ツイッターである方が1991年11月9日の大学会・渋谷区合同総会の先生のスピーチ、御指導を御紹介して下さっていました。
その中より字を置き換えれば全く現在の状況と酷似している事が理解出来ます。その箇所を抜粋してアップ致します。
以下、スピーチ、御指導。
1991年11月9日:大学会・渋谷区合同記念総会(創価大学・池田記念講堂)
大聖人は、「行敏訴状御会通(ぎょうびん そじょう ごえつう)」で次のように仰(おお)せである。
「当世日本第一の持戒(じかい)の僧・良観聖人(りょうかん しょうにん)並びに法然(ほうねん)上人の孫弟子(まごでし)念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)・道阿弥陀仏(どうあみだぶつ)等の諸聖人等 日蓮を訴訟(そしょう)する状に云(いわ)く 早く日蓮を召(め)し決せられて邪見を摧破(さいは)し正義(しょうぎ)を興隆せんと欲する事云云、日蓮云く 邪見を摧破し正義を興隆せば 一眼(いちげん)の亀(かめ)の浮木の穴に入るならん、幸甚(こうじん)幸甚」(御書 180 ㌻)
──今の世で、日本第一の持戒の僧といわれる良観聖人、ならびに法然上人の孫弟子である念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの諸聖人らが、日蓮を訴訟した文書には、「早く日蓮を呼び出し、裁いて、その邪見をくだき破り、正義を興隆されることを望む」とある。それに対し、日蓮はこう言おう。「邪見をくだき破り、正義を興隆すれば、一眼の亀が浮木の穴に入るような千載一遇(せんざいいちぐう)のことであり、こんな幸(さいわ)いはない。こんな幸いはない」──と。
ここでいう、良観をはじめ、法然の孫弟子たちは、当時の宗教界の権威者である。その権威をカサに着た悪侶(あくりょ)によって、もったいなくも、御本仏・大聖人御みずからが、大悪人のごとく訴えられたのである。悪侶たちは、この文書を出せば、大騒ぎになるだろう、大聖人が驚かれ、あわてふためいて謝罪されるとでも思ったのだろうか。
「脅(おど)し」は権力者の常套(じょうとう)手段である。 “ 脅す ” 人は、絶対に仏法者ではない。悪逆の権力者か、残酷な暴力者であろう。
人を「切る」などということ自体、「人間蔑視(べっし)」「人権弾圧(だんあつ)」以外の何ものでもない。宗教というものは人を切るものではない。人を救うものである。
ともあれ、悪僧らの恐喝(きょうかつ)に対して、当然のことながら、大聖人は微動だにもされず、むしろ、正邪を決する千載一遇の機会と喜んでおられる。堂々と「真実」を明らかにしよう! 極悪(ごくあく)の謀略をすべて打ちくだいてみせる──との悠々(ゆうゆう)たる御境界であられた。
権威の僧侶たちから大迫害を受けられた大聖人──うれしいことに、また、不思議(ふしぎ)なことに、学会は、この大聖人の御留難(るなん)の道に、まっすぐに連(つら)なって歩んでいる。この “ 大聖人直結 ” の誉(ほま)れも高く、堂々と「創価の道」を歩み抜いていただきたい。
悪侶は自らの「邪義を隠さんが為」に画策する
さらに同御書で大聖人は、良観たちの策謀の本質を、次のように喝破(かっぱ)しておられる。
「但(ただ)し良観上人等弘通する所の法・日蓮が難脱(のが)れ難きの間 既(すで)に露顕(ろけん)せしむ可(べ)きか、故に彼(か)の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語(あいかた)らいて言(いわ)く 日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏(あみだぶつ)を火に入れ水に流す 汝等(だんだち)が大怨敵(だいおんてき)なりと云云、頸(くび)を切れ 所領を追い出せ等と勧進(かんじん)するが故に日蓮の身に疵(きず)を被(こうむ)り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此(こ)れ偏(ひとえ)に良観・念阿(ねんあ)・道阿(どうあ)等の上人の大妄語(だいもうご)より出(いで)たり 心有らん人人は驚く可(べ)し怖(おそ)る可し云云」(胴 182 ㌻)
