覚悟こそしていたものの、隊長の仕事は想像以上に激務だった。
朝は誰よりも早く来て練習場や戦車に異常が無いか確認して、夜はこれに戸締り確認が加わる。
授業の合間や練習前後には砲弾や燃料の補充申請書類の決裁に各小隊長や幹部が作成した報告書の確認をして、生徒会や他の学科との折衝に突如来訪するOGへの対応も行わなければならない。
勿論、普段の練習指示や指導も手を抜くことなく行うと同時に100名を越える隊員たちにもしっかり目を配らせる必要もある。
慣れない仕事が急に増えたこともあって練習終了後の私は常に疲労困憊状態で、眠い目をこすりながら書類と格闘して寮に戻った瞬間制服のまま寝入ってしまったことも何度かあった。
副隊長としてある程度場数を踏んできたつもりではあったものの、こうして隊長の業務を引き受けてみると西住隊長がどれだけ凄かったのかを改めて思い知らされる。
こんなことにならないよう副隊長代理を指名するなり、素直に周囲に手伝いを求めるという選択肢は勿論あったのだが、私はその選択肢を自ら放棄してしまっていた。
実際のところ、小梅や直下といった車長組、それに隊長と近しい先輩方は代理初日の時点で「手伝えることがあったら言ってね?」と申し出てくれていた。
しかし、隊長が信頼して任せてくれたのだから可能な限り自分で頑張りたいという気持ちが強かった私は、あろうことか皆のありがたい申し出を固辞してしまった。
結果として職務の量は私のキャパシティを超過してしまった上、今さら無理そうなので助けて欲しいとも言い出せず、こうして多忙な日々を送る羽目になっている。
それでも体に鞭を打って隊長業務をどうにかこなし続けていたものの、疲労は私の思っていた以上に体に蓄積していたらしく、隊長代理期間残り1日となった金曜日の夜、これまで無事に代理をこなしてきたことで気が抜けたせいか、私はとうとう失敗を犯してしまった。
練習後に恒例となった隊長室での膨大な書類を処理していた時のことだった。
忙しさで買い置きをしておいたはずのコーヒーを切らしてしまい、カフェイン無しで睡魔と戦いながら書類整理を続けていた私にとうとう限界が訪れた。
体が言うことを聞かず、何度も何度もウトウトと船を漕ぎ初めてしまう。
これは本格的に不味いかもしれない――
そう自覚した時には既にもう手遅れで、いつの間にか目の前は真っ暗になり、気が付いた時に机に突っ伏している体勢だった。
慌てて顔を上げると窓の外の闇はさらに深まっていて、壁の時計に目を移したところ既に針は23時を回ってしまっていた。
「ああもう、こんな時に居眠りするなんて……」
最後の最後で気が緩んでしまったことについては悔やんでも悔やみきれないが、今さら後悔したところで時間が戻るわけじゃない。私は急いで頭を切り替えると机に残った処理前の書類をどうするか検討を始めていた。
本来なら隊長との約束通り業務を終えて寮に戻らないといけない時間だ。
ところが、困ったことに明日は土曜日で授業がなく、早朝から昼過ぎまでみっちり練習が予定されているため、午前中は書類仕事に取れる時間がまったく無い。かといって午後に仕事をやろうにも、隊長はお昼前には戻られることになっているので、そうなると隊長に未処理の書類を見られることになってしまう。
そのような無様は隊長代理を任された私としてはとてもじゃないけど見せられるものではなかった。
「……ごめんなさい、隊長」
残っている書類は残り僅かでそこまで時間はかからないはず。
それなら今すぐやってしまった方が良い。
隊長の言いつけを破ってしまったことに強い罪悪感を感じたが、仕方ないことだと自分に言い聞かせながらそのまま残って書類の処理を続けることにした。
「そうよ、今日だけ……今日だけ特別だから」
幸か不幸か睡眠を取ったことで頭はいたく快適に働き、深夜1時を少し回った頃にはどうにか全ての書類を片づけることができた。
無事隊長代理として職務の1つがほぼ完了したことに胸を撫でおろした私は荷物を持って隊長室を飛び出した。
いくら戦車道に関する業務で遅くなるかもしれないと事前連絡を入れていると言っても、日付も変わったこんな時間に戻ってきたら寮母さんにどんなお小言を言われるかわかったものじゃない。
