なんか、しょうもない増田につけたコメントにやたらと星がついてるみたいなので、補足しておく。いや、補足するほどの情報もないのだけれど、ちょっと誤解を招いてはいけないなあとも思ったので。
元増田
に関しては、「ちょっと時代がズレてないか」みたいな指摘もブコメに多い。私もそう思わないでもないが、まあ、地域差、コミュニティの差というようなものもあるのだろう。私自身の経験ではたしかに子どもの頃はいわゆるナポリタンが標準で、それが70年代にミートソースが出始め、80年代にはもう一通り揃ってたような気がするのだが、個人的には自分自身の成長の中で新しいものを知っていったという感覚なので、それが時代と関係していたとまで断言する気にはなれない。
さて、60年前の方だが、60年前には私は生きていない。じゃあなぜ、「60年前の料理本」なんて書けるのかというと、これはウチの母親が嫁入り修行中に買ったと思われる料理本で、長らく母親のネタ本になっていたのを中学生か高校生ぐらいのときに面白半分で読んだのを覚えているからだ。だから、ひょっとしたら70年ぐらい前のものかもしれない。奥付もちゃんと見たのだけれど、はっきりと覚えていない。ただ、1945年よりは後のものであったことはまちがいない。だから、70年以上前ということはないだろう。
「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」というのは、そこに書いてあった。もうちょっと正確には、「細めの乾麺をゆでて使います」だったと思うが、正確な表現は思い出せない。なぜそんなことを覚えているかといえば、なんだかあまりにもあんまりだったので、とてつもなく奇妙に思ったから。私が子どもの頃にはもうスパゲッティは日常食だったから、「これはあり得ないよな」と思ったのも無理はない。
さて、ではこの料理本が書かれた1950年代には、それほどスパゲッティが珍しいものだったのだろうか。私はそうは思わない。いまのようにイタリアンの店がそこらにあるような状況ではなかったとはいえ、戦前から洋食を食わせる店はあり、スパゲッティもそれなりに供されていたらしい。では、なぜ「うどん」なのか。それは単純に戦後の物資不足のせいなのだろう。
第二次世界大戦後、日本は食糧難に陥った。何もかも放り出して総力戦を戦ったツケが回ってきたわけだ。戦争中は、案外と食い物はあったらしい。これは、自国内での生産が十分でなくとも、植民地から食料を移入できたから、というのが大きいようだ。だから、植民地の方の食糧事情は悪化したのだろうと思うのだけど、今回、そこまでは調べていない。ともかくも、植民地は失う、国内の農業は働き手を失って生産力が低下している(ちなみにこの頃にいまでいう中学生ぐらいだったウチの親父は、ムラに残った数少ない労働力としてこき使われ、百姓が厭になってしまったらしい)。そんな日本人を餓死させるわけにいかないから、アメリカは多くの物資を日本に支援した。その主力は小麦だったわけだが、大部分は薄力粉だったようだ。
スパゲッティは、グルテン含量の高い強力粉でつくられる。一方のうどんはふつうは中力粉でつくるが、いよいよなければ薄力粉でつくれなくもない。ということで、おそらく日本の製麺業界は、うどんの乾麺はつくれても、とてもスパゲッティまでは手が回らない状態だったのではないだろうか。
そういう状態は長くは続かなかったようで、この料理本の奇妙な記事を発見した私が母親に「むかしはスパゲッティの代わりにうどんを使ったの?」と尋ねたときには、母親は馬鹿にしたような顔で「そんなん、聞いたことない」と言い放った。だから、実際にうどんの乾麺をスパゲッティの代用にしなければならない時代はほんの短期間で終わったのだろう。おそらく花嫁修業中の母親がスパゲッティの項目まで進むまでに、スパゲッティは入手可能になったのではなかろうか。
もっとも、私の記憶にある家庭のスパゲッティは、ふにゃふにゃのゆで麺であり、決しておいしいものではなかった。あれだったら、うどんで代用というのも、あり得なくはなかったかもなあと思う。
資料が1冊の料理本に過ぎないので(しかもそれが記憶の中の断片に過ぎないので)、これ以上書くことはない。ただ、こういう食にまつわる歴史は、古本屋とかに行けばそれなりに資料も手に入るはずなので、いつか時間ができたらもうちょっと漁ってみたいなあとは思う。時間、あるのかなあ…