「メキシコのロビン・フッド」と称される匪賊のリーダー
マヌエル・ロサダ(1829-1873)は、メキシコ・ハリスコ州(現ナヤリ州)の東部山岳地帯アリカを拠点に共和国政府に対して反乱を起こした匪賊のリーダー。
大土地所有者によって土地を奪われた先住民や農民を糾合して州政府軍と戦い、一時はハリスコ州テピック地域の事実上の統治者にまでなりました。
しかし先住民共同地区の解体を進める自由主義者との戦いに敗れ、最期は処刑されています。
政府や軍、大土地所有者からはロサダは「盗賊・無法者・犯罪者」とみなされていますが、貧しい人々や先住民からは「救世主・義賊」とみなされており、現代でもメキシコ国内でその評価が割れる人物でもあります。
1. コソ泥から正義の盗賊へ
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マヌエル・ロサダは1828年にテピック近郊の村、サンルイスの生まれ。
彼の出自には諸説あり、両親共に先住民コ-ラ族という説や、イギリス人やスペイン人とコーラ族との混血メスティーソという説もあります。
家は貧しく叔父の家に引き取られ、近郊のアシエンダ(大農園)で働き始めるも、見染めた女と二人逃亡して逮捕され、ムショにブチ込まれてしまう。
出所後は堅気の仕事に戻れず、盗賊団のヘッドになって頭角を現し、「アリカの盗賊団」と悪名が轟くようになっていきました。
当初は単なるコソ泥集団としての悪名だったのですが、1857年9月に、モハラスとプガという地域を代表するアシエンダを襲撃したことで状況は一変。一躍ロサダは農民の英雄となったのでした。
なぜロサダは農民の英雄となったのか。
それは、農民を搾取する「悪い」大土地所有者に歯向かうことが、民衆を守る英雄的行為とみなされたからです。
2. 貧富の格差を広げた「レルド法」とは
この時代のメキシコで、大土地所有者が貧困農民を土地に縛り上げ搾取する構造を作ったのは、1856年6月に制定された「永代所有財産解体法」通称レルド法と言われるものです。
1854年に保守派の独裁者サンタ・アナをクーデターで倒した自由主義派は、レルド法を成立させて非合理的な農場経営を行う共同体や教会から土地を引っぺがし、自由主義の元で競争原理を取り入れ経済成長を成し遂げようとしました。
レルド法の要旨は以下の通り。
- 法人や教会が所有する不動産は、賃料の年利6%で取得できる
- 賃借されていない不動産は、競売の最高入札者が取得する
- 土地の取得と競売は法律公布後、3か月以内に実施される
- ただし、賃借人が土地取得の権利を付与されても3か月以内に手続きを完了しなければ、権利を失効し競売にかけられる
- 競売で取得された土地は、合法的に取得された土地としていつでも自由に譲渡できる
- 今後、法人・教会は不動産を経営できない
ぱっと見た感じだと結構な法律なように見えます。
しかしこれは貧しい先住民や農民をモロに狙い撃ちしたものでした。
「農民も自由主義経済の元で競争をすべき」
レルド法で言われる「法人」は具体的には「先住民共同体」のことを指しました。
元来、先住民は土地所有の概念がなく、共同農地で生活を営んでいました。しかし生産効率が悪いため相変わらず生活は貧しく、スペイン王室からの経済援助も受けていました。
もうひとつターゲットとなっている教会ですが、確かに教会は大規模に土地を所有し税金も払わず農民を抱えて働かせていました。しかも資本主義的な発想はなく、生産力は低い。だからこそですが、貧しい信者には税や貢納は課さずに慈悲をもって対応していました。
自由主義者からすると、王室や教会が行う貧者への生活保護は「甘え」であり、先住民も農民も今や一市民として資本主義社会の中で競争をすべきという考えだったのです。
自由主義者の狙いは明確です。
貧しい人たちのセーフティーネットとして機能していた共同体や教会の土地を取得して、先住民ら貧しい農民たちを土地に従属させ、自分たちの利益を最大限追求する、というものです。
もちろん、レルド法をうまく活用すれば、農民でも教会の土地を格安で入手することは可能でした。
