Windows以前によく使われていたオペレーティングシステム「DOS/V」や、ノートPCの世界的ブランド「ThinkPad」、国産Palmのブランド「WorkPad」は、この男がいなければ、この世に存在しなかったと言っても、過言ではない――。
今回、連載に登場するのは、常に時代の先端に身を置き、数々のモバイル端末を試しながらモバイルワーキングを実践してきた、別名「T教授」または「ゼロ・ハリ」こと、竹村譲氏。「モバイル」や「ノマド」という言葉が当たり前に使われるずっと前から、ノートPCやモバイル端末が市民権を得るための土壌作りに奔走(ほんそう)した、その姿に迫る。同氏が語る、モバイルの歴史と未来とは?(※聞き手=PDA博物館初代館長 マイカ・井上真花)。
竹村譲氏。別名「T教授」または「ゼロ・ハリ」。超大型汎用コンピュータの営業職として日本IBMに入社。パソコン事業部に在籍中はDOS/Vの商品企画や、モバイルPC「ThinkPad」の商品企画、戦略を担当。早期退職後、富山大学芸術文化学部の教授、非常勤講師として10年間、「ブランドデザイン」などの教鞭(きょうべん)をとる。現在は、ICT企業の顧問職やプロダクト・プロデューサーとして各種商品開発を行ういっぽう、商用WEBサイト上で「T教授の戦略的衝動買い」や「本日の一品」などの連載コラムを持つ。鞄やオリジナルのツバメノートなどをプロデュースする「Thinking Power Project」の創設メンバー。熱中小学校の特任用務員
――竹村さんはガジェットコレクターとして有名ですが、モバイルが好きになったきっかけはなんでしょうか?
1980年代の終わりごろ、マイクロソフトのオフィススイート「Microsoft Works」の日本語版を評価するため、シアトルに出張することになりました。このとき、日本にいる同僚に、シアトルからパソコン通信で連絡するために、エプソンの「Word Bank note」を持って行きました。
もちろん、当時から日本IBM社には、世界中につながったネットワーク環境がありましたが、社内の同僚に連絡するには、シアトルにあるIBM支社に行かねばなりません。Word Bank noteは、オプションでモデムカードが本体に入ります。低速通信ですが、宿泊ホテルの部屋にある電話回線から通信できる、便利な仕様でした。当時はこれで、米国パソコン通信の「CompuServe」経由で、日本国内の「NiftyServe」に連携接続できました。
竹村氏の“モバイルの原点”とも言える「Word Bank note」
この端末は、現在のノートPCのように折りたたむ仕組みではなく、フラットなボディの上部に4行分程度のディスプレイを備えているという、日本語ワープロ的なものでした。しかし、海外にいながらにして、日本国内の同僚とリアルタイムで連絡が取り合えるのは画期的でした。この経験から、「いつでも、どこでも」という僕のモバイル志向が強くなっていったように思います。「ノマド」という言葉も、そのときから使い始めました。
仕事でも、モバイル端末との関わりは多かった。たとえば、1999年に日本で発売された「WorkPad」(※IBMから発売されたPDA)の初代機は、1997年にアメリカでPalmとして売られていて、人気を博していました。販売して間もなく、当時、シリコンバレーのT-ZONEに出向していた中林千晴さんからPalmを何台か送ってもらって、日本語化の方法を考えていたんです。
しかし、そのときすでに、秋葉原のイケショップで「J-OS」(※Palm OS搭載機用の日本語OS)を販売していると聞き、実際に買って使ってみて「これはいける」と思いました。そこで古川敏郎さんと会って相談し、いよいよJ-OSをベースにしてWorkPadを作ろうと決めたとき、上司から「アメリカのIBMがPDAを出すらしいから見てこい」と言われ、行ってみたらそこにWorkPadのプロトモデルがあった。ああ、やられたと思いつつ、西海岸ではジェフ・ホーキンスさんらと会って話をし、日本国内でもWorkPadを販売するという方向に心が動いていきました。
現在、「モバイルプラザ」店長を務める、古川敏郎氏(※写真は「PDAブームの真実。あのPalmを“極東の小さなショップ”が世界で2番目に売っていた!」取材時より)
「HP-LX」も使っていましたよ。1990年初頭、シリコンバレーでも人気だった「HP95LX」を、カリフォルニア州サニーベールのFry'sで入手し、その後、まもなく日本国内でも人気になりました。そのとき、国内で出会ったのが当時、紀伊国屋にいた植木正道さんや、HPの田中正清さんや寺崎かずひさん。寺崎さんは「これ、日本語化できるよ」とかいって、実際に1週間くらいで日本語化してくれました。思えば、この日本語化の発想はDOS/Vと同じですよね。
新宿の紀伊國屋書店アドホック店の販売員として、HP100/200LXの人気を影で支えていた植木正道氏(※写真は「ミニPCの名機「HP-LX」をヒットさせた、新宿アドホック店の“元祖エバンジェリスト”」取材時より)
――竹村さんは“DOS/V産みの親のひとり”としても知られています。DOS/Vでいこう、と思ったきっかけはなんだったのですか?
