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谷沢栄一の書いた『日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない』という本がある。この中に日本の文化を「謙遜の文化」としている部分がある。
谷沢は「「未然形の劣等感」にとらわれた日本人は彼ら(中国人や韓国人)のように傲岸不遜に構えることがない」「いかに有能であろうともつねに「いやあ私など」と謙って見せる。それが日本人である」(p17)、という日本人論を展開している。
これについて書こうと思う。
 
これまで私は日本人が「謙虚である」と感じたことなど一度もない。物心がついて、もはや50年以上も経つにもかかわらず・・・である。私自身の中に「謙虚さ」を感じたこともなければ、これまで付き合ってきた友人たちの中に「謙虚さ」を感じたこともたぶん非常に少ないだろうと思う。
しかし、「謙遜文化」と言えばそれはそうかも知れない。
なぜなら、「日本人の謙虚さ」なるものは、「謙虚」なのではなく「謙虚なフリ」だからである。つまり「偽装」である。この偽装は日本社会全体を覆っている約束事のようなものであり、何かすばらしいことをしたとしても「謙虚なフリ」をしなければならないことになっている。いや「謙虚なフリ」というのも言葉足らずである。日本では物事に対して「自信の満ちた態度」「自負心の強い態度」をとることは、暗黙の取り決めによって禁止されているのである。そこで人々は「自分は自信は無いのだが・・・」という態度をとる。同調圧力がかかるからである。そしてもし、このような見えない取り決めに逆らうと、”浮いた”存在となり、時には”村八分”というつらい体験をすることになる。”村八分”を現代風に言えば”いじめ”である。存在を無視されてしまうわけだ。つまりここでわれわれが考えなければならないのは、「日本人の謙虚さ」なるものが、いわば「共同体の原理」の中で培われた、たぶんに演技の入るものであって、内面からにじみ出る徳質ではないということだ。
でも「謙遜」と言えば「謙遜」かも知れない。つまり謙虚な演技のことを「謙遜」ということもあるだろうからである。
歴史を見渡してみても「日本人は謙虚である」はただの幻想だと私は思う。それは今日のネトウヨを見てもよくわかる。だが演技としての謙遜は多分得意な人も多いのだろうと思う。
 

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