ただ、文字も読めない農民が3か月の間に土地の権利書を作成するのは困難。仮にサポートがあったとしてもお金の準備が必要。もしお金があったとしても「神様の土地」を自分のものにするなんて恐れ多くてできない。
レルド法は建前は自営農民を増やすことを目的にしていましたが、結局土地の大部分は富裕な土地所有者、外国人、政治家、軍人のものになり、新たな大土地所有者を生み出す結果となりました。
先住民や農民は、新たな支配者の元で奴隷のようにこき使われるしかありませんでした。
しかしそのような大土地所有者に対する抵抗者として現れたのが、マヌエル・ロサダだったのです。
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3. ロサダ農民軍の蜂起
テペックで広がる反乱
1856年6月にレルド法が公布されると、ロサダがいたテピック地域では大土地所有者と農民の間で土地争奪戦が繰り広げられるも、手続きに不備のあった土地は競売にかけられ、大土地所有者や外国人がどんどん買い漁っていきました。
騙されたと気づいたテペックの農民たちや先住民は、新たな大土地所有者の元で働くことを拒否しロサダの軍に次々と合流します。
事態を重く見たテピックの軍司令官は鎮圧を試みますが、ロサダの農民軍は山岳地帯に入ってゲリラ戦を繰り広げ、州政府軍を散々に打ち負かしてしまいました。
軍司令官ロチャは鎮圧を諦め、アシエンダとの境界設定や調停を条件にロサダとパソ・デル・カイマン和平協定を結ぶ自体の収拾にあたりました。
ロサダを支持する外国人商人
ロサダ農民軍が州政府軍と対等に闘うことができた理由は、彼の背後にテピックにて商売を行う外国人商人の存在がありました。
アイルランド商人のバロンとスコットランド商人のフォーブスは、テピックにバロン・フォーブス社を設立し、メキシコ西海岸の貿易を独占。メキシコ政府の目を盗み密輸で大儲けをしていました。
政権を担う自由主義者は、これら外国人の密輸業者の摘発を強化したため、利権の維持を目指してバロン・フォーブス社は保守派と連携し、レルド法に抵抗するロサダ農民軍を経済的・軍事的に支援したのでした。
4. フランスの介入、皇帝マクシミリアン登場
レフォルマ戦争の勃発
1857年、フェリックス・マリア・スロアガ率いる保守党を支持するグループが、イグナシオ・コモンフォルトやベニート・フアレスらが率いる自由主義政府に対して蜂起し、内戦が勃発しました。いわゆるレフォルマ戦争です。
▽イグナシオ・コモンフォルト
▽ベニート・フアレス
一方、ロサダはスロアガの保守派と連携しテピックを占領。州政府から事実上の独立を果たし、ロサダが統治者を任命するようになりました。
コモンフォルトとフアレスはアメリカに亡命して臨時政府の樹立を宣言し、政権は保守派のものになりますが、最終的にはアメリカの支援を受けたファレス軍が1860年11月、カルプラルパンで保守派の軍隊を打ち破り、再度政権に返り咲きました。
フランス軍の介入、帝政の復活
ところが、フアレス軍の戦費は多くを外国からの借金に頼っており、その天文学的な額は返済の目処が全くたたないものでした。
しびれをきらした債権国イギリス・スペイン・フランスは、債務返済を要求し1861年10月メキシコへの武力干渉を決定(メキシコ出兵)。軍をベラクルス港に上陸させます。
この頃、テピックを支配するロサダに対し、ハリスコ州知事のオガソンが討伐軍を仕向けていましたが、干渉軍の登場でオガソンは「先住民の保護」を明示した休戦協定を結ばざるを得なくなりました。
ところがイギリス・スペインとフアレスとの間で債務返済に関する合意がなされ、両軍が撤退を始めると、ラモン・コロナという男がコンポステラを襲撃。再び戦いに突入します。
▽ラモン・コロナ
その一方、干渉軍の一翼フランスのナポレオン3世は、メキシコに傀儡政権を設立すべく軍事展開を継続しました。
このフランス軍とロサダの間には自由主義派を共通の敵とする共同戦線が1863年に成立。フランス軍はロサダ農民軍に軍資金と軍需物資を提供しました。
とうとう1863年6月、フランス軍はメキシコシティを占領。大統領フアレスは北部チワワ州に逃亡します。