1984年以降、日本IBMは個人向けパソコンとして「IBM JX」を発売しましたが、実際には、NECの「PC-98」シリーズになかなか勝てなかった。だって、PC-98のほうが速かったし、使いやすかったから。僕自身、PC-98ユーザーでしたし(笑)。
当時、同僚の萩原茂樹さんと一緒に大阪で、帝塚山マイコンクラブ「TMCNET」という無料BBSサービスを開設しましたが、そのホストプログラム「TMCHOST」もPC-98用として作っていました。会社の先輩から後日、「なぜ社員なのに、うちの製品でプログラムを作らないんだ」と言われ、しぶしぶ「IBM マルチステーション5550」(以下、IBM 5550)用も作りました。
竹村氏が所属している「オフィス・コロボックル」にて。左奥に見える写真には、記事に登場した萩原氏の姿も
PC-98に勝てないことからJXの販売をやめることになり、次のパソコン事業を立ち上げるため、JXの失敗から学ぶためのプロジェクトが発足。当時、大型機の生産計画を仕事としてやっていた僕と萩原さんは、JXを買わなかったIBM社員の代表として“なぜJXを買わなかったのか!?”というプレゼンテーションのパッケージを作り、出張扱いで大和研究所やそのほかの場所でプレゼンしました。そのときのプレゼンテーション資料を制作する際、IBMにいいソフトがないため、「Macペイント」で作りました。
しかし実は、アメリカのIBM PCにはMacペイントに相当する、すばらしいソフトがすでにあった。それを教えてくれた人は、TMCHOSTをIBM5550用に移植しろとすすめた(強要した)人なんです。僕たちに、「君たちは世界を見ていない。だからわかっていないんだ」といい、フリーウェアの通信ソフト「ProComm」をくれました。私はこれを見て、腰を抜かすほどビックリ。“とろい”と思っていたIBMのJXで、こんなことができるだなんて、思ってもみませんでしたから。
そのとき学んだのが「パソコンはハードウェアじゃない。ソフトの力でここまでできるのか」ということ。
JXの次のパソコンプロジェクトを社内ベンチャーで立ち上げたころ、“JXの二の舞”にならないためにはどうすればいいかを考えました。
日本IBMは当時、JXとは別に、前述の「IBM 5550」というビジネス向けの高級パソコンを売っていました。しかし、IBM 5550は、1024×768という高解像度なうえ、24×24ドットで漢字を表示できるという点がすぐれていたのですが、あくまでもビジネス向けの高機能パソコンであって、パーソナル用途には(性能的にも価格的にも)適していない。これからの主戦場はパーソナル用途、つまり低価格だけど”すばしっこいパソコン”が主役になると考えた私は、別の道を模索しました。
ある日、大和研究所の羽鳥正彦さんが机の上で古いPC/ATマシンで漢字を表示させているのを見たとき、直感的に、「ここに次の道を切り開く活路がある!」と感じました。「ProComm」でソフトの力を思い知った私だったから、「ソフトで日本語を表示させる」仕組みが持つポテンシャルを即座に理解できたんだと思います。
ただ、そのとき漢字を表示するスピードがあまりにも遅かったので、そのことを羽鳥さんに聞いてみました。すると羽鳥さんは「スピードが遅いのはグラフィックボードのせい。でもグラフィックボードの性能はきっと近い将来進化するから、これからどんどん速くなるはず」と説明してくれました。歴史に基づいた彼の論理的説明は、私にはとても説得力がありました。
「歴史に基づいた論理的説明には、説得力がある」と竹村氏
実際、1985年にキヤノン販売から発売された「DynaMac」という事例もありました。DynaMacは、「Macintosh 512K」の基盤に漢字ROMを載せて製品化した、すばらしい発想の製品でした。確かにスピードは速かったのですが、その後、Appleが「Macintosh Plus」で「漢字Talk」を搭載したことによって、DynaMacは役目を終えて、短期間で消滅することになりました。