それに、今は一刻でも早くベッドに戻って少しでも長い時間眠りたい。
決意を固め、ガレージの廊下を急ぐ私の耳に、遠くから反響する金属音が聞こえてきた。
こんな時間に何の音なのか。
耳を澄まして音の正体を探ろうとした私はそれが聞き慣れたある音だと気付き、背筋が凍った。
響き渡っているのは間違いなく装填練習の際に発せられる音。
練習用砲弾が床に敷かれた回収箱に落下する独特の重低音そのものだった。
「嘘でしょ……」
私の脳裏に宿ったのはすっかり忘失していた七不思議の噂。
自殺した隊員の幽霊が今でも夜中に練習を続けている――
西住隊長が冗談で話していたはずの怪談そのものが今この場で起こっているのだ。
「そんなわけない……わよね。あれは隊長の冗談だもの」
怪談なんて全て作り話に過ぎない。
隊長を始め実際に見た人なんて誰もいないし、例え昔のことでも在学中に自殺した隊員なんていたらそれこそ隊長や私が知らないはずがない。
必死にそう言い聞かせるものの、目の前で実際に起きている不可思議な現象から目を背けることは出来なかった。
出入り口の鍵は私が全部施錠したし、全ての部屋をチェックして残っている隊員がいないことも確認した。
それなのに、装填の練習音がこうして聞こえてくるのは異常以外の何物でもない。
恐怖は掻き立てられるばかりで、手からはいつもとは違う嫌な汗が吹き出し、夏だというのに周りの空気は冬のように冷たく感じられて腕には鶏肌まで立っていた。
正直言って今すぐこの場を逃げ出したかったが、隊長代理としての責任感がそれを拒んだ。
疲労困憊だった私が鍵をかけ忘れがあった可能性や何者かが非合法な手段でガレージに忍び込んだ可能性は決して否定できない。侵入者が夜中に自主練習をしに来るような困った隊員ならまだ良いが、もし不届き者が悪戯や犯罪目的で侵入していたとしたら戦車道チームへの損害は計り知れない。
そのような事態を見逃すことは隊長代理として出来るはずがなかった。
意を決した私は、隊長室の廊下から扉を開けてガレージへと足を踏み入れる。
小さな非常灯だけでうっすらと照らされた薄暗い空間が広がるとともに、規則的な金属音が音量を増し、不可思議な音が装填練習場から聞こえてくることがはっきりとわかるようになる。
私は扉横に設置してあった懐中電灯を灯すと、何者かに気づかれないよう、そのまま慎慎重に音の聞こえる方向に歩みを進めていった。
本来であればガレージの電気を点けるのが一番良いのだが、困ったことにガレージの電灯スイッチは装填練習場とここから練習場を挟んで反対側の整備区画にしか存在しない。
未知の存在相手に暗闇の中接近するのは躊躇われたが、これしか今の私には思いつかなかった。
先に進む度に懐中電灯で照らし出される武骨な戦車のシルエットはかなり不気味で、昼間感じるような頼もしい姿はまるで感じられなかった。
パンター区画、そして重戦車及び駆逐戦車区画を抜けて装填練習場に迫った私の目に、闇の中で一心不乱に黙々と装填練習を行う人影が映し出された。
『……』
何かを呟きながら一心不乱に装填練習機に向かう姿は昼間練習している隊員たちのようにとても熱心に感じられ、少なくとも窃盗や悪戯目的の侵入者ではないことはわかる。
残る問題はこれが生きている人間か否かに他ならない。
「大丈夫よ、幽霊なんているはずない。いるはずないもの……」
音だけならまだしも、こうして人の形がはっきりとわかる幽霊なんているはずがない。
私が鍵をかけ損ねた扉からたまたま入ってきた隊員がこれ幸いと自主トレに励んでいるだけ。
練習場近くに停められたエレファントの影に隠れながら、自分に言い聞かせるように何度も唱える。
3分か5分か、それとももっと長い時間だったかもしれない。
ひたすら暗示を続けていた最中、装填の音が突然止んだことに気づいた。
うっすらと見える人影が屈むような仕草を取ったのを見た私は練習機の砲弾置き場が弾切れに
なったのだと理解した。
幽霊がこんな細かいことまで再現できるはずがない。
だとしたらあれは間違いなく人間だ。
「ちょっとあなた、こんな時間に一体何をやってるの!?」
そう結論づけた私はエレファントの影から飛び出ると大声を上げ、懐中電灯を不届き者に向けた。