ナポレオン3世はハプスブルク家のフェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公を帝位に就かせ、メキシコ皇帝マクシミリアン1世の就任と帝政の復活を宣言しました。
▽メキシコ皇帝マクシミリアン1世
マクシミリアン1世は先住民の土地問題に寛容な姿勢を見せ、ロサダが目指す先住民の共有地の権利要求と合致したため、ロサダは皇帝を積極的に支持をしました。
しかし3年後、普仏関係がきな臭くなりフランス軍の主力が本国に帰国すると、皇帝派は支えを失いフアレス軍の攻撃を防ぎ切れなくなっていきます。
1867年5月、皇帝マクシミリアン1世はケレタロでファレス軍に降伏。処刑されました。
ロサダもコロナとの戦いが苦境に陥るようになり、皇帝派が不利になるとテピックの支配者の地位を捨て、1866年に体調不良を理由に引退を表明しました。
勝利したコロナはその後、ハリスコ州知事まで出世しました。
5. 大統領ファレスとの協力
1867年8月、メキシコ共和国大統領に復帰したファレスは、長い間ハリスコ州から独立状態となっていたテピックの分離を承認しました。
しかし、ハリスコ州知事コロナは州の勢力が劣化し、それに伴い中央政府への依存度が高まることを懸念して分離に反対。あくまでロサダの討伐を主張しました。
フアレスは地方の分離を防ぎ中央集権化を進めるために、敵の敵であるロサダに接近。先住民への土地分配をロサダに約束しました。
これには、自身も先住民サポテカ族の出であるファレスの、ロサダに対する個人的な親近感もあったのではないかと考えられています。
1868年12月、ロサダは「境界設置委員会」を設置し、先住民農民に土地の分配を開始。これに対し大土地所有者たちは猛烈に反発し、新聞を通して個人の所有権を否定するロサダを非難しました。
ロサダは自分が目指していた一つの結果が出たことに満足し、体調不良を理由に再度引退を表明しました。
6. 孤立化そして死
1872年7月、大統領ファレスが急死。
後継者のセバスティアン・レルド・デ・テハダは、フアレスの方針を撤回し先住民の土地分配の無効を宣言し、ロサダには無条件降伏をするよう命じました。
ロサダや農民たちは反発し、また戦闘が再開されたのです。
▽セバスティアン・レルド・デ・テハダ
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1873年1月、ロサダは大博打に打って出ます。
農民山岳ゲリラを引き連れてこれまでの拠点にしていたアリカを離れ、州都グァダラハラの攻略を図ったのです。
これまでゲリラ的な戦いしかやったことのない農民軍を引き連れて、城壁に守られる都市を攻略するなど、どう考えても無謀な戦いです。
もしかしたらロサダは自分の死期が近いことを悟り、このままアリカの山中で抵抗を続けていても、いつか自分が死んだ後はジリ貧になってしまう、無謀とはいえ、少しでも可能性があるほうに賭けた方がいい、とでも考えたのかもしれません。
1月28日、ロサダ軍は州政府軍にラモホネラで大敗を喫しました。
ロサダを含む敗残兵はアリカの山中に逃げ込みますが、半年後に州政府軍によって捕縛され、テピックのロス・メタテス丘で銃殺されました。44年の生涯でした。
まとめ
我々は自分の常識の中で、自由主義こそが良いもので、帝政は酷いものだという偏見がどっかしらにありますが、必ずしもそうとは言えないのではないか、とロサダの生涯を見たら思います。 家父長的・キリスト教的文脈ではありますが、貧しい人を助け、共同体の中で助け合っていきていくという価値観が存在しました。
一方で、外に目を向けると北の新興国アメリカがメキシコの領土を虎視眈々と狙っており、早く中央集権化を達成して国の近代化を成し遂げないと国の存亡が危うい、という自由主義者の焦りもあったわけです。
マヌエル・ロサダはそのような価値観の間に生き、自由主義者の勝利によって長い間日の目を見なかった存在ですが、自由主義の限界が生じてきた昨今、彼のような「人が人を助ける」という価値観が再度、見直されていると思います。
参考文献
「アリカの虎、マヌエル・ロサダの反乱1」山﨑眞次 早稲田大学政治経済学部「教養諸学研究」130号(130)p.105 - 1272011年03月-