SC・ショップの未来を“データ”で照らす

都市型ショッピングセンター、成功のカギは何か?【前編】 - 【第1回SCトレンド座談会】

 

2018年3月29日、東京ミッドタウン日比谷が開業し大きな話題になっています。思い起こすと、このちょうど1年前の17年3月20日にはGINZA SIX、また、もう1年前の16年3月31日には東急プラザ銀座が、それぞれ開業するなど、銀座、日比谷といった地区がここ数年大きく変化しています。
今回が初めての開催となるSCトレンド座談会では、この大きく変化しつつある「銀座」「日比谷」に「丸の内」を加えた3つの街を素材に、都市型商業施設の「成功のカギ」について、ショッピングセンターや流通の専門家である、SCトレンド研究所の3名の顧問の方々に語ってもらうこととしました。

 

座談会メンバーのご紹介

  • 株式会社R・B・K(リテールビジネス研究所)代表取締役 飯嶋 薫 様
  • 株式会社アトレ 顧問 東日本旅客鉄道株式会社事業創造本部アドバイザー 菊池眞澄 様
  • 立命館大学 経営学部教授 木下明浩 様

3名の顧問の方々の略歴はこちらのページをご覧ください
また、座談会の進行は、SCトレンド研究所 所長 金藤純子と研究所スタッフが担当しています。

 

銀座が変わり始めるきっかけになったものは何か?

――まず、SC GATEのデータを使った事前分析(事前分析結果はこちら)では、銀座は2000年代から商業施設数が増加しています

飯嶋:2000年代以降、銀座が変化していった背景には、流通競争に銀座の百貨店が負けたことがあります。そごう、阪急、松屋、松坂屋、三越に、プランタンも含めると6軒あった百貨店が、今は、松屋、三越、そして阪急メンズと半減したことになります。百貨店業界全体の売り上げが縮小していることもありますが、新宿の場合は、三越が減っただけで、伊勢丹や高島屋はポジションを保っています。

木下:百貨店の変化は銀座に大きな影響があったと思います。先ほどあったとおり、有楽町そごうがビックカメラになったのが00年、13年に松坂屋が閉店、プランタンも16年に閉店してマロニエゲートになってしまいました。その原因は90年代にありそうです。というのは、長い間、公示地価の最高価格は銀座5丁目の鳩居堂前でした。ところが、バブルの崩壊により、91年に1㎡あたり3,850万円だった地価が、97年には1,200万円台とピーク時の三分の一まで下がりました。その後徐々に上昇はしたものの、2000年代前半でも2,000万円に届いていません。百貨店も含む商業の動きは、不動産の価値の問題と密接に関係していて、事業者が事業を創造し、その結果として不動産価値が上下します。90年代に不動産価値の低下と百貨店の業績の低下が同時に進み、00年以降、百貨店そのものは体力のないところから倒れていきました。一方で不動産価値の低下が外部からの出店を容易にしたため、銀座全体で見れば、専門店やショッピングセンターのウエイトが高まったといえます。

飯嶋:確かに不動産価値の影響というのは、銀座に新しいブランドの専門店が増えたことに影響していると思います。金融機関の再編が進む中、地価が低い時に銀座の一等地のビルを買って出店し、自ら価値を高めておいてからビルを売却、自身はそのビルを賃借してそのまま営業を続け、結果的に売却差益を得たという、世界的に有名な宝飾品および銀製品のブランド” Tiffany & Co.“の例を聞いたことがあります。

菊池:百貨店が下火になった背景には、情報化の進行もあります。一例として、雑誌の「Hanako」(1988年6月2日創刊、マガジンハウス)などが大衆的にファッションを取り上げました。その結果、スーパーブランドではない日本のブランドも「ブランド」として若い女性に認知されるようになりました。それまでは「有名な百貨店が選んだブランド」に価値があり、百貨店の包装紙に権威がありました。ところが情報化の進行に伴い、自分で自分の好きなものを選ぶことが当たり前になって、百貨店の包装紙が持っていた権威がなくなりました。

飯嶋:百貨店に入れ替わるようにショッピングセンターが増加した背景は、不動産価値の影響や百貨店という業態の低迷だけではありません。百貨店とショッピングセンターの、テナント側から見たビジネスモデルの違いにも原因があります。賃借面積当りの売上が同じなのに、百貨店とSCでは家賃などのコストが百貨店の方が高いので、それならショッピングセンターでいいじゃないかとなります。百貨店に出店しようとすると家賃などが高い分、売価を上げなくてはいけなくなりますが、情報化の進む中、「同じものなのになぜ?」とお客様もそこに気づくようになっていました。

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