日本大学アメリカンフットボール部の選手が、試合中、意図的に反則行為をし、相手選手にけがを負わせた。この事件について、「法の支配」の観点から分析しよう。
加害側の監督・コーチは、「相手チームのQBをつぶしてこい」と指示したことを認めつつ、「反則しないのは当然であり、ルールの範囲内で思いっきりプレイせよ」との指令のつもりだった、と主張している。しかし、少なくとも当該選手は、「反則をしてでも、QBにけがをさせてこい」との指示が出た、と理解した。なぜ、学生代表になるほどの優秀な選手が、意図的な反則行為をするまでに追い込まれたのだろうか。
当該行為は、当然のことながら、スポーツとして許されない反則行為だ。さらに、被害者側が警察に被害届を出したことからわかるように、傷害罪(刑法204条)にあたる。刑法の条文を見たことがなくても、相手にけがをさせる意図で体をぶつければ犯罪となることは、小学生でも分かるだろう。
当該選手は、違法だと認識しながら、監督・コーチの指示を優先してしまった。これは、「法の支配」よりも、アメフト部内部の独自の規範を優先させてしまっていることの証だと思われる。
内部の独自規範を、法の支配に優先させる現象は、学校教育の現場で一般的に起こっている。
再三、重大事故の危険が指摘されているにもかかわらず、巨大な組体操や大人数ムカデ競走が、いまだに行われている。ここでは、「一体感」「試練を乗り越えての感動物語」のために、児童・生徒の生命・身体に対する重大な危険が無視されている。
あるいは、「体罰」の違法性について文部科学省が注意喚起しているにもかかわらず、「教育のための体罰は正当だ」とする人も少なからずいる。しかし、「体罰」は、学校を離れて、一般社会の目から見れば、暴行・傷害にあたる犯罪にすぎない。
子どもや学生が、指導を受ける立場にいるのは確かだ。しかし、彼らは、大人による管理・支配の対象物ではなく、人権の主体だ。学校において、今、必要なのは、子どもや学生の人権について、真剣に考えることだろう。
日大の事件で、監督・コーチは、「コミュニケーション不足」を反省していた。コミュニケーションは、相手の意思を尊重して初めて成り立つ。監督・コーチがコミュニケーション不足を認めることは、選手の主体性を無視し、力で管理・支配していたことを自白するようなものだ。指導すべき相手への尊重がない指示・命令は、もはや「教育」とは呼べない。
学校では、「教育・指導」の美名の下に、児童・生徒の人権侵害が正当化されがちだ。しかし、法と人権は、多様な個性を持つ人々が、共に生きていくための最低限のルールだ。法と人権を相対化するということは、誰かの権利が侵害されるということだ。
こうした不適切な指導をする大人たちは、往々にして「子どもの成長のために厳しく指導した」と言い訳する。しかし、それは、客観的に見れば、身体的・精神的虐待に他ならない。子どもの人権が守られる社会を、早急に実現せねばならない。(首都大学東京教授、憲法学者)