を持っていたり、正論を理解できたり、正論に共感できたりする人々だけだろうと思う。
まったく効果がない、とは思わないが、いくら正論が並び立てられても、それは正しい道理が一方的に投げつけられるような状況であり、本来届くべきところには、ほとんど届いていないのではないだろうか。極端な見方をすれば、正論が語られる瞬間のメディアというのは、正論のボリュームが大きな人から正論を理解できる人へのメッセージとして、「正論コミュニティ」全体の安定のためだけに機能しているように見える。
正論1つ1つに非はないとしても、正論の矢が何本も束になって太くなると、その束は高速度で一直線に「刺さるべき場所」へと向かって進むだけになり、一切の邪論を寄せ付けなくなる。でも、そんな正論は、それを期待する多くの人々の期待値の大きさゆえに、「あえて」作り出されたものに過ぎないかもしれない。
正論は正しい。だから苦しくもある。
一方は被害者、一方は加害者、血のつながりはなかったのかもしれないけれど、親子であることに違いはない。親子の在り方は千差万別だし、加害者も広い意味では被害者なのかもしれない。親子という切っても切れない宿命の中、決して正論が通じるわけでもないような場所で、事件は往々にして起こる。
正論が届く人の中には、すでに正論が確立している可能性が高いと思うから、ありとあらゆるチャンネルで、ありとあらゆるメディアで、その他数ある「消費」対象のニュースと同レベルで、このような痛ましい事件が取り上げられる必要は、特にないんじゃないだろうか。
コメントする方々も、もしもその分野の専門家でもなく、もしもそのような家庭に属したり接したりした経験もないのなら、あえて正論を作り出さなくても、「その件は、ワタシの経験・知識の及ばない所にあるので、コメントを控えさせていただきます。」でもいいと思うよ。特に、感情論や私刑を想起させるような著名人の発言は、何の解決策にもならないどころか、別の感情を無駄に煽ってしまうリスクが高い。
こんな事件など二度と起きて欲しくないから、消費されるような取り上げ方ではなく、その分野の専門家や法律家、政治家などが集まって徹底的に話し合う番組を作って欲しいし、その番組を全チャンネル共通で流すようなやり方でもいいんじゃないか。
それなら、直視できると思う。
何にしろ、自分は経験も知識も乏しいし、ボリュームも小さいし、非力でもあるんだけど、見守れるだけ見守っていこうとは思ってる。