かつて学習塾のCMに登場していたJリーガーがいた。
イメージが合致しただけでなく実際に通っていたそうだ。
今でも廣山望はそんな知的な雰囲気を漂わせる。
ところが廣山の行動は傍から見ると論理的ではなかった。
Jリーガーとして5年目でチームのリーダーになるかと思われた矢先
急にパラグアイへと移籍する。
2002年日韓ワールドカップの半年前には代表入りもしていたのに、
ブラジル、ポルトガル、フランスと渡り歩き
日本に一度復帰しながらも現役最後はアメリカで過ごした。
何が廣山を駆り立てたのか。
廣山が海外で見てきたものは何なのか。
飄々としながらも廣山の言葉は切れ味が鋭かった。
Jリーグで続けるのはよくないという危機感
僕に苦しかったときって、あんまりないですね。そう思えるようになった決定的なきっかけはたぶん2001年、パラグアイのセロ・ポルテーニョに移籍していったときで、自分が大きく変わる中で欠かせない要素だったと思います。
あのとき、とにかく海外でプレーするのならどこでもいいという考えだったんですよ。Jリーグで続けるのはよくないという危機感があって。同じ環境で続けるのはよくないと思っていて、そこから海外に出てやらなきゃいけないという、そういう焦りだけだったんで、正直、ある意味でどこでもよかったんです。
Jリーグというかジェフで自分が当時感じてたのは、悪い言葉で言えば日常に飽きたという感じです。今みたいに移籍の自由もなかったですし、5年間やったら、その次の年のある程度のことは予測できるようになって。
それは悪いことじゃないんですけど。でも、じゃあ次のもう1年を今年と同じ1年にするか、そうじゃなくするか。それは自分次第かもしれないんですけど、そうは言っても幅が決まってる中で得られるものと、それよりも他に得られるものがある可能性で決めたほうがいいかなって。
ただ、今、言語化するとそうなるだけで、当時はそこまで考えてたわけじゃないんですけどね。同じ状況で続けるんだったらゼロに振れたほうがいいかって、日本に残るというパーセンテージをほぼ残さないで考えたのが、南米に行けた理由じゃないですかね。
もしそこで、日本に残る可能性が何パーセントあって、じゃあヨーロッパや南米だったらその割合が減って、アジアだったらもっとJリーグで続ける可能性が増えたりとか考えたら迷うんでしょうね。海外移籍で迷う人って、行ってもないのにいろんなこと考えちゃう人が多いと思うんです。でも僕の場合は、Jリーグに残るのは「ゼロ」って考えられたのが大きかったですね。
23歳で下した日本を出るという決断
ジェフは間違いなくいいクラブでした。自分は元々市原市出身でしたし、市原の選手としてデビューから使ってもらって、もうホント文句もないというか。それで、ある程度の責任を任されてましたし、移籍を考えたときは23歳になる年だったから5年目で、下の選手もいて。中堅というよりリーダーとしてチームを引っ張っていってほしいという期待も受けて。それにある程度応える自信もある……とう感じでした。
求められれば応えられるという自信というか、過信だったかもしれないですけど、それをやらなきゃいけない立場だって自認はしてたんです。けれど、人から求められてるものと自分が求めてるものだったら、自分が求めてるものをちゃんとやっていかなきゃいけないと考えたんですよね。
2000年はケガしていて、いろいろ考えたりいろんな人に会う時間もあったんですよ。そこで自分にとって何が大事かっていう基準を考えられたというか。
海外に行く前って千葉大に通っていて、移籍するから辞めたんです。僕がプロ生活の傍ら千葉大に行くために協力してくれた人もいるんですが、でもそこで勉強を続けるよりも、海外に出て違うことをやるほうが絶対にいいと思ったからスパッと辞められたし。
行き先はどこでもよかった、と言うと当時移籍のために動いてくれた人に失礼で、自分のプレースタイルだったり、その後の可能性を考えてきちんとした移籍先を見つけてもらったんです。でも自分としてはまず日本を出るというところの決定があったんで。
日本から出てみてわかったんですけど、23歳って本来はまだまだいろんな経験をしなきゃいけなかったり、可能性がある年齢なのに、そのときは本来自分が一番やらなきゃいけなかったり大切にしなきゃいけないこと以外に、かなりパワーを使ってた状況だったんだなって。それは後から考えてですけど。そういうのを何となく皮膚的に感じてて、それで残るという可能性がゼロになったんでしょうね。
Jリーグが嫌だからじゃなくて、他のリーグに行かなきゃいけないという焦りですよね。その後自分がいろんなところに行くときに、ほぼ悩まずに次のステップに行ったりできてるというのと、まったく同じスタンスです。極端な性格なのかもしれないけど、それが自分の強みだと思いますね。
南米での生活がもたらした人生観の劇的な変革
