Form姿の記憶
 残念ながら、姿の記憶として日本人のものが多くありません。

サイケデリック
 70年代に入る少し前にサイケデリック、通称サイケが流行します。元々はLSDが発見され、吸引した時の恍惚状態から生まれたもので、下で述べるマリファナよりも、はるかに強力でしたが、手に入れるのにアメリカでも結構、難しかったことがあります。マリファナは合法化された国も多数出て、比較的煙草並みの感じでしたがLSDは危険視されました。サイケはデザイン、ファッションに取り込まれ、華やかな色合い、派手そのものでした。音楽や映像もありましたが、幻覚的過ぎて、吸引したことのない人間には、なかなか受け容れられるものではなく、それほど日本では大きなブームにはならないというか、よく分らなかった。先端的な連中が影響を受けたに留まります。

ビートルズ サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ 1967            一斉風靡したPeterMaxのイラスト

ジム・ヘンドリックス
                              PeterMaxのPEPSIのCM

サイケデリック調の洋服やボディペインティングもありました。ただ、この流行は我が国では限定的で大都市の一部にしか見ることはできません。
 
東京人「東京モードファイル」1996.4    メンズ・ファッション100年史

 この時代、ポスターが大流行して部屋にポスターを貼るのが若者の部屋の象徴みたいなものでした。いろいろな所にポスター屋が店を開いていました。サイケ調のポスターもありました。人気はロック歌手や女の子、映画などでした。
宇野亜喜良
 青山でオープンした古着屋の前。この様々な服装が時代の雰囲気を伝えています。
毎日グラフ1969.1

Drug(覚醒剤・シンナーマリファナ
 マリファナの話題が上がる前に、中高校生を中心にしたシンナー遊びが流行します。路上でシンナーを吸引する姿が頻繁に見られ、病院に運ばれ、深刻な病状を呈する者が頻発し、死者も出ます。フーテン当りにかなり流行ます。シンナーは当局が販売の制限し、溶剤と区別するなどの取締りを実施します。シンナーが下火になってきたときにヒッピー文化の影響からマリファナやLSDが入り込んできます。芸能界辺りではマリファナは相当に蔓延し、ミュージシャンでやっていない人間は珍しいと言われていました。ロックの誕生にはドラッグが深く関与しているとさえ言われています。日本では警察の取り締まりもあって一般にはあまり普及しません。言葉として、トリップするとかは相当に流行りましたが。幻想の中に逃げ込みたいという現実逃避の要求はこの時代の風潮です。

東松照明「おお!新宿」から       福島菊次郎「戦後の若者たち」               「新日本の原点」毎日新聞

 マリファナは欧米では合法化されマリファナの市やパーティが公然と行われました。煙草よりも害が少ないというのが許可された要因ですが、日本でも解禁になるのではと長く言われましたが合法化することはありませんでした。下は当時、最も麻薬が浸透したアムステルダムです。

中央公論1970.5.27

「ロックンロール・バビロン」   LSD関連を報じるパリの新聞

Hippie(ヒッピー)
 アメリカでは、ベトナム反戦運動の中からヒッピーが登場します。ヒッピーの源流は50年代のカウンターカルチャーであったビートニク世代からののものでしょう。ビートつまり打ちひしがれた、「敗北の世代」という意味を濃く残しながら、それ故に自由な生き方を求めてさすらって行くという感覚やら、権威への強い疑いと否定、渦巻く暴力という感覚は受け継がれていました。

写真は長濱治。 60年代後期のヘルス・エンジェル

 自然と平和と歌を愛し人間として自由に生きるというスタイルが、戦時下にあって一大ムーブメントになります。 薬物(マリファナやLSD)による高揚や覚醒を通じて、ヒッピーが集団で共同生活するコミューンが生まれてきます。砂漠などの荒地に若い男や女、子供による集団ができます。文明への否定が濃厚に漂います。ここらへんは映画「イージー・ライダー」等に出てきます。ヒッピー文化が最も盛んだったのはアメリカ西海岸、サンフランシスコでした。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」はこの新しい時代の幕明けを告げるものだったのです。69年にはウッドストック・フェスティバルが開催され、フラワー・ムーブメントが起こり、フラワーチルドレンに満ちていったのです。
 ヒッピーは、戦争を背景にした凄惨さ、残酷さ、死への恐怖を背負い、独特の悲劇性を内包し、その中で必死に愛を求める運動だったのです。この内面こそが世界中を惹きつけていったのです。