──良観上人らが弘めている法は、日蓮からの論難を免(まぬか)れることができず、そのため、すでに悪法であることが明らかになってしまった。そのため彼らは、自分たちの邪義を隠(かく)そうとして、諸国の守護や地頭、雑人(鎌倉に置かれ、諸国の治安監察と訴訟の裁きをした役人)などを扇動(せんどう)して、「日蓮ならびに弟子たちは、阿弥陀仏を火に入れ、水に流したりする。あなた方の大怨敵である」と言いたてたのである。そして、「頸を切れ、所領から追い出せ」などと勧(すす)めたため、日蓮の身には傷をこうむり、弟子等を殺され傷つけられたことは数百人に及ぶ。これは、ひとえに良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの “ 上人 ” の大妄語(だいもうご=大うそ)から出たことである。心ある人々は、(このことを知って)どれほど驚き、恐ろしく思うことであろう──と。
大聖人は、七百年前に、悪侶(あくりょ)による謀略(さくぼう)の方程式を明快に示してくださっている。自らの悪が、だんだん明るみに出て、追いつめられた悪侶らは、そこから何とか目をそらそう、何とか自分たちを守ろうと躍起(やっき)になる。その結果、うそに、うそを重ねて世間を扇動(せんどう)していく。全部、自(みずか)らの「邪義を隠さんが為」なのである。
大うそつき──これこそ「僣聖増上慢(せんしょう ぞうじょうまん)」のひとつの特徴である。卑劣(ひれつ)な悪侶の謀略に、大聖人の弟子たちの多くも命に及ぶ迫害を受けた。学会の受けた、いわれなき悪口・中傷の傷も数知れない。しかし、私どもは一歩も退かない。ますます前進の勢いを増すばかりである。
こう、いじめれば、これを出せば、やつらは困(こま)るだろう、意気消沈(いきしょうちん)するだろうと、黒い心は、ほくそえんでいたにちがいない。だが、そうはいかない。皆、前より元気になってしまった。「意気消沈」どころか、「意気軒高(いきけんこう)」そのものである。
学会は絶対に「正しい」ゆえに、難を受ければ受けるほど、「楽しい」「功徳が出る」「張り合いがある」「朗(ほが)らかになる」「団結していく」──こんな団体は宗教史上にないであろう。
大聖人は、最後に、仰せである。
「仏記(ぶっき)に云(いわ)く此等(これら)の悪人は仏法の怨敵(おんてき)には非(あら)ず三明六通(さんみょう ろくつう)の羅漢(らかん)の如(ごと)き僧侶等が我が正法を滅失(めっしつ)せん」(同 ㌻)
──経文によれば、これらの悪人(仏法を大弾圧した悪逆の王たち)は、仏法の真の怨敵ではない。それよりも、三明(さんみょう)や六神通(ろくじんずう)という神通力をもった聖者のように見える僧侶たちが、我が正法を滅ぼし、失わせるのである──と。
仏法の一番の怨敵はだれか──それは、仏法者を迫害する一国の指導者や政治家等ではない。 “ 聖人 ” 等として振る舞い、法を説く高僧であると。
天魔(てんま)らが、その身に入った「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」の高僧が、正法を破壊しようとするのである。大聖人の仏法を破壊し、広宣流布を破壊する高僧──経文通りの “ 仏法の大怨敵 ” とは、戦わざるをえない。戦った人の成仏、大福徳も、経文と御書に照らして、絶対に間違いない。
中国の古典に、「邪は正を犯(おか)さず」と。
「邪」は、いかに巧(たく)みに装(よそお)っても、必ず、悪の本性(ほんしょう)が現れてしまう。
また、いかに正義を隠(かく)し、犯(おか)そうとしても、絶対にできない。
「邪」は「正」に勝つことはない──私どもは、この確信で、 “ 正義は楽し ” と、朗(ほが)らかに、また朗らかに前進していきたい。