南米に行く前とその後ではガラッと考え方が変わりましたよ。南米に行く前の自分はいかに余計なことにパワーを使っていたかっていうのがわかって。
それで基本的に苦労した覚えはないし、ネガティブな要素は一回もなかったと思います。あえて言うと、状況的に一番苦しかったのは2002年、ブラジルのスポルチ・レシフェに移籍したときですね。
ワールドカップのちょうど裏というか。その半年前の2001年10月にフランスであったセネガル戦、イングランドでのナイジェリア戦で代表に呼んでもらってたんですけど、パラグアイに戻るとその後、次のステップを探らなければならない状況で。
セロ・ポルテーニョでは前期も後期も優勝して、個人的には一番いい状態でした。それでも南米のもっといいチームの話は契約直前までいったけどできなかったり、やっと契約できたレシフェは当時の政治的かつ経済的な問題でビザが出ないという状況でした。
そのときに実際日本ではワールドカップをやっている。それをブラジルの一番外れで見なければいけない。自分はチームの試合に出られない。練習はできても試合でプレーできないという状況だったんですよ。
ところが、そこでの経験は自分にとってプラスになったというか、それぐらいでもへこたれないというか、何のストレスにもならないでいられる自分だったから。
それはレシフェがすごくいいリゾート地で、僕が住んだ海岸沿いはとてもきれいで、ブラジルのイメージを覆すくらいだったから(笑)。ブラジルのいいところはもちろん全部詰まってたし、サッカーはあったし。ワールドカップだからものすごく盛り上がってましたしね。
レシフェは観光地だから、お金をかけて警備するところは警備してあったんですけど、そうじゃないところは悪いところが全部集まってくるというか。でもそれが自然ですよね。そのメリハリがある中でちゃんと楽しめるというのが大事で。
当時チームは全国リーグ2部に落ちてたけど、州リーグや地域リーグでは中心でやってるようなクラブでした。でも僕にビザが発行できないぐらいで、国内のクラブで雇われてる人なんかも、しばらく給料をもらえてないという状況だったんですよ。
選手もなかなか給料がもらえてなかったり移籍先が決められなかったりという状態で、ある意味、自分も大変だったんですけど、それよりも大変な人たち、実際、5、6カ月給料をもらってないって人たちが周りにいたんです。
ただ、その人たちがネガティブかっていうと、よっぽど楽しそうに生きてたんですね。サッカーに関われていることだったり、その日、その日のサッカーを楽しんで。しかも僕が試合に出られないんでいると「大変だね。ワールドカップいけないね」とか声をかけてくれるんですよ。
当時僕はずっと1人で生活してたんで「大丈夫か」って、本当に僕のことを気を遣ってくれるんです。僕よりよっぽど大変な人がクラブで働いてる。「おれ、給料を半年もらってないから大変だよ」なんてことをさらっと言うけど、全然そんなことをおくびにも出さずに、サッカーが好きで、たわいもないことで笑ったり音楽演奏したり歌い出したり。
パラグアイを経験してたから、こういうのが南米だなってわかってたんですけど、それにしてもブラジル人のパワーってすごいなって。人生を楽しめるスタンス、サッカーを好きで楽しめるスタンス。それを僕は自然に学んだというか。そういうところにいたから、苦しい状況にいても全然ネガティブにならない自分でいられたし。それは周りの人たちの影響なんだろうなって。
宗教上の問題も日本人とは違って大きいと思うんですけど、やっぱり自分にないものをパラグアイまで含めて南米からは学べた、感じたというか。大きな経験をしました。いいところだったし、何よりも人生なわけだから、ちゃんと生きて、その日生きられることを感謝して。
1回そういうことを経験してると、それより大変なことってそう簡単にはないと思うんですよ(笑)。そういう意味では、いろんなことが起きてもストレスになったりネガティブになることはその後もなかったから、大変なことはなかったと言えるんですよね。
楽しかったし、サッカーに関われてる時点で「よかったな、おもしろいな」って。その基点になったのは南米で、南米に行かなければそんな経験はできなかったし。それに元はと言えば、ゼロに振れたっていうのもジェフでの5年間の経験があったからこそかもしれないし。
僕は幼いころに父を亡くしてて、いろんなことを自分で決めていかなきゃいけなかったり、ひょっとしたら人の人生は短いっていう気持ちを抱えてたかもしれないし。でもその南米での経験できてよかったなと思って、そこから同じスタンスで続けられています。
結果を出すことが全てじゃないというスタンス
僕は自然体って言われますけど、それが今の仕事にいいのかどうかわからないです。けれど、とにかくいろんなことに影響されず、自分の基準をしっかり持っていることはとてもいいことだと思います。
