【李信恵氏年表】
1910年 李信恵氏の母方の祖母である山花玉子氏(韓国名は不明)が慶尚道にて誕生。
1925年ごろ山花玉子氏が16歳のときに生野区へ来日(1)。
1928年 李信恵氏の実の父親である鄭東泉(通名:烏川龍男) 生誕(2)。
1930年7月18日 李信恵の母である李福金氏(通名:山花智恵子)が生誕。
◯2015年6月18日11時34分本人ツイート◯
1930年代半ば頃鄭東泉氏の一家が朝鮮半島から岡山に移住する(3)。
1944年鄭東泉氏が前妻と結婚。ただし、前妻は2人の子供を残し、20 代の若さで病死。(時期は不明)
1945年8月15日終戦。
1945年10月15日 在日本朝鮮人連盟結成。
1948年李福金氏の前夫である高英哲氏が済州島四・三事件から逃れるため日本に逃亡。
◯2014年3月29日1時40分本人ツイート◯
1949年9月8日在日朝鮮人連盟解散
1950年1月9日在日朝鮮統一民主戦線(略:民戦)(=1955年5月25日解散)
1950年6月朝鮮戦争勃発。(『鶴橋安寧』では「朝鮮戦争2年目にあたる51年には・・・(218頁)」とある。)
1950 年7 月祖国防衛委員会ならびに祖国防衛隊が結成(=1955年5 月25 日解散)
1951年6月24日(『鶴橋安寧』によれば朝鮮戦争より2年目)吹田事件発生(4)。
1951年12月16日鶴橋・生野区にて親子爆弾事件発生:祖国防衛隊のメンバーが主犯とされている(5)。
1952 年康好氏(鄭東泉と鄭東泉の前妻との間に生まれた長男で朝鮮籍。)が誕生する。
1952年李福金氏と高英哲氏が結婚(6)
1952 年~1959年 この間、長男(文菩)・長女(文玲)・次男が生まれる。
1953年2月7日 文芸雑誌「ヂンダレ」が創刊される。なお、この雑誌の創刊にかかわったのは詩人である金時鐘氏、韓羅氏・権敬沢氏・宋益俊氏・朴実氏・洪宗根(=洪允杓)氏、「李述三」と名乗っていた高英哲氏である。(7)(8)
1953年朝鮮戦争休戦
1955年5月25日祖国防衛委員会、在日朝鮮統一民主戦線解散。
1955年5月26日朝鮮総連結成
1959年12月25日夜高英哲氏が逮捕される。
◯2011年5月8日7時33分本人ツイート◯
上記のように「オモニの前の旦那さんは、親子爆弾事件の首謀者の容疑でKCIA に捕まった。帰国政策の一環で共和国に帰ったというけど、実質は日本と韓国が協議して、日本に置いておけないからって話だったとオモニは云う」、「高英哲(李述三)が日韓両国政府およびKCIAに指名手配された」と李信恵氏はツイートしているが、KCIA(大韓民国中央情報部)は1961年に設置された機関である。
1960 年 高英哲氏、長男および長女が帰国事業にて北朝鮮に渡り、平壌で生活を始める。ただし、李福金氏と次男は日本で待機。以降、生き別れの状態が続く。(9)
1963年ごろ李信恵氏の実父である鄭東泉氏と李福金氏の白黒写真がなぜか撮影される(10)。
1965~1966 年 李福金氏が創価学会の知人を通して鄭東泉氏とお見合いし、結婚する。(11)
1966 年~1969 年ごろ 昭和40 年代に金銭トラブルに巻き込まれ、(12)鄭東泉氏の工場が倒産する。
1971年8月18日李信恵氏が誕生する。
1984~1986年李信恵氏が梅田で補導される。その際、指紋押捺(指10本)の記録が取られる。
◯2011年1月25日1時18分本人ツイート◯
◯2011年10月16日23時24分本人ツイート◯
1986年李信恵氏が15歳の時に通名を捨て、母親の姓である「李」を名乗る(13)。しかし、韓国の社会制度的、法制度的側面から本来は父親の姓であるはずの「鄭」を名乗らなければいけない。
◯2014年1月13日21時50分本人ツイート◯
◯2017年9月29日6時37分本人ツイート◯
1987年李福金氏の前夫である高英哲氏が逝去。
1993年李信恵氏の実父である鄭東泉氏が逝去。
1996年12月25日李信恵氏が日本人男性と結婚し、民団を通じて戸籍とパスポートの作成を行う
① 2013年12月25日4時26分、結婚記念日について本人ツイート。
