俺の遺言を聴いてほしい

これは俺の遺言だ。

若手社員が会社の飲み会を嫌いになるのは仕方ない


妖怪割り勘おじさん

僕が新人の頃だった。


僕より20歳以上年上の課長的な方が、


チームの雰囲気作りには飲み会が大事だ。

今日は飲みに行くぞ」


と言い始めたのがきっかけで、急遽飲みに行くことになった。


だいたい5、6人が集まっただろうか。


僕はチーム唯一の新人だったので、飲み会のお店の手配から店への案内、メンバーの招待からご案内まで全ての雑務をこなした。


飲み会の雑用は新人の勤めである。



飲みの場では偉い人が退屈しないように目を輝かせて話を聞き、スマホをいじるなんて絶対にしてはいけない。


お酒が切れそうになったら目ざとく注ぎに行き、キャバ嬢のように周りの人を気持ちよくするために動き回っていた。


そのチームでは、会計は一旦新人が全て払い、翌日皆さんに請求するのが基本ルールとなっていた。

僕は手に入れたばかりにクレジットカードで会計を済ませ、翌日少し疲れた顔で出社した。


すると。


飲みに行こうと言い始めた40代半ばの方が僕のところにやってきて、



「昨日の飲み会、俺の会費は5,000円でよろしく」


と5,000円を渡してきた。


お、お前それ、割り勘やないか────



よくある話だが、その方は子供の受験やローンの支払いのために奥さんに完全に財布を握られており、

毎月奥さんに3万円のお小遣いをもらって生きているのだという。


月の小遣い3万というのは、大学生よりも自由に使えるお金は少ないのではないか。


毎日毎日夜の22時まで残業して、朝早く出社して、お小遣いが3万円である。


もちろん、家族の幸せのために身を粉にして働く「闘うお父さん」は立派だろう。


でも、無理すんなと言いたい。

若手を飲みに連れて行かなくても大丈夫だよ...。






飲み会に出たくない若手社員


会社の飲み会では、若手社員はキャバ嬢のように周りに気を遣う。


いや、キャバ嬢以上に一生懸命接待しているだろう。


横に座れば「お前はまだまだだ」と説教され、別のところに座れば「会社っていうのはなぁ」と仕事論を語られる。


全然面白くない話でもアハハと笑い、合いの手を入れ、お酒を注ぎ、二次会の手配をする。


若手は本当に大変なのだ。


今どきの若者はネットで散々キラキラした社会人の姿を見てるから、「普通のサラリーマン」の武勇伝を語っても全然響かない。


ソーシャルメディアの影響で、若手のビジネスに対する「感動の閾値」は限りなく高まってしまっている。

そのため、一般サラリーマンの「俺様の仕事術」は若者の心に届かず、口角泡を飛ばす勢いで語ってもどこか白けた空気が流れてしまう。


特に転職未経験のサラリーマンは話題が社内政治に偏る傾向が強く、社内政治ほど退屈な話はない。



そんな退屈な話でも健気な若手社員は


「さすがですね!」


「すごいですね!」


と目を輝かせながら聞き、おじさんを気持ち良くさせているのだ。


これは辛いだろう。

若者が飲み会に出たくないと言うのも仕方ない。


その上、お小遣い制の上司から割り勘でお金を請求されたら、心が折れてしまう。


結局、無理に飲み会を開いても誰一人として幸せにならないのだ。






理想の飲み会は若手から望んで飲みに行くこと


「今どきの若者は飲み会に行かない」


とよく言われるが、全然そんなことはない。


カリスマ編集者の箕輪厚介さんのサロン「箕輪編集室」には1,000人を超える若者が集まり、

自ら金を出して精力的に活動している。


CAMPFIRE - 箕輪編集室


ツイッターでは様々なオンラインサロンが盛り上がっているが、多くの若者が「自己実現」を目指してお金を払って人に会いに行っているのだ。


僕自身、新人の頃、社内でとても有名だった方に思い切ってメールを出して、話を聞きに行ったことがある。


飲み代を奢ってくれたのだが、その人の分を払っても全然構わないと思っていた。

話を聞かせてもらえるのがとても有難かったからだ。


若者は飲み会が嫌いなわけじゃない。

今の時代は過去に比べて生き方が多様化していて、様々な選択肢が目の前に転がっていることに若者は気付いている。


昔は終身雇用、年功序列の会社の中でずっと生きていくことが当たり前だったから、会社の飲み会に参加して会社の年長者とコネクションを作ることはとても重要だった。


でも今は社内の内向きなコネクションよりも、社外に交友を広げていくことの価値が高まっているのではないか。


若者は価値のあると判断したものには迷うことなく金を出し、驚くほど積極的に動いている。

若者が「一緒に飲みたい」と思えるような存在になるために、おじさんである我々こそが精進しなければならないのだ。