1951年12月16日に大阪鶴橋(生野区)で親子爆弾事件が起きた。この事件は、李信恵の生まれる前に母が最初に結婚した相手、高英哲らが起こした事件であると『鶴橋安寧』および過去ツイートに多く見られる。
<魚拓>
<魚拓>
<魚拓>
李信恵の『鶴橋安寧』では・・・・
「同年、12月16日には「親子爆弾事件」が大阪市で起きた。在日朝鮮人によって、工場などが襲撃されたとされる事件だ。高英哲氏は、「自分の同胞を殺す爆弾を作っていることは許せない」と、「祖国防衛隊の最前線にいたという。この数年後、この親子爆弾事件の首謀者として、日本の公安と韓国政府から、オモニの前夫は指名手配される。オモニは子どもたちを必死で育てながら、夫の帰りを待っていた。時々ふらりとと帰って来ては、子どもを抱きあげ、そしてまたどこかへ行ってしまう。なんちゅう奴や。(218-219頁)」
と記されている。なるほど、どうやら親子爆弾事件とは極悪非道で残虐極まりない事件なのだろう・・・・だが、それは李信恵の妄想・デマである。そして悪質と思えるのが、ネット右翼が「在日の重大テロ事件」という虚言を支える根拠の1つに「親子爆弾事件」が位置付けられており、李信恵が何の疑いもなく同調してしまっている御粗末さである。
しかし『大阪府警史<第3巻>』を入手し、李信恵氏の主張を史実に基づき検証すれば、全く違う事実が見えてくるのである。鶴橋地区のクラスター爆弾を作る同胞町工場に侵入してクラスター爆弾生産をするな、工場を壊す、機械を壊すと言いに行っただけの事件である。
詳しくは、以下の画像群を簡単に示すが、必要であれば丁寧な画像を日を改めて提示する。だが、私は李信恵とは違い、適切に原点確認を行い史実検証をしており、親子爆弾事件については「324頁-327頁」にかかれている。もし所持している方が他にもいたら確認するとよく分かるだろう。
つまり「鶴橋駅前にゴム草履を30足を巻いただけ」にすぎない事件である。しかしながら李信恵はこの事件で李福金(李信恵の前夫)の高英哲は首謀者として逃亡・指名手配されたと鶴橋安寧に記している。
ましてや日本(公安)と韓国(KCIA:1961年設立)に指名手配されたと主張している。しかしがら親子爆弾事件発生は1951年12月であり、KCIAにどう指名手配されるのだろうか。そして、日韓国交正常化は1965年であり、この当時の日韓両国は正式な外交関係すら結ばれておらず、韓国が何をどう日本に関与できたというのだろうか。
でっち上げも甚だしい歴史修正主義であり、私はネトウヨの歴史修正主義と同じく、李信恵の歴史修正主義にも徹底抗戦したい。
更に嘘を彼女は重ねる。1959年の逮捕まで逃亡生活していたと『鶴橋安寧』に書かれているが、1952年に結婚式を挙げ主賓が挨拶しているとありえないことを書いている。それは二重の意味で「ありえない記述」だった。なお『鶴橋安寧』のゲラチェックがあまりに酷いのでこちらで要点をまとめると次のことである。
「数え年、22歳のときに李福金(李信恵の母)が高英哲と結婚したと記されている。その中で、高英哲の主賓は「朝連幹部」であり、母親・李福金は両親が民団に近かったので「民団の組織で育まれた知性あふれる女性」と言われたと記述している(217頁)。
→年表および李福金の数え年を逆算すると、この時「1952年の結婚」である。
くりかえす「親子爆弾事件」は1951年の12月だ。
①指名手配され逃亡しているのに結婚式?
②朝連幹部サイドと民団サイドが主賓としてこの時代に呼ばれるとはどこの惑星の常識であろうか?
更に1957年、高英哲が所属していた大阪在日朝鮮人詩サークルの雑誌ヂンダレのメンバーと<にこやかに>集合写真に収まっている。
高英哲のペンネーム李述三の名前が確認出来る。なお現段階では本人特定はできていないため、もし関係者のご家族・御遺族がいらしたら連絡を頂けると幸いです。
さて結論に入ろう。
①親子爆弾事件とは虚構の事件であり、ましてや指名手配される事件では歴史上ありえないということ。
②仮に指名手配されているのであれば、なぜ高英哲(李述三)は「結婚式」が挙げられ
、ヂンダレメンバーたちと仲良く小説活動ができ、時たま家に帰ることができるのか。日本の警察を馬鹿にするのも大概にしてほしいものだ。
③そしてなぜ朝連と民団が仲睦まじく、式場で幸せを共有しているのか。