(政治ネタ注意)ヘイト、ヘイトと唱へる人々への疑問
誰であれ、平穏な生活を送りたい。自分の生き様を、自分の生活空間で罵倒されたくない。
それは、共感出来る。
でも、ヘイト、ヘイト叫ぶ人には共感出来ないのよ。何故って? 同じことを平然とする左翼系の人だろうと感じるから。
それは、ロクな集団では無いのかも知れない。
少なくとも、「ヘイトは許さない」が、ヘイトな意見が『存在する事を許さない』なら、真っ向から、民主主義的な価値観に対立する存在だ。
それを主張する人は、思想統制がある社会を望んでいる。
戦前戦中の軍国主義者と同種の精神を持つ人々なのだろう。
都合の悪い意見なら、嫌いな意見なら、口を塞いでしまえ。
ヘイトな意見には多くの人に響く魅力がある。大衆に聞かれたら、自派が不利になる。だったら、言う口自体を塞いでしまえ。
ロクでもない意見だ。ヘイト、ヘイトという叫ぶ人の主張が、ヘイトな意見が『存在する事を許さない』なら。
碌でもない意見だ。
無論、「ヘイトを許さない」が単に、『強く反対する!』、『軽蔑します!』、『私は何百回でも反対意見を言い続けます』、そんな意味なら、碌でも無いなんて言わない。
ヴォルテールの
「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
この、民主主義的価値観に基づく、遥かに遥かに正しい態度だ。そう考えて、言葉を使っている人には、何ら思う所が無い。
寧ろ、厳しい言葉を読ませて、申し訳なく思う。
ヴォルテールの言葉は当然──ヘイトな意見でも主張する権利は擁護すべき──との前提を持った上で、ヘイトに反対する人は。
願うなら、これ以上は、読まないで欲しい。もっと、厳しい言葉が続くから。
この言葉が日本で注目されたキッカケは、大久保辺りでのデモだったと思う。
主張する権利?
なら、自分の店先で怒声を浴びせる相手を歓迎せよと言うのか?
そんな疑問が拡がったキッカケは大久保だったと思う。僕だって、それは不味いと思う。表現の自由を錦の御旗に、他の諸権利を蹂躙する事は、不味い。
でも、それに対しては、左翼運動家が無茶苦茶な、非道を働いた結果として成立した、判断基準がある。
『立川反戦ビラ配布事件』の判例だ。
自衛官とその家族が寛ぐための自衛官宿舎に、自衛隊を誹謗するビラをばら撒くなんて、嫌がらせ以外の何者でもない。
最高裁が判じた『表現の自由が尊重されるべきものとしても、そのために他人の権利を侵害してよいことにはならない』この考えは妥当だと思う。
だから、ヘイトスピーチとやらに対して、時や場所、手段を制限するのは、支持する。
自分の店の前で、学校の側で、不愉快な怒声をあげる阿呆に、『警察が対応』する事は全く持って正しいことだ。
でも、意見自体を規制する事は、支持しない。『○○人は、みな○ろし』などと、ぞっとする意見でも、『表現の自由』として保護されるべきだ。
意見を持つ事に加え、最低限でも『意見を表明する場所が、存在する事』は手厚く保護すべきだ。特に、その人達自身の負担で、表現の場を確保する事は規制すべきでない。
また、ヘイト、ヘイトと叫ぶ人の意図も、考える必要がある。
見たくない意見を、無理に見せられるのは、苦痛だから、制限して欲しい。
そんな意図なら、なるほどナルホドと共感を持つ。僕だって、聞きたくもない、聞くたびに怒りを感じる意見はある。自分の家で、ほのぼの小説を書いている時に、そんな意見を見せられたくは無い。
だけど、ヘイトなコンテンツは魅力的で、ヘイトな意見を持つ人が増えるから、規制すべきだ?
ふ・ざ・け・ん・な!
