さの えいたろう
佐野 榮太郎
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CFS 情報通信技術カンファレンスにて
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生誕 |
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1975年1月3日(43歳)
国籍 |
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職業 | 情報技術者 |
活動期間 | 1989年 - |
団体 | ソフトハウス ADS |
活動拠点 |
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肩書き | 代表理事 |
佐野 榮太郎(さの えいたろう、1975年1月3日 - )は、日本の情報技術者、ソフトウェア作家。愛知県豊川市出身。ソフトハウス ADS代表[1]。
1980年代から、DTMソフトウェアのプログラマ、ゲームミュージックコンポーザー、企業向けパソコン通信網ARF(企業向け通信網での表記、現在閉局)の設計者、システムオペレーターとして活動[2]。 当時発行された著書に『アルファの厳しいパソコン入門』[3]、同人冊子として『αノート』[4]※後述 など。 後者は佐野榮太郎が高等学校在学中に著したプログラムソース集である。 1992年、インターメックス展示会の出典企業が主催したオフィスウェアコンテストのデータベース部門において、カード型データベースシステムを公開し、入賞。音声による自動応答に主眼をおいた人工無脳A.R.M.Sや、人間の体温に反応して警告を発する防犯管理システムASS01の考案者として知られる[5]。 佐野榮太郎本人はメディアへの露出を嫌っている。
2008年からBlu-ray Disc Associationが毎年開催していたBlu-ray Disc Meister検定の第5回開催において個人総合全国2位[6][7]。 これを受け、2013年2月16日に東京都内で開催された、同協会主催の式典[8]において、福井晴敏、麻倉怜士らより表彰を受けた[9]。 業界内外に知人や友人が多く、アニメーション監督の日向正樹らとも交流がある[10]。 かつて、世直し大明神として人々から崇められた佐野善左衛門の流れを汲む三河武士の末裔。
パソコン通信網ARFは、1992年より運用されていた草の根パソコン通信局である。現在閉局。 主に愛知県東三河地域の産業、工業法人の業務連絡用として整備された通信網であったが、一部は一般にも開放されていた。 法人関係者としての登録アカウント数は2300、一般の登録アカウント数は510名であった[2]。(閉局時点) 本通信網の特徴として、RHSP(Remote Host - to host Sharing Protocol)[11]と称されるホスト間転送プロトコルが挙げられる。 RHSPは、ホストコンピュータに登録された掲示板やファイルストッカーの内容をホストコンピュータ同士で定期的に同期(ホストからホストへデータを順送りする、いわゆるデータの玉突き)を行うことにより、どのホストコンピュータに接続した場合でも同じ情報が取り出せる仕組みである[12]。 当時のパソコン通信においては、利用者が、ホストコンピュータが設置されている地点まで電話をかけるのが一般的であったが、そのためには、その距離に応じた電話料金を支払う必要があった。 パソコン通信における電話料金は、遠距離通信を行うユーザーの大きな負担となっており、大手商用通信網は各地にアクセスポイントを設置することで、これを解決していた。 しかしながら草の根パソコン通信網の管理者がそのようなインフラを整備することは困難であった。 これを解決するため、全盛期にはTri-Pのようなサービスも広く利用されていたが、ARFのホストシステムにおいては、そうしたサービスも用いる事無く独自のVANを形成することが可能であった。 その反面、RHSPが抱える弱点としては次のような点が挙げられる。
その後、RHSPは機能が洗練され、HSPの名称で、当時NTTが提供していたCAPTAIN通信サービスにおける一部のノード間データ同期[11]や、WebTV Networksの日本法人が提供していたWebTVの電子掲示板サービス等にも応用され、後の通信技術の発展に影響する基礎を築いた[13]。
『αノート - アルファノート』は、 佐野が高等学校在学中に書き溜めたSHARP製ポケットコンピュータ用プログラムのソースコード集であり、同人冊子である。 主なターゲット機種は市販機PC-E200と、学校教育専用機のPC-G800シリーズ。 PC-G813等、一部機種はC言語にも対応していたが、掲載されていたソースコードはBASICとZ80Aに対応する機械語のみである。 ソースコード以外にも、上記コンピュータ用周辺機器(データ転送ケーブル)の回路図の掲載があった。 掲載本数はタイトル単位で約50本、95ページである。 その名の通り、大半の記事が、佐野が大学ノートに書き溜めた原文直筆のまま印刷されている。 ソースコードそのものはポケコン用プリンターで印字されたものであったが、注釈、訂正箇所等は全て手書きであった。 掲載記事には、かつて株式会社工学社から発売されていた『月刊I/O』、また別冊の『ポケコンジャーナル』誌に佐野自身が寄稿した情報も含まれていた。 当該機種向けのソースコードを多数掲載した冊子は上記『ポケコンジャーナル』誌を除けば、αノートをおいて他に例が少なかった。
2000年代、重度の健忘[15]を患い、全健忘と診断されている。以後は乖離性健忘であり、二十歳以前の記憶の大半が失われたままであるとされる[16]。