それにサッカーで結果を出すことが全てじゃないというスタンスなんですよ。もちろん自分はやれると信じてたし、可能性を伸ばしたい、できるところまでやりたいという強い気持ちはありました。
でもそれだけが全てじゃないという気持ちもあって。ワールドカップに出られなかったことも同じで、出られなさそうだからって死に物狂いでワールドカップのためにもがけたかっていうとそうじゃなくて。南米で次のチームでやれるかもしれない、そのあとヨーロッパに行けるかもしれないということが、自分の中では圧倒的に大きかったですね。
だから日本に帰るよりも、南米で活躍してヨーロッパに行くチャンスや、南米でさらに大きなクラブで活躍するチャンスを得ようと思ったんです。それが自分にとってワールドカップに行けることより大切で。たとえ母国開催の大会であったり、半年前にはせっかく日本代表に呼んでもらって大会に出場できるチャンスはあったことよりも、大きかったというのは間違いないですね。
それは、もう一度日本でプレーした後に、アメリカのリッチモンドでプレーしたり、引退して指導者の勉強のためにスペインのバルセロナに行ったりしたときの価値観と変わらなくて。何がしたいかというところで決めてるんですよ。余計なものに惑わされることはないというか。決めるときはサクッと決められるし、後悔も絶対しないし。
たぶん、それはたぶんね、本当に強いヤツは何をやっていても代表入ってワールドカップにいけると思うし。僕はそうじゃなかった。もちろん力は足りなかったし。
同世代とは違っていた中学、高校時代の過ごし方
僕が海外で経験してきたことは、人にはなかなか伝わらないだろうから、「海外に移籍したことでいろんなチャンスをなくして、もったいなかった」と言ってくれる人もいます。それはありがたいことでしたけど、でも「もったいない」というのは自分とは違う価値観だから。僕は今でも悪い意味でもいい意味でもマイペースなのかもしれないですけど。
「信念」とかそんな深いもんじゃないんですけどね。オレはこうするとか、そこまでの強いもんじゃなくて、力は抜けて判断してるんです。そこがマイペースなだけで。まぁ中学とか高校から、電車で1時間とか2時間とかかけてサッカーに通う中で、本を読んだり音楽を聴いたりして。兄の影響で人とは違う本や音楽を聴いたりすることもあって。
親が早く亡くなってるから、人と違う環境の中で人と違うものの考え方を、プロになる前から習慣としてたから、その差は大きいかな。ジェフで5年間、同じロッカールームで過ごしてたけど、そこで考えることや価値観は違ってたでしょうね。
どっちがいいかというのは別として、サッカーに全てをかけて、サッカーのことだけを考えてワールドカップに出るというのもひとつの考え方で。自分はそれとは違ってたということです。それは元を正せば中学や高校時代の過ごし方じゃないかなと。今思うと、自分を確立していく中でそのころが大きかったと思いますね。
中学校、高校のとき、読んでいたのはロックの自伝とかSFとかですね。1960年代、1970年代の洋楽のロックや昔のパンクも好きで。一番影響されたのはドアーズ、ジミー・ヘンドリックス、あのへん全部ですね。
そんなのって同世代は絶対聴かないじゃないですか。話してもわからないし。そのへんの自伝を読んだり。あとは寺山修司とかが好きで、そのあたりも絶対同世代とは合わないですからね。でも僕はそのへんのすごく影響されてました。
人と違うけど、それに対してそんなにストレスを感じたり、焦らないというのはその時期の要素が大きいかなって。もともと聴いてる音楽も違うし、趣味も違うし。本に影響された、音楽に影響されたのも大きかったと思いますね。
人に言われてやってみたことは得るものが少ない
今後は、指導者としてどの年代に携わっているかによって、やることいろいろも変わってくると思います。今教えている中学生、高校生は、まず選手としての価値観、「本当に自分にとって大事なことは何か」というのをわかって、そのうえで行動を起こせないとダメだし。
逆にプロになってくると、サッカーの戦術的な知識だったり感覚だったり、あとは精神的な部分をどう広げてあげられるかということになるでしょう。
だから指導するターゲットによって内容が変わってくると思いますが、どう指導して、どういう子に育てるかという前に、自分がどう変わっていけるかというところが大事だと思います。
変わっていくというのは、知識的な部分だったり経験値だったりを増やすということですね。限られた時間の中で人と同じだけの経験や知識の増やし方だったら競争にならない。そのスピードを上げて、人が思いつかないことを先に思いついてできるようになりつつ、ベーシックな指導の部分も押さえなきゃいけないし。
自分がプラスアルファしていけるかっていうことが大事かなって。その上で子どもたちとか選手に対してどうしてあげられるかが、そのときによって変わってくると思いますね。