それは、民主主義的価値観の敵だ。
ローマのカエサルすら、愚行と判断した、非文明的発想だ。
日本をして、無謀な戦争の抑止を失敗させた。軍国主義者──例えば東條英機──と、同様の精神性だ。
それを実現させた社会は、思想統制がある社会だ。碌でも無い。
どんな過激で不愉快な意見でも、興味、関心を持つ人が触れる機会を残す事、それは社会が衆愚に陥らないための、安全装置の一つ。
苦難の中で、表現の自由が必要だと断じた、先人への非礼だ。
ウォテールとて、何度も投獄されている。先人は、何度も投獄や亡命を経験した。今の日本より遥かに厳しい環境で、民主主義的価値観を育んだんだ。
敵の『表現の自由』を制限せねば、敵の支持者が増えるなどと……どれほどに偏狭な党派的意見なのだろうか。
総力戦研究所での検討結果──アメリカと戦えば必ず負ける──、閣議の席で聞いたそれを、開戦への流れを維持する為に、口封じした、東條英機と同じじゃないか! そんな偏狭な党派が力を持てば、日本は同様の衆愚に陥るだろう。
特定の集団を敵視する意見でも、その他、どんな意見でも『表現の自由』として尊重すべき。ただ、他人を不当に踏みにじらないよう。時や場所、そして手段は制限する事もある。
そして、制限の条件として、『意見の内容』は直接は含めてはならない。仮に、定義上どうしても必要な場合でも、出来るだけ抽象的に記載する。少なくとも、立場の右、左や、特定の敵対関係に限定されないように注意する。
在日朝鮮人相手の暴言を規制したいなら、同じ条件で在日アメリカ人にも適応されないと、可笑しいじゃないか?
どちらも同等に傷つきやすい心を持つ人なんだから。
僕が、ヘイト、ヘイトという人々への疑問を蓄積していったのは、3つある。
最初は、現在のヘイトスピーチ規制法の案が出た頃のニュースだ。
『この案だと、在日米軍相手でも対象になり得るから問題だ。』などという主張を聞いた。
は! 在日韓国朝鮮人も在日米軍の家族も同じ人だ! 罵倒されたら痛いのは同じや!
なにか? 在日韓国朝鮮人へのヘイトに反対する人は、在日米軍の幼児の通園バスに罵声を浴びせる事は正しい思っているのか?
二つ目は、在特会の選挙運動を隠れ蓑と評した、ニュースを見たときだ。
は? 彼らなら、選挙の公約として、在日韓国朝鮮人の排斥を挙げても不思議じゃない。
だから何?
自分と真っ向から違う意見の人が選挙に出る事は、民主主義社会を維持する為に、全ての人が甘受せねばならぬ、負担だ。
選挙で支持を訴える事は、表現の自由の内でも、かなり重要性の高い事項だ。主張の内容で、被選挙権なり選挙運動を規制しようというのは、相当不味い。
主張の内容で規制する考えは、当選者を自殺に追い込んだ、戦中の特高と同じ過ちや。
三つ目は、集会の中でヘイトな意見があった。許すべきでない。などと、馬鹿げた論評を見た時だ。
こんなこと書いたライターは、明治維新直後、明治憲法制定前の、薩長と同程度の意識なのか? 薩長は、集会条例とか作って規制したけど、流石に長い年月で徐々に緩和していったぞ。
結社が、それぞれの内部で、珍妙だったり過激な意見を出しても、明らかにそれは表現の自由の範疇だ。
まあ、組織犯罪処罰法が去年成立した。だから、組織の目的として、在日韓国朝鮮人の虐殺が含まれるなら、組織犯罪処罰法の適応対象になるのだろう。仮に、マジで虐殺計画を練る集団が生まれたら、警察にはバシバシ取り締まって貰いたいとは思う。
でも、あの法律でも集会を規制する権限までは──余りにも危険だから──無かった筈だ。
僕は、この3つの切っ掛けで、ヘイト、ヘイト叫ぶ人々には、相当に碌でも無い考えを持つ人が含まれる。というか、それが多数派なのだろう。
そういう想いを強くし、冒頭の結論に至った。
なお、繰り返しになるが、店の前で、学校の側で、誰に対してであれ、怒声を、罵倒を、叩きつける阿呆は、警察が対応して当然と思っている。
また、どんな意見にでも公平に適応出来るなら、『表現の自由』とその他の権利との調整結果として、何らかの規制が有っても無条件な拒絶はしない。規制の中身が論議された時に、是非を考えれば良い。
傷つきやすい人を、無意味・過度に傷付けないような配慮は、この社会を良くする事なのだろうから。