そして、その光が人影を灯した瞬間。
私は自身の選択を後悔することになった。
灯りの中に現れたのは紛れもなく人の形をした『影』そのものだった。
手足、胴体、顔。遠目でみれば確かに人らしいと言えなくもなかったが、黒い靄のようなものが蠢きながらどうにか人間を形成している異様な存在以外の何物でもない。
「……っ!?」
あまりの恐怖に声さえも出ない。
距離があるにも関わらず、その影から溢れ出る重苦しく冷たい空気、そして嫌悪感が全身に突き刺さるようで今にも押し潰されるそうだった。
黒い影は砲弾を拾い集めようと手で砲弾を掴み、顔を下に向けていたものの、懐中電灯の明かりに気づいたのか、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「ひっ……」
顔らしき部分は目も鼻も口も無く、見た目には黒い靄が広がっているだけだったが、私は本能的に理解してしまった。
この名状しがたい何かと目が合ってしまったことを。
『ア……アア……見ラレタ……見ツカッチャッタ……』
壊れたレコーダーから流れてくるような掠れた声にも関わらず、私の脳に直接語りかけてくるかのごとく言葉の内容をはっきりと認識できた。
『……報告サレ……タラ……今度コソオシマイダ……』
まるでルール違反を咎められた子のように悶え苦しむ影を視界に捉えながら、一歩、二歩と少しずつ後ずさりで距離を取る。
霊感なんて縁の無かった私にも充分理解できる。
コイツとは決して関わってはいけない。
『黙ラセナイト……モウ二度ト……試合ニ出ラレナクナル!』
両手を突き出し、こちらへ一直線に向かってくる影。
私はそれを目にするや否や、懐中電灯を影に投げつけて一目散にガレージの出口へ走り出した。
『アアアアァ……』
懐中電灯がぶつかった痛みか、それとも逃げられたことへのショックかは分からない。
背後で悍ましい雄たけびを上げる影を尻目に、私は目的地を目指してただひたすら走り続けた。
恐怖で歯はガタガタと音を立てているし、足も震えていて全力とはほど遠いスピードだったけどそれでも止まるわけにはいかなかった。
あれは明らかに怨霊とか悪霊といった類のもの。
そんな相手に襲われでもしたら大怪我どころか命だってどうなるかわかったものじゃない。
『ァ……ァ…』
幸運なことに影はそれほど足が速くないらしく、背後こそ確認していないもののガレージに反響していた掠れた声も段々と遠くなっていくのがよくわかる。
「はあ……はあ……これなら逃げ切れ……そうね」
息絶え絶えで隊長室から練習場を挟んだ反対側まで到達する。
目指していたのは整備区間と装填練習所の間、資料倉庫の隣に位置する外への出入り口。
明々と灯った扉を示す電灯が恐怖で凍り付いた心を癒してくれた。
今はとにかく外へ出ることが最優先。
恥とかプライドなんて考えず、誰でも構わないからとにかく助けを求めよう。
息を呑み、残り僅かな距離となった扉に駆け寄ろうとしたその瞬間。
先ほど経験した以上の強烈な寒気と嫌悪館が私を襲った。
再び押し寄せる恐怖で足が震えて、好調だった歩みはすっかり息を潜めてしまう。
そして、恐る恐る周囲を見渡した私の視界に悪夢のような光景が広がっていた。
『影』がいた。
それも一体だけじゃない。
戦車の影や練習場、あろうことか外への出入口の横、資料倉庫の扉からも複数の『影』が湧き出て来て、ゆらりゆらりとこちらへ向かってくる。
数十体を越えるであろうその一群ですら恐怖感を与えるには充分過ぎるぐらいだったのに、ガレージ奥からさらなる『影』たちがこちらへ向かってくるのが暗闇になれた目で視認出来てしまった。
『練習ノ邪魔……ユルサナイ……』
『コイツガイナクナレバ……レギュラーニナレルカモ……』
『ドウシテ……私ジャナクテアンナ奴ガ選バレルノ……』
『クヤシイクヤシイクヤシイクヤシイクヤシイクヤシイ』
直接絶望を脳に叩き込んでくるかのような恐ろしい声。
そして人のようで人とは異なる悍ましい仕草。
大群を成して接近してくる化け物を前に、ただでさえ限界寸前だった理性に大きな歪が走る。
私は今までの人生で経験の無いような凄まじい悲鳴を上げながら、行く当ても無くただただ『影』がいない方向に無我夢中で駆けだした。