ここから学ぶべきは、やはりハードウェア頼みではなく、ハードウェアの進化に合わせたソフトウェアで日本語を表示させるべきということでした。この発想からDOS/Vが生まれ、「これなら命をかけてもよい」と思うようになりました。
「解像度は今後、どんどん向上していく。それなら、ハードウェアではなくソフトウェアで対応させていけばいい」というロジックは、特に若いソフトウェア開発者によく響きました。当時、彼らはハードウェアで固めた世界でずっとソフトの面倒を見ていかなければならなかった。しかし、ソフトウェアで対応できるようになれば、その後どれほどグラフィックボードの性能が向上しても、イチから作り直す必要はない。
そのために必要なのは、囲い込みではなく、オープン・アーキテクチャにしていくこと。当時、日本のPC市場はNECのPC-98シリーズが圧倒的で、それ以外は富士通や東芝などが独自仕様のOSを搭載したパソコンを販売しているものの、まったくNECに歯が立たないという状況でした。
そこで日本IBMは1991年3月11日に、DOS/Vを中心とした標準化推進組織として「PCオープン・アーキテクチャー推進協議会(OADG)」を設立。DOS/VがパソコンのOSとして各社にOEM供給されることになり、NECを除くメーカーがどんどんDOS/Vを採用するようになり、ついに1997年、NECからもPC/AT互換機が発売されることになったのです。
竹村氏の愛機「ThinkPad 220」。PCMCIAカードスロットを装備し、単3形乾電池で駆動する
“トラックボールは完全な球体”というこだわりがあり、ビリヤードの球を作る工場で製作されたという
――なるほど。DOS/VがNECのPC-98という牙城(がじょう)を崩したんですね。ガラケー文化と同様に、ガラパゴス現象はやがて、グローバルスタンダードへと向かっていくということでしょうか?
確かに、ガラケーもそうですね。日本独自の文化がどんどん発展していった。しかし今や、スマートフォンがグローバルスタンダードへの門戸を開き、誰もが同じアプリ、同じサービスを使うようになっています。
僕は今、「Jelly Pro」(Unihertz)や「HUAWEI Mate 10 Pro」(ファーウェイ)、「iPhone SE」(アップル)といったスマートフォンを使っていますが、ホーム画面を見ると、インストールしているアプリはどれも同じ。AndroidでもiOSでも、同じアプリを入れています。スマートフォンはもう、国際的な汎用機としての立場を確立し、ハードウェアのユニーク性は追求できなくなってしまった。“尖ったもの”が欲しくなるPDAユーザーには、不満でしょう(笑)。
竹村氏が使用する、iPhone SEのホーム画面を見せてもらった。iOS専用のアプリが少ないため、周囲からは「iPhoneでなくてもいいのでは」と言われるとのこと
近ごろ、スマートウォッチやスマートスピーカーが登場して、注目を集めています。しかし、よく考えてみれば、「Ruputer(ラピュータ)」(セイコーインスツルメンツ)のように、腕に装着する端末は1980年代からあったし、やれることもあまり変わっていない。
スマートウォッチの歴史はすでに、“10ラウンド目”あたりまで来ていると思います。私も2001年、シチズンさんとIBMの共同プロジェクトであった腕時計パソコン「WatchPad」にも関わっていました。モバイルガジェットを開発する人は、もっと歴史と人を研究すべきでしょうね。
1998年に発売された腕時計型PDA「Ruputer(ラピュータ)」。時計や電卓のほか、PIMや画像ビューワーなどを備えていた
現在のスマートウォッチは、僕にとっては、ワイヤレスリモートディスプレイと入力トリガー装置に見えますが、それにしては画面サイズが小さい。人類誕生のころから、人間の目の能力は変わっていないのに、あの狭い画面でなんとかしようとするのは、かなり無理があります。だから、本体が振動するような機能で、なんとかしようとするのでしょうね。
そうではなく、やれることをもっと限定すればいい。現在の価格だと、「なんでもできる」と言わざるをえないからそうなっていく、というのは理解できるんだけど、用途を限定すれば、そこまで高価にする必要はないのでは?