② 2014年3月26日7時59分、戸籍作成について本人ツイート。
③ 2013年6月24日21時51分、民団を通して戸籍作成及び韓国籍が無かった旨をツイート。
④ 2011年10月4日5時4分、25歳まで無国籍であったとツイート。
⑤ 2016年4月21日18時44分、かつて無国籍状態でパスポートがなかったことを告白するツイート。
⑥ 2014年10月31日8時36分、朝鮮籍でも韓国籍でもない告白する本人ツイート。
⑦ 2011年7月18日8時5分、外国人登録証には国籍が最初から「韓国」と記載されていたことを告白する本人ツイート。
②から⑥の本人ツイートでは李信恵氏が両親の国籍問題から無国籍で無戸籍であることを告白しているが、⑦によると外国人登録証(外登)の国籍欄には「韓国」と記載されているが、本国に出生届が出されていないとツイートしている。しかし、外登の国籍欄に韓国と記載されているということは、領事館を通して本国に出生届が出されているはずであり、戸籍が存在しないというツイートと矛盾する。また、無国籍であるという旨も、パスポート作成の段階で外登に「韓国」と記載されていたと本人がツイートしているので矛盾する。
2005年韓国にて戸籍法(韓国の民法)改正案通過(14)。本人の希望で母方の本貫を名乗ることが可能になる。
2008年1月同上戸籍法が施行。
2008年李信恵氏が初訪韓する
◯2010年11月6日5時42分本人ツイート◯
2009年李信恵氏、「サーチナ」で仕事を始める(15)。この時点でライター歴15年。
2012 年12 月9 日~10 日韓国大統領選挙の投票を韓国領事館で行う。
◯2012年10月9日22時13分本人ツイート。◯
【脚注】
(1)李信恵『#鶴橋安寧―アンチ・ヘイト・クロニクル』(影書房 2015年)P.209 L4
(2)同上、P.210 L8
(3)同上、P.211 L6
(4)「毎日新聞」(1952年6月25日付 東京夕刊 P3)。
(5)①「朝日新聞」(1951年12月17日付 大阪朝刊 p3)では毎日新聞のカメラマンが暴徒に殴られていると記載されている。
また、当記事では慰霊祭の主催団体としている朝鮮人民主民族戦線統一会議・同青年会議・朝鮮人強制追放反対闘争委員会などを「旧朝連系右翼団体」と警視庁が認定したとあり、逮捕者の名前は「玄相国」「宋健永」以外、確認できない。
②「朝日新聞」(1951 年12 月17 日 大阪朝刊 p3)では、警視庁の報告に基づき、大阪地検が特需工場襲撃デモを「あくまで日共関係の指令による武力闘争の一環をなすもの」とする見解を示し、検察庁も捜査を行っている旨が報道されている。
③「読売新聞」(1951 年12 月17 日朝刊14 版)でも報道されおり、実際に高英哲氏が指名手配されたという報道は確認できなかった。
(6)数え年、22歳のときに結婚。高英哲の主賓は「朝連幹部」、母親は両親が民団に近かったので「民団の組織で育まれた知性あふれる女性」とする記述が存在する。(李信恵『#鶴橋安寧―アンチ・ヘイト・クロニクル』(影書房 2015年) P.217 L6
(7)金時鐘『朝鮮と日本に生きる:済州島から猪飼野へ』P.276 L9-10、(岩波書店2015年)
(8)大阪朝鮮詩人集団『復刻版『ヂンダレ・カリオン』(別冊1)』(不二出版 2008年)P.10
(9)原尻英樹によると、帰還事業は1959年頃よりスタートしており、高英哲とその子供らが帰国した正確な西暦は不明。原尻英樹『在日朝鮮人の生活世界』(弘文堂 1989 年)p.57
(10)李信恵『#鶴橋安寧―アンチ・ヘイト・クロニクル』(影書房 2015年)P.228 L5
(11)結婚した西暦は不明だが、「再婚後5年が過ぎても子供が・・・」から推測すれば1965年。同上、P.223 L11
(12)同上、P.225 L2
(13)同上、P.233 L2
(14)吉川貴恵「韓国における戸主制度廃止と家族法改正―女性運動の観点もふまえて―」『立命館法政論集』13号 P.112-P.149 2015年
(15)李信恵『#鶴橋安寧―アンチ・ヘイト・クロニクル』(影書房 2015年)P.7 L9