奈良原一高 カメラ毎日70.10



 上はヒッピー界の巨人とされた人々です。アレン・キンズバーグジェリー・ルービン、エルドリッチ・クリーパー、トム・ヘイドン。もうキンズバーグくらいしか分かりません。ヒッピーをより政治的な活動として組織されたのがイッピー(Yippie)です。アメリカ版新左翼でしたが、長続きしませんでしたし、広がりはありませんでした。下はシカゴで民主党の大統領指名党大会の近くでイッピーらが豚を大統領に指名し、警察に持って行かれる所のようです。この事件は反乱を企てたということで、被告人たちはシカゴ・セブンと言われるようになります。 まぁ、今からみれば、双方ともに大人気ない、児戯に均しいものでしかありませんが・・・。ヒッピーの運動もベトナム戦争の終結に向かっていく流れの中で退潮し、静かに消えて行きました。一部の理系の若者達を中心に、パソコン革命やら、バイオ技術開発の最前線躍り出て、シリコンバレーでベンチャー・ビジネスを展開、活躍することになります。
アビー・ホフマン



フーテン
 ヒッピーの登場する前に、日本で若者の中に路上生活するフーテンと呼ばれる人間達が登場します。ホームレスとは違います。家があっても、何時までも帰らない。ただ何となくダラダラと路上に座り込んでいる。 今はホームレスがいますから、それに比べれば清潔だし何ということもありませんが。寺山修司が密室から市街へとアジテーションする時代の雰囲気をも象徴しています。 この頃は、アングラの芝居やコンサートが終わっても、なかなか帰らない客が続出します。なんとなくダラダラとその場の仲間の雰囲気を楽しむ形でした。家に帰りたくなかったのです。

新宿駅東口前でポップコーンを撒き散らし、拾って食べたり、交番に投石したり、踊ったりしたフーテン。  シンナーを吸うフーテン 毎日グラフ「寺山修司」から

別冊宝島173号                                  「新日本の原点」毎日新聞

 多くの大人達はマリファナやフーテン達の様子をみて乱交パーティをしているという疑惑と興味でみていました。反発の根本もこんなところにもあったのでしょう。
関根弘「わが新宿」

東京人「東京モードファイル」1996.4                                  関根弘「わが新宿」

当時、最も有名だったフーテンのガリバーこと安土修三                ダダイストでもあった糸井貫二
旅 記念特集 春の東京 1973
 路上での物売りは、多くが外国人でした。多くがヒッピーという雰囲気が強いものでしたが、70年代から80年代まで、相当に長く、繁華街のあちこちにいました。売られているものは、大体、同じでしたから、どこかに元締めがいるのだろうなと思っていましたが、随分、後に書かれた石井光太「ニッポン異国紀行」によれば、彼らはバスタ(露天商、ヘブライ語)といわれ、海外で募集があり、それに応じて来たという形だそうです。親方はアパートや食事を提供し、売る商品も東南アジアあたりからの偽ブランド品や貴金属を渡して商売をさせていたそうです。
 ヒッピー的な若者が世界の先進国の流行となっており、各地を流れていく感覚があって、新宿風月堂など、髪を長く伸ばし、髭を蓄えた外国人の若者たちが、たむろっている、そんな時代です。そこに日本の若者も多く混じりあっていた。

新宿に集まった外国人ヒッピー

 60年代の現代美術の流行ハプニングも一部に引き続いていますが、それほど盛り上がりはありません。アングラ演劇や暗黒舞踏に比べてインパクトは薄いものでした。


 しかし、連合赤軍事件により政治闘争が敗北に終わった時、時代は路上から四畳半の世界へ向かっていきます。ダラダラとした、やるせない生活の気分は、松本零士の「男おいどん」などに結実していきます。意欲もなく、希望もない、ある種の悲しみ、切なさ、生ぬるい暖かさ。南こうせつの歌う「赤ちょうちん」の世界、上村一夫の「同棲時代」の世界が現実としてあったのです。しかし、やがてこれらも80年代に入る頃には世の中の豊かさに全面的な敗北を喫するのです。

 松本零士「男おいどん」               前川つかさ「大東京ビンボー生活マニュアル」(なぎら健壱「ビンボー漫画へのオマージュ」)



立てカン
 同時代に生きた人でないと、懐かしい感覚にはならないかもしれませんが。この時代に初めて政治的なアジテーションを書き込んだ巨大な看板が大学の構内にお目見えしました。学生運動の象徴でした。
早稲田大学