たとえば、ジョギングして移動距離を記録するなど、アスリート的な使い方なら適しているでしょうし、遠隔医療で使用するデータをタップだけで入力したり、データをギャザリング(集合)したりしていくという使い方であれば、きっと意味がある。実際に、数少ない定着しているスマートウォッチはそのあたりが多いはずです。
通知機能については、人それぞれですね。「通知はスマートフォンで見るからいらない」という人と、「腕に付けていたほうがわかりやすい」という人がいる。ただ、スマートウォッチを通知専用端末として使うには、お互い機能がかぶることの多い、スマートフォンとスマートウォッチの関係性を理解する必要があり、誰もが理解できるとは思えない。今後、私も大好きな「ヘッドマウントディスプレイ」という手段も出てくるでしょう。しかし、あれが現代の人間にとって違和感ないかどうか、私にはわかりません。
竹村氏が語るスマートウォッチ論。今後のあり方に一石を投じる、貴重な意見となりそうだ
この前、上野の国立科学博物館に行ってビックリしたことがあります。江戸時代に、お伊勢参りする少しリッチな人が持っていた方位磁石には、日時計と矢立て(筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記用具)がついていたんです。これは、現代でいうところの「コンパス」と「時計」と「筆記用具」。さらに言うなら、「Excel」と「Word」と「ナビゲーション」がそろっていて、そのうえ、彼らはグルメガイドブックまで持っていたと言います。その姿はまるで、スマートフォンのようです。
つまり、人類がやりたいことは、ずっと昔からいつも一緒。情報の収集と共有、発信です。
ただし、それを「ネットワークでやるか」「人から聞いてやるか」の違いであって、本質はなにも変わっていない。よく、「巨人の肩の上に立つ」という言い方をしますよね。モバイルに関しては、すでに江戸時代からの歴史があるのだから、まずはそこから勉強し、過去にあったものを検証したうえで、次のプロダクト(製品)を考えるべきではないでしょうか。
――最後に、竹村さんが今一番気に入っている端末を教えてください。
昔、大の「PSION(サイオン)」ファンだったので、現在は、物理キーボード付きのAndroidスマートフォン「Gemini PDA」が気に入っています。電話をかけるとき、上に持ったほうがスピーカーになり、下のほうがマイクになる。私は単純なので、これがすばらしいと思いました。山根博士もGemini PDAを絶賛していますが、彼と僕は気に入っているポイントが違うようです。でも、これはいいです。大好きです。
「これは買い!」と竹村氏が絶賛する、キーボード付きスマートフォン「Gemini PDA」を見せてもらった
今回、竹村さんのご厚意により、オフィス・コロボックルで取材させていただきました。部屋に入って真っ先に目に入ったのが、「手遊びガジェットKACHA」という代物。これ、写真を見ればわかるとおり、「Ctrl」+「Alt」+「Del」という再起動でおなじみのキーがそろった製品で、試しに触ってみると「カチャ」という軽快な音が。「ね、いい音でしょう。実はこれ、Cherry MX 青軸を使っているんです」と得意げに話す竹村さんを見て心底、「いいなあ、こういう大人になりたいなあ(←もう大人すぎるほど大人なんですけど)」と思いました。「KACHA」は6月に一般発売されるそうですので、「人生を再起動(リブート)したい」方はぜひどうぞ。
「人生を再起動(リブート)したい」人にもってこい? 「Ctrl」+「Alt」+「Del」という再起動でおなじみのキーがそろった「KACHA」
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編集プロダクション。「美味しいもの」と「小さいもの」が大好物。 好奇心の赴くまま、良いモノを求めてどこまでも!(ただし、国内限定)