それは夏休みも終わりに近づいた8月下旬のことだった。
西住隊長が家元の代理で急遽東京で開催される戦車道連盟主催の催しに出席することになり、不在となる一週間、私が隊長代理としてチームの運営を一手に任されることになった。
「急なことでエリカには迷惑をかけてすまない。留守の間、隊のことをよろしく頼む」
「はい。隊長のご期待を裏切らぬよう全力を尽くします」
学園艦を発つ前日、隊長は数日中に必要な手続きや書類、いざという時の対処方法や重要な物品の管理といった隊の運営に関する事項について様々なことの引継ぎをしてくれた。
普段から隊長の仕事には多少なりとも関わっていたため、ある程度理解していることも多かったが、初めて耳にしたことも少なからずあった。
その1つが「これが一番重要な話なんだが」と前置きをして隊長が話してくれた時間に関する決め事だ。
「どれだけ忙しくても必ず23時には業務を止めて寮に帰るんだ。決して日付が変わるような時間までガレージや隊長室に残らないように。わかったな?」
確かに隊長室で書類整理をしていた時、まだ処理すべき書類が残っていても23時が近づくと「残りは明日にしようか」と隊長から帰宅を促されていた。
私が「もう少しで終わるので全部やっていきませんか」と提案したこともあったが、隊長にダメだと却下されていた。
その時はあらゆることを完璧にやり遂げる隊長が何故こんな中途半端なところで切り上げるのか不思議に思っていたが、どうやらこの決まりがあったかららしい。
それにしても、どうしてこのようなルールが存在しているのだろうか。
寮には門限があるものの、戦車道に関する業務で遅くなる場合にはあまり煩いことは言われないし、隊長室にはソファがあるので最悪そこで寝ることも不可能ではないはずなのに時間がわざわざ暗黙の了解として決められている。
疑問に思った私が隊長に問いかけると隊長は少し考えるような素振りを見せた後、「エリカも聞いたことはないか? 黒森峰七不思議の話を」と予想外の言葉を口にした。
黒森峰七不思議というのは黒森峰女学園に伝わる噂のことを指している。
『レギュラーになれなかったショックで自殺した子の幽霊が今も夜中にガレージで練習している』
『練習場の端にある祠にお供えをすると良いことが起こる』
『誰も乗っていないはずのティーガーがグラウンドを走り回る』
『旧校舎のトイレには悪霊が封じられている』
『いつの間にか知らない生徒がクラスに混ざっている』
『学園内の神社で好きな人の名前を3回唱えると両想いになれる』
といった、どこの学校にもよくある与太話。
私たち2年生は勿論のこと1年生や3年生、代々の先輩方でも知らない人はいないほどこの学園では有名な怪談話で、七不思議という名称のはずなのに実際語られている数は10や20では聞かないぐらいバリエーションが豊富らしい。
「……聞いたことはありますが、あれはただの噂話ではないんですか?」
小さい頃は図書館に置いてあった怖い本を読んで、妖怪が本当にいるのだと信じてしまい、夜中1人でトイレに行けなくなってしまったなんてこともあったけど、今となっては怪談や心霊体験といった噂話なんて眉唾以外の何物でもない。
誰か実際に見たという知り合いがいるわけでもないし、私に七不思議のことを話してきた小梅や直下、それに後輩たちも皆が皆伝聞で耳にしただけに過ぎなかった。
現に直下に誘われて願いが叶うという祠に安売りの缶コーヒーをお供えしたことはあったけど、特に何か良いことがあったわけでもない。
そもそも、この現代社会において心霊現象なんて非科学的にもほどがある。
世間を騒がせる心霊写真や恐怖動画だって編集ソフトで簡単に作成できるのだから信ぴょう性もあったものじゃない。
「私も最初はそう思っていた。だが、それは間違いだと思い知らされたんだ」
予期せぬ隊長の言葉に思わず息を飲む。
まさか隊長が心霊現象に遭遇したことがあるとは夢にも思っていなかった。
いつも冷静な隊長が思い違いや勘違いをするとは思えないのでおそらくこれは本当にあった話なのだろう。
心霊現象は実在した。
私はその事実に驚愕しながらも「あれは去年の夏のことだったんだが……」と真剣な顔で語り始める隊長の話に耳を傾ける。
「あれは0時を回った頃だった。隊長室から出ようとした私の耳に何かが落ちるような音が聞こえてきたんだ。音のした方に近づいてみると誰かが装填練習をしている時の音だとわかった」
淡々と語り続ける隊長の声に思わず聞き入ってしまう。
