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(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮
海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり更新彼らの慧眼(けいがん)は“逆転の発想”というべきユニークなアイデアに表れていた。朝鮮北部の大河川は、おおむね西部に流れており、勾配が少なく、冬季には渇水が続く。このため水力発電には不適だと考えられていたのを、「西流する河川をせき止め、逆方向の東に向け日本海側へ落とす」という発想で、不可能と思われた巨大水力発電所を次々と建設していったのである。
電力の用途も“逆転”だった。100万キロワット単位の電力は、当時の一般需要(昭和初期の朝鮮全土の電力需要は数万キロワット)をカバーしてあまりある。そこで野口は昭和2年、朝鮮窒素肥料会社を設立、電力の活用先として、先に触れた興南工場群を建設してゆく。《むしろ中心は大肥料工場の建設にあり、電力開発は、興南工場の付帯事業とすらいっても過言ではあるまい》(『野口遵』から)と。
■発電所は今も稼働中
野口らが建設した水豊ダムの発電所は今も稼働中だ。現在の出力は80万キロワット、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大を誇り、供給電力は中国と折半している。関係者によれば、発電機を製作した日本の重電メーカーが戦後も、保守・修理にあたっていたが、今は経済制裁のために、それも難しくなり、老朽化による稼働率の低下も見られるという。
虚川江、長津江、赴戦江の発電所も「現役」だ。これら日本統治時代以外の水力発電所も、1960年代以前にソ連(当時)・東欧の支援で建設されたものが主で《設備は老朽化し、エネルギー管理技術も遅れている(略)1990年代半ばの大洪水により、水力発電設備の85%が損傷を受けたとみられる》(韓国産業銀行統計)という惨状だ。これでは北朝鮮が「電力遺産」を“食い潰している”といわれても仕方がない。
朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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【プロフィル】野口遵(のぐち・したがう) 明治6(1873)年、石川県出身。帝国大学工科大学(現・東京大工学部)卒。日本窒素肥料(同チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築き、鮎川義介、森矗昶(のぶてる)とともに、財閥系ではない「財界の新三羽烏(がらす)」とうたわれる。朝鮮へ進出し、朝鮮北部(北朝鮮)の水力の電源開発や化学コンビナート・興南工場建設などに力を尽くした。同コンツェルンの系譜に連なる企業として旭化成、積水化学工業、信越化学工業などがある。