五重の相対と八重の相対 議論を深めませんか 投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2018年 6月 3日(日)20時20分3秒
>>> 日蓮仏法2.0さん、即身凡夫本仏論を読みましたが、五重相対はどこに書かれてありますか。<<<
新旧両版共に「第三部 十界互具の凡夫本仏論」 の中の第三章で、『開目抄』で提示されている五重相対を扱っています。
第三章 日蓮独自の教判
一 五義判
二 五綱の国師は末法の教主
三 五重相対
権実相対
本迹相対
末法の本門観心の視座
種脱相対
四 観心本尊のための一念三千
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>>> 仏法との差違は・・・文証を上げてください。世法と仏法との差違は無いと、私は先輩より教わりました。文証です。
御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり (檀越某御返事 P1295)<<<
大聖人の基本思想が正法を立てて、国、すなわち王法・世法を正す「立正安国」であることは、私たちの共通の認識ですよね。ただしこの場合、立正が根本・本因、安国はその結果という関係があります。関連個所を引用しませんが、要は、仏法の正邪で混乱していれば、人間の精神面での乱れの為に世法・世俗が乱れ、天変地異・社会不安が発生するという因果関係が説かれています。だからこそ、まず第一に正法を立てるべきだという論理です。政治・社会・経済などの世俗的な次元の諸問題を解決することで、正法を立てる訳ではないです。あくまでも正法は根っこで、世法は枝葉の関係です。
さて、「御みやづかい」ですが、これを「法華経とをぼしめせ」とは、その前に記述されている文の通り、「法華経を十二時に行ぜさせ給う」という意味です。
この基本姿勢は大聖人の中では初期から一貫しています。
「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし」(唱法華題目抄P0012)。
現代的に言えば、すべてを信心で捉え、価値創造し、また変毒為薬していくという姿勢であり、行動です。
九界の世界である世法上の営為としての「一切世間の冶生産業」は、観念的にそのままで仏界の表れとしての「実相」と見なすことができても、仏界そのものではありません。
仏界湧現の唱題行と不断の努力によって、九界の世法を仏界へと転換していく必要があります。実践を介しない「世法即仏法・九界即仏界」はまさに現状肯定の天台本覚思想に成り下がります。
さらに一歩詰めていくと、「世法と仏法との差違は無い」という意見は、実は危険な思想です。
その先輩は真面目で誠実な方でしょうが、仏法の観点からは、教団のイデオロギーを内面化している人に過ぎません。
世法即仏法は飽くまでも而二不二の関係であって、世法がそのまま仏法だと理解すべきではありません。
この誤解は、例えば公明党支援や聖教新聞啓蒙が仏道修行であり、広宣流布の為の戦い・営為だとする教団イデオロギーを正当化する論理になります。
座談会や折伏や個人指導などの学会活動は化他行なので、仏法上での意味がありました。しかし、公明党支援や聖教新聞啓蒙は世俗の活動です。この区別が明確なのは、海外ではこの二つの活動が無いからです。日本の特殊事情です。ですから、海外から日本の活動を見ていると、その異常さ、そしてメンバーはいつか自分が利用されたと感じる時が来ることも明々白々でした。
事態は深刻です。問題は根深いです。これ以上、教団の問題には触れません。が、信じていた仏法(正宗教義の日蓮久遠本仏論と大御本尊信仰)が「正法」ではないとなれば、その前提の上に載っていた「世法」のすべての学会やその活動の意義付けも崩れます。
池田先生がお元気な頃は、SGに対して絶対的な信頼がありましたから誰もが疑わずに、「先生の為・SGの為・広宣流布の為」という大義名分がありました。
そして、種々様々な理不尽なこともこの大義名分の下に正当化されていました。
皆様がこの板で批判している世法上の問題点は、僭越かも知れませんが、私が正宗教義批判を展開した1990年代初頭から実はもう明白なことでした。
したがって、
>>> 「人生の大半を無駄にした」(投稿者:子路 投稿日:2018年 5月21日01時41分)そんな風に思う人が1人でも出ないように…自分は、投稿しています。<<<
大いに共感します。私の場合は、もう一度仏法と世法を峻別し、「仏法」の原点に戻ろう、「人間主義の日蓮仏法」を継承し、立て直そう。
仏法上では無駄はない!すべてを変毒為薬していける。
そのためには、世法をすべて取捨した後に残る自分の信仰を見直す必要があると思っています。
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