装填練習で一番効果があるのは勿論戦車に搭乗しながら実際に行うことだが、いつも戦車を動かせるわけではないし全員が全員いつも戦車に搭乗できるわけでもない。
そんな時のためにガレージ内には装填練習用の施設があり、誰かが練習している間はガレージ内にその特徴的な音が響き渡るのが日常的な光景だ。
「最初はこんな夜中まで熱心な子がいると感心したんだが、すぐに思い直した。出入口の鍵は残っている者が誰もいないことを確認した私が21時に全て施錠したはずなんだ。今練習をしている子は子はどこから入ってきたのだろうか。不思議でならなかった」
語られている光景を想像して背筋が冷たくなる。
戦車道チームのガレージは頑丈で容易に潜入できるような隙は無いし、鍵も簡単に複製できない特製品を使っている。
当番の子や幹部クラスの人であれば合鍵を持っているだろうけど、ずっと残っているならともかく、戸締りされた後にわざわざ戻ってきて自主練習をするのはあまりに不自然だった。
そのような状況でガレージから装填の練習音が聞こえてくる。
これはもう明らかに異常事態だ
「事実を確かめるべく練習場に向かった私はあまりの光景に目を疑ったよ。そこには……」
淡々と状況を説明していた隊長の口が突然動きを止める。
息を呑み、恐る恐る「何がいたんですか?」と口にしようとした私を遮るように――
「……髪もジャケットも、全身が真っ赤に染まった恐ろしい形相の少女が泣きながら練習していたんだ!」
突然隊長は訓練で皆に指示するような大声で叫んだ。
「ひっ……」
声の迫力と語られた恐怖の光景に驚いた私は思わず悲鳴を上げて後ずさってしまう。
背筋はすっかり凍り、手にはうっすらと汗が滲んでいるのがわかる。
怪奇現象を信じているわけではないけど、実際にこうして怪談話を耳にしてみると怖いものは怖い。
「た、隊長……やはり怪談は噂ではなく本当に……」
震える唇をどうにか動かし、隊長に問いかける。
まさか自殺した隊員の幽霊の噂が本当のことだったとは夢にも思っていなかった。
確かにそんな恐ろしいことが起こっているのなら23時までにガレージを出るよう厳命されるのも当然の話だ。
もし私が薄暗いガレージでその光景に出くわしていたら腰を抜かしていたかもしれない。
恐怖で震える体を隊長に悟られないよう必死に取り繕いながら「でも隊長が無事で良かったです」と安堵する私に隊長は少し困ったような顔を浮かべたかと思うと、言い辛そうに口を開いた。
「すまない。今の話は全部冗談だ」
「……え?」
冗談という普段の隊長からは想像もつかない言葉に私は唖然としてしまう。
それを見た隊長は申し訳なさそうな表情で「以前ティーガーⅠの乗員メンバーで怪談をした時に聞いた話なんだ」と教えてくれた。
「まさか、エリカがここまで驚くとは思わなかった」
「……隊長、悪い冗談は止めてください。他の子たちが信じたらどうするんですか」
隊長が突然怖い話をするという想像外の行為には驚かされたものの、私としては冗談を言う相手に選んでもらえたということでむしろ嬉しいくらいだった。
ただ、隊長に真顔で言われると本当のことだと思ってしまうので、冗談なら冗談でもう少し砕けた表情をして欲しかった。
「七不思議については私も確かめたわけではないのではっきりしたことは言えないが、時間のルールに関しては先代の隊長からメリハリをつけるためだと聞いている」
「メリハリですか?」
「無制限に時間を使えてしまうと、睡眠や食事、勉学といった他の必要な時間を削ってまで職務に没頭しかねない。それを防ぐための措置だそうだ」
あの時、もし隊長が帰宅を促してくれなかったら私はきっと日付が変わろうと書類仕事を続けていた気がする。
おそらく睡眠時間が削られるであろうし、間違いなく長期的に考えれば体を蝕むのは確実。
それを考えれば確かに良く出来たルールなのかもしれない。
「エリカにはこれからも黒森峰を背負っていってもらう必要がある。私が言えたことではないかもしれないが、無理だけはしないで欲しい」
心配そうに見つめる隊長に「気を付けます」と約束して私はそのまま引き継ぎ作業に戻った。
信頼して隊を任せてくれる隊長を失望させるわけにはいかない。
隊長の一言一句を聞き逃さぬよう私は引継ぎ作業に没頭した。
その後、作業の詳細な詰めを進めたり、先輩方から差し入れで頂いた夕飯をご一緒させてもらったりしているうちに私の頭の中から七不思議のことは頭から抜け落ちて行き、隊長と別れる頃にはまったく気にも留めていなかった。