Death (死)
 戦争と麻薬禍によって死の影が容赦なく忍び寄っていました。叛逆の闘争はまた、当局からの弾圧から死の恐怖を孕んでいました。70、71年にジャニス、ジミヘン、ジム・モリスンの天才的なロック・ミュージシャンの早過ぎる死は強いインパクトを与えます。耐え難い悲しみと恐怖が彩ります。最後に死んだのがジョン・レノン(80年)であったのは、この時代の最終章というべきものかもしれません。
ジャニス・ジョプリン ジム・モリスン

Long Hair (長髪)
 長髪とジーンズは反抗のシンボルのような役割を果たします。中でも長髪に大人達の反応は激しいものでした。今から思うと何であんなに非難したのか分からない。秩序が破れる、壊れると言う感じでしょうか。男が女の格好をすることに激しく抵抗し、デモなどで捕まると髪を刈られました。当初はあまり伸ばせず、刈り上げないだけの長髪でしたが、それでも駄目で、サービス業や営業では絶対に許されませんでした。私なんかも、ほんの少しでしたが、バスの中で酔った先輩が後ろから髪を掴んで、「お前、切らんかー」と絶叫し、周りの連中も止めようとする気配も無く、先輩の方に味方していました。
 しかし、次第に若者の主張というか、大人たちが諦めるようになって、長髪がブームの時代、多分、70年代の最後の頃は、学生辺りでは、腰の辺りまで伸ばした男の子もいました。

                                                           福島菊次郎「戦後の若者たち」
 この下の写真の光景は当時は当たり前のようにあったものですが、時代そのものを見せてくれています。長髪、フォークギター、パンタロンGパン、裾をまくるのが流行でした。
若目田幸平「東京のちょっと昔」

Go Go
 朝日ジャーナルに1965年、アメリカの10代文化とGO GOという文章がありました。この記述からすると、64,5年にアメリカで大ブームが起きているようです。 この一年たらずの間にハリウッドだけで30軒余のGOGOダンスの店ができたと書いています。 たいていは1ドルまたは1.5ドルで、一晩中、踊りを楽しめるので、学生やティーンエージャーが多い。みなズボンをはいて、シャツ1枚の気楽な格好で、無精ひげを蓄えたビートニクも多い。即興舞踊の展示会のようだと、その自由な雰囲気を伝えています。
 正確には分からないのですが、1967,8年くらいにアメリカから、ゴーゴー・ダンスがもたらされ、大ブームになります。 ツイストのブームと同じくらいのものがあります。戦後の世界の中で何度かのダンスブームがありますが、広範な世代を巻き込んだダンス・ブームは、ゴーゴーが最後になります。ステップらしいステップはなく、身体を音楽に合わせて動かす、腰と手の動きで表現するものでした。非常に印象に残っているは、大学祭の最後に広大な広場に大音響の音楽と共に、そこにいた全員、千人を超える人数がゴーゴーを踊る光景です。壮観でした。そして大学紛争はともかくとして、時代の変化を感じたものです。
 繁華街のアチコチに、ゴーゴーを踊る、当時はディスコとは言わなかったと思いますが、あったのです。それこそ何箇所もあり、百人を超える収納スペースも、10数人が入るだけのところもありました。YurTubeの画像は音楽がGSになっていますが、こんなものは超少数派で、もっぱらアメリカのハード・ロックでした。このリンクしてあるWisky A Go Goのツッペリンは実に懐かしい。
Whisky A Go Go泉麻人「青春の東京地図」に当時の六本木のディスコ地図がありましたので貼っておきます。懐かしいと言うか、こんなにいっぱいあったたんだ。少し思い出したので付け加えておきます。当時の最先端は、アメリカでした。そのため米軍キャンプのある福生、横田、横須賀あたりまで出張るというのは、こういうディスコ・サウンドに夢中だった若い連中のステータスでありました。昨日、福生のディスコで朝まで踊ってたというのが、何かまぶしいような雰囲気でした。そういうディスコには黒人の兵士が出入して最先端のソウルなどのブラック・サウンドが聞けたからでしょう。なにしろ70年も初めの頃は情報が全然、なかったのですから。




