先日、とある神奈川県議がひき逃げ疑惑で炎上した。報道によると、事故が起こったのは2018年5月12日。県議が車で男子高校生の自転車と接触事故を起こして怪我を負わせ、警察に連絡せずに示談で済ませ、現場を立ち去ったという。この一件が明るみに出たとたん、県議への非難が殺到した。
すべての運転者には「救護義務」がある。交通事故を起こして怪我人が発生したら助けるのが当たり前だ。県議であれ誰であれ、この義務から逃れようとするのはおかしい。まして相手は高校生。まだまだ子どもで、社会的弱者ではないかーーと。まさしく炎上すべくして炎上したのである。
県議の振る舞いは明らかに不公平で、しかも被害を受けたのは高校生という弱者。そうした大義名分があると、炎上にドライブがかかる。まとめサイトの記事やTwitterのリツイートでこの一件を後から知った人びとが、次々と県議叩き=弱者救済に参加してくる。他の誰が同じ発言をしていても関係はない。不公平を諌め、弱者に手を差し延べる行為が気持ちよく、達成感が得られるからに他ならない。
こうした「フェアプレー精神」や「弱者救済」は、かつてマスコミがその絶大な力で一手に担っていたものだった。1960年代後半、ロバート・キャパや沢田教一らの写真が契機になってベトナム反戦運動が急速に盛り上がったのはその好例だ。彼らが提供する質の高い情報が、人びとの共感を呼び、社会を大きく揺さぶったのだ。しかしネット時代のいま、情報の「量」が「質」を上回る現象が起きている。
もっとも、アンフェアを糾弾する側は必ずしも量を意識していない。1対1の対話のつもりであることが多いのだ。しかし、糾弾される当事者にとっては、何千何万対1。まさに「寄ってたかって」袋叩きにされているように感じるだろう。
この齟齬がネットの特徴のひとつでもある。ネットの力で、人びとの「フェアプレー精神」は増幅され、圧倒的な物量になり、驚くべき爆発力を持つに至るのだ。
この、ネットでの「フェアプレー精神」の増幅力はしかし、発信する側、とりわけフォロワーを多く集める企業アカウントなどを勘違いさせてしまうことが多い。
例えば、先ごろの日大アメリカンフットボールチームの騒動のような不謹慎なものを見つけて指摘すると、フォロワーたちから「よくぞ言ってくれた!」と支持される。役に立つことや面白いことを投稿するよりも、遥かにバズりやすい。人びとのなかに「フェアプレー精神」が本能的に備わっているため、こうした「代理フェアプレー」で極めて簡単に共感が得られるのだ。
これが成功体験となって「代理フェアプレー」を繰り返しているとどうなるか。よく見られるのが「自分には説得力がある」と誤解してしまうケースだ。しかし実際のところは威圧感が生まれているだけにすぎない。気がつけば、いつしか「強者」として扱われ「上から目線で物を言っている」と受け取られてしまうことになるだろう。
「フェアプレー精神」は、もちろん悪いものではない。むしろ、人間の集団を成立させ、維持していく上で極めて重要な「本能」のひとつだ。しかし、社会を大きく拡大し、無限に増幅していくネットのなかで「フェアプレー精神」を発揮することには細心の注意が必要だろう。客観的な視点を失い、不用意に正義感を振りかざしていると、やがて痛い目にあうということも大いにあり得るのだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.