あとは指導者として口ではどうとでも言えるけど、やっぱりサッカーに関わっている以上結果を出さないといけないので。ここではこう話していたけど実際は違う、じゃなくて。結果が問われながらも進化しなきゃいけないというのは、サッカー選手と同じくらいおもしろいところですよね。
それから、子どもや人にとって、みんなと同じことを求められるけど、そうじゃないっていうときがあると思うんです。そうやって何かに気づくときがあると思うんですよね。
僕が若いときにあったんですけど、監督やスタッフが、「こうしていこう」と言ってるけど僕は違うことを考えてたんです。するとある人が声かけてくれたんですよ。「お前のほうがたぶん正しいし、お前のほうがあってると考えてもいいんじゃない?」って。
本当に僕が正しかったかどうかは別として、人とは違う僕の考えに対して、「そういうふうに考えてもいいと思うよ」っていう人がいたんですよ。それは自分にとっても「そうか」って気付かされる言葉で。もちろんそれに煽られて、「自分が正しいから」ってワガママになるのはおかしいですけど、そういう考え方を大人になったときに持ってないと危険だなって。
大人になってからじゃなくても中学生、高校生でも、自分がこう思うから行動して、それで間違ったときには「気付き」とか「学び」があるけど、人に言われてやってみたことは、失敗してもしなくても、得るものって少ないと思うんですよね。
みんながみんな同じことを言って、時に成功して時に失敗して、それで得ることよりも、いろんな人がいる中で「オレはこうしよう」と行動して得る経験というのは、若い子どもたちにとってはすごい大きいと思うから。だからいろんな考えの違う人がいるっていうのがこのアカデミーの中では大事だと思いますし、そういうスタッフが揃っていると思います。
どこの国の何を食べても全部おいしい
僕が世界中でいろんなところに行ってストレスがなかった要因の一つは、何でもおいしく食べられるからなんですよ。どこの国の何を食べても全部おいしかった。食にストレスがないんです。2017年、U-15日本代表のスタッフとして1年間、アジアやヨーロッパのいろんなところに行きました。でも食事に関しては何の不安も無かったですし、南米やヨーロッパで生活したり引退してスペインに行ったんですけど、その土地のおいしいものを食べたんじゃなくて、何でもおいしいんです(笑)。
自分はお酒を飲めないんで、食べるばっかりなんですけど。その土地で地元の人が習慣として食べているものっていうのはおいしく感じられるんですよね。それは自分にとってよかったことです。
日本の食事はやっぱり工夫があって見栄えもいいんですよ。そんな日本で食べるものに比べるとレベルは高くない。でも、それとはまったく違う価値観でおいしいとされるものが記憶に残ってるんですよね。
もちろん各地でパーティーに呼んでもらって、おいしいものもたくさん食べてると思います。でもそれよりも、本来ご馳走ではないものでも、その土地でみんなが自然に「おいしいね」「これおいしいんだよ」っていうようなそんな食べ物が好きですね。
日本の米みたいなもんですよ。本当にフランスパン一本でもおいしくて。学生が焼きたてのパン屋さんに並んで食べながら歩いているのを見て、自分も並んで買って目玉焼きと一緒に食べるだけでもおいしいし。そういう価値観が人生のヒントになったりしました。価値観の転換というか。考え方をどう変えるかという話で。
まぁ無理やりとてもおいしかったものをひねり出すと、家族と一緒にバルセロナに行ってたということもあり、カタルーニャの料理ですかね。いろんなものを食べたんですけど、パエリャよりもイカスミを使ったフィデウワが好きでした。
日本でスペイン料理を食べるとしたら、「月島スペインクラブ」ですね。あそこはおいしいと思います。たぶんフィデウワもあったと思いますよ。本格的な料理です。バルセロナのおいしいものを思い出したらそこに行ってます。
- ジャンル:スペインレストラン
- 住所: 〒104-0052 東京都中央区月島1-14-7
- エリア: 月島
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廣山望 プロフィール
1996年に習志野高校からジェフユナイテッド市原へ入団。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョ移籍し、その後はブラジル、ポルトガル、フランスなど世界を渡り歩き、2004年に日本復帰。2012年、アメリカのリッチモンドでのプレーを最後に引退した。
引退後は指導者に転身し、現在はJFAアカデミー福島のコーチを務める。
1977年生まれ、千葉県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。