狂気 & 構造主義
 狂気、精神分裂病への関心が非常に強かった時代です。大学紛争の最初が、東大医学部の精神科で起きたのです。 非常に長い闘争になっていきますが、政治的な意味というよりも精神病棟での管理問題、拘束・拘禁を原則とした精神病患者への処置を激しく糾弾する方向に向いていきます。 笠原嘉、森山公夫などの新進の意欲ある精神医の活躍がありました。潜入レポも非常な評判になります。残酷な措置、正常になっても拘禁が解かれない、家族にも見棄てられた狂人の状況と精神病院の実態が暴かれます。 R.Dレインの『引き裂かれた自己』、フーコーの『狂気の誕生』、ピンスワンガー『精神分裂病』などが販売されます。
このような狂気への関心が、私自身、構造主義への関心に向かう契機になりました。フーコーは時代を代表する哲学者になっていきます。


アリス(ルイス・キャロル)
 汚れなき少女への指向が強く出てきます。ビクトリア時代のルイス・キャロル「不思議な国のアリス」に関する本が欧米から、 そして日本でも渋沢龍彦を中心としたメンバーから現れてきます。人形が中央に出てくる契機になります。クラッシク・エレガンスがこの大変動の中で現れてくるのです。ロマンティシズムが強まっており、現実逃避も激しかった。少女への関心はロリータに結びついて、次にやってくる女子高校生ブームに引き継がれていったかどうか・・ここら辺は微妙です。

                    
ミニコミ・カタログ
 場所の記憶「模索社・ウニタ書店」で取り上げたように当時、膨大な種類のミニコミ誌が登場します。丁度、今のブログのような現象です。 内容的には政治的なものが多く、公害や差別などの社会的な問題の告発が多くありました。 ベ平蓮の脱走兵通信なんていうアメリカ軍人の脱走を手助けをするようなミニコミ誌もありました。

 最も有名なものは発禁処分になり警察の手入れを受けた爆弾の製造マニュアル「腹々時計」です。爆弾と言っても火炎瓶ですが。同時に殺人教本も押収されました。現在ネット上では、完全版が掲載されていて、警察の手入れを受けない状況も凄いなと思います。かつて手入れ前にウニタ書店で見かけた時に、買おうかどうしようかなと思ったのを記憶しています。

 タウン誌が初めて登場するのも、この時代です。最も有名なのは新宿プレイマップです。本間健一『60年代新宿アナザー・ストーリー タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート』が2013年になってから出版され、私も懐かしい感じがしました。ただ、時代の当時の気分からすると、書いてあるほどの影響は若者達にはなかったように思います。まぁ、だからこそ廃刊してしまうのですが、現在進行形の何かというよりも、中身的に60年代の前半くらいの話題が主力であり、寺山さんや唐さんも登場するとはいえ、他にも彼らは沢山出ていましたから。

 ミニコミからやがてメジャーな雑誌に育っていったのが、ピアとロッキング・オンでした。ぴあについてはカタログ誌でしたし、発売当初は内容の全部は知っているという受け取り方を私なんかはしたものですが、やがてピアに掲載されなければ集客が難しくなる形になり、サブカルチャーだけでなく、あらゆるジャンルを包含する分厚い情報誌として一斉風靡し、情報産業としての経営に変容し、2011年、休刊しました。
1972年創刊号 1990年週刊号
 ロッキング・オンは、当時の音楽誌のロックは非常にマイナーな扱いで、ほとんど記事らしいものもなかった中で、岩谷宏や渋谷陽一を中心にした若者が1972年に創刊した我が国で初めてのロック専門誌でした。私も含めてロックを聞く若者達の間で読み込まれ、瞬く間にロックの権威にのし上がっていきます。若者達の手作りの雑誌としては、やがて登場するパソコンの専門誌アスキーに並ぶものです。

 人によってはミュージックライフの影響力を語る人もいますが、私の感じでは、70年前後では、ミュージックライフはロックを採り上げるページが少なく物足らないものでした。ですからロッキング・オンが登場するのです。勿論、ミュージックライフも数年を経るとロック色が濃くなりますが、東京にいる若者にとっては圧倒的にロッキング・オンでした。なかなか従来のポップスやジャズは強かったのです。レコードの売上も圧倒的でしたし、若者の大部分もポピュラー音楽でしたから、しょうがないんですが。

 この頃、カタログの文化がアメリカからもたらされます。この地球カタログのような形の大判のもので、これ以外にビクトリア時代のカタログがよく売れていました。これは一体なんだったのか、分かりませんでしたが、どうやら神智学にからんでいるようです。