文明・西と東 池田先生とクーデンホーフ・カレルギー伯との対談です。 投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2018年 6月 5日(火)02時21分54秒
>>> 日蓮仏法2.0さま、引用失礼します。
>仏法が根本で世法の問題は二次的・派生的な問題です。<
日蓮仏法2.0さまの論は少し考えて頂きたいと思います。
それは、依正不二の説明と矛盾があると思えるのですが・・・。
仏法が主で世法は従で良いのでしょうか。<<<
・・・ 依正不二は正報(主体)と依報(その環境)が現象としては異なっているが、本質的には不可分離・相互依存・相互作用の関係にあるという原理ですよね。
環境の作用や影響が強ければ、私たちはそれに依存し、影響を受け、従属する関係にまで陥ってしまいます。
その場合には結果的に、「生まれ育った環境が悪かった」、「こんな私になったのはあなたのせいだ!」等々、環境の「犠牲者・被害者」としての意識が育成されます。
人を恨み、自分を哀れむような人生を歩むことになります。
これは業(カルマ)の問題でも同じです。
逆に、主体的に宿命転換・境涯革命・諸願満足の人生を歩もうとするのであれば、実践的な問題として、自分がビジョン・展望を掲げ、唱題行に励み、自分の課題を達成しようと具体的な努力を重ねる必要があります。
宿業で泣くのか、自分の人生の創造者になるのか。環境の犠牲者となるのか、環境を変えていく主体的な生き方をするのか。
これはSGの実践教学の基礎のはずです。
この変革とか転換の原理を発動するのは、妙法の実践です。
この「今ここで未来のために新しい因を積む」主体的な実践が下種仏法・本因妙の仏法と言われる所以です。
以上のように、単に理論的に正報・依報の相即関係を考え、述べるのではなく、実践的に現状変革を問題にする場合には、正報の主体的生き方・行動が決定的に重要になります。
ちなみに、この関係は一念三千についても妥当します。自分の心・一念に三千の諸相が含まれていることを観想するのは「理の一念三千」の立場です。その視座からは森羅万象が一念三千の当体などと達観することができます。
この理論的・一般的見方に対し、この原理を実践的に発動させるのが大聖人の「事の一念三千」です。
敢えて立て分けて言えば、「妙法五字」を一念三千の原理と観れば、この妙法を題目として唱える南無妙法蓮華経の七字が、その原理を発動させる修行になります。
これはまた、仏法の実践によって仏性・仏界を九界の世界である世法に展開することを意味します。
仏法が世法を変革し、リードするのです。
つまり、「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(四条金吾殿御返事 P0169)。
>>> 師の言葉をただ繰り返しているのが真の弟子ではない。それを応用し、発展せしめて、師の意思を実践し師の思想を実践していくのが、弟子の中の弟子であることをしらねばならない。<<<
まさにその意味において、私は池田先生の人間主義の仏法を継承発展させている自覚でいます。
拙書の「第二部 創価学会における日蓮本仏論の行方」の中の第二章で、池田先生の『法華経の智慧』における論理展開を分析しています。
先生はすでにこの時点で、正宗教学だけに留まっていません。
逆にそれを乗り越えるために、本覚思想、凡夫本仏論、生命論などの要素を導入し、展開しています。
したがって、それ以前の池田先生の話や講義や著書を引っ張り出してきても、私は違和感を覚えてしまうのです。
未だに近中世の日蓮教学に逆戻りしたり、それに拘泥するのは、池田先生の努力を無視することだし、かつ先生の本意に反することだと思います。
池田先生は21世紀の日蓮仏法を目指していたと思いますが、いかがでしょうか?
いずれにせよ、私は21世紀のグローバル社会で生きる在家仏教徒のために、人間主義の日蓮仏法を構築してまいります。
https://www.amazon.co.jp/dp/4802094086
|
|