米澤穂信『氷菓』と一連の作品をこのところ読んでいて、思うところあったので、書いておきます。
ベナレス。ニューデリー。イスタンブール。プリシュティナ。サラエヴォ。これらの都市に共通点はあるだろうか。少なくとも、ひとつ、ある。それは米澤穂信『氷菓』において、語り手である折木奉太郎の姉、折木供恵が旅したと思しき場所である、という共通点が。
『氷菓』、およびそれに続く所謂〈古典部〉シリーズにおいて、語り手たちは架空の街、神山市――岐阜は飛騨高山がモデルだと考えられる――およびその周辺から出ることはない。彼らの移動手段は専ら徒歩か自転車であり、否応なしに神山市の「外」へ続いていくことを想起させる線路や電車はテクストから排除されている。
短編「正体見たり」において、温泉街に合宿に行く一行が乗るのはバス。アニメにおいてこの短編は、岐阜長野県境の平湯温泉を舞台のモデルとして語られていて、もしそうだとすれば彼らの乗るバスは彼方にあるであろう東京に微かに続く道を走ってはいるのだが*1。
ともあれ、古典部の面々は(神山市を)動かない。それは折木奉太郎の省エネ主義と響きあってもいる。それと対極をなすのは折木供恵で、彼女は動かない/動けない古典部たちをよそに、縦横無尽に旅をする。彼女は明らかに古典部の面々とは一線を画す存在として、テクストの上で存在感を放つ。
彼女は(アニメにおいてはその姿を折木奉太郎の前にみせるのだが)具体的な姿をほとんどあらわさない。わずかに『クドリャフカの順番』編において、千反田えるがそれとおぼしき姿をその大きな目にとめるのだが、それが折木奉太郎の姉であるとは彼女は認識できない。『愚者のエンドロール』においては、「女帝」事件と古典部とをつなぐ糸を女帝に示し、そして最後には女帝を仮面のうちを読み取り突き付けるジョーカーとして立ち現れる。
それでは、なぜ彼女はベナレスから手紙を送ったのか。なぜ「ベナレス」でなければならなかったのか。その問いは、昨年度公開された実写版が問うたものであるので、ここでは繰り返さない。
それではなぜ、折木供恵はプリシュティナに、サラエヴォにいかねばならなかったのか。それについては、この『氷菓』に書かれた奇妙な歴史の兆しこそが、解答の縁になるのではなかろうか。『氷菓』の作品世界における歴史は、現実と極めて似通った――1960年代の学生運動を経由していることに、その痕跡のひとつが認められよう――歴史を辿ってきたにも関わらず、決定的に異なる点があることが推察できるのである。
折木供恵から折木家へあてた国際電話。この『氷菓』の舞台は2000年。私たちの生きる歴史においては、ユーゴスラヴィアがその最期を迎えつつある時機だった、といっていい。そして1999年に、プリシュティナはNATOの空爆を受けた。2000年に観光でプリシュティナを訪れ、そこから国際電話をかける、というのは、極めて困難ではなかろうか。
そこから導かれる推論は、この『氷菓』において、ユーゴスラヴィア紛争がおこらず、バルカン半島の大部分を領土とするユーゴスラヴィアが、2000年においてもまだ存在していた、そうしたイフの歴史をたどった世界が舞台となっているのではないか、ということである。
こうした推測はインターネット上で散見されるが、それは『氷菓』からしばらくのちに米澤穂信が世に問うことになる『さよなら妖精』が、古典部シリーズの一作として構想されていた、と作家自身が語っているところによるのが大きいだろう。
なぜ〈古典部〉シリーズの『愚者のエンドロール』の次に『さよなら妖精』を書いたのか――米澤穂信(2) | 文春オンライン
折木供恵はプリシュティナに、サラエヴォに、ユーゴスラヴィアに行かねばならなかったのか。こう答えることができる。それは、妖精を神山市という閉ざされた場所まで導くためだったのだと。
だが、それは『さよなら妖精』が古典部の時空間とは離れた場所と時間を舞台にしたテクストへと書き換えられたことで、ついえた可能性でもある。折木供恵の旅はこうして、それが導くはずだった、古典部がたどるかもしれなかった可能性とともに、宙づりにされ落ち着くべき場所を失ったようにも思える。あるいはそこで語られるかもしれなかった、しかし書かれることのなかった歴史とともに。2000年のユーゴスラヴィア、プリシュティナを訪れることは、まったく不可能というわけではない。だから彼女は、傷ついていたであろうプリシュティナに足を踏み入れた――私たちの生きた歴史のなかのユーゴスラヴィアを訪ねた、とすることはできる。そうしたとき、『氷菓』のもっていた偽史的想像力は行き場を失う。ユーゴスラヴィア紛争を経なかった2000年のプリシュティナ。それはまさしく書かれなかった歴史となったのである。
シリーズ全体を眺めてみれば、古典部シリーズとは「読まれなかった本」の物語でもある。終ぞ姿をみせなかった「氷菓」創刊号、物事をよりよくしようという意思によって未完を運命づけられたミステリー、そして幻の傑作に終わった「クドリャフカの順番」。
そうした「読まれなかった本」の、別のかたちとして、「書かれなかった歴史」もまた、おそらく『氷菓』を書いていたころの作者の意図から遠く離れたところで、こうしてテクストのなかに見出し得る。その歴史は書かれなかったのだが、しかし、折木供恵の旅、その痕跡のなかに、それは見出し得るものでもある。書かれなかった歴史、古典になり損ねたものごとの数々。古典部から遠く離れた折木供恵の旅は、そうしたものの予感を纏って、テクストのなかにある。