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“Love is touching souls.”
(愛とは、魂に触れることさ)
Joni Mitchell
幼年期~児童期にかけて、我々は、
- されて嬉しいことを相手にしてあげなさい
- されて嫌なことは、相手にしてはいけません
ということを大人から教え込まれる。
「もし相手が~したら私は幸せな気持ちになる」
「もし相手が~したら私は嫌な気持ちになる」
といった他者と自分をつなげて考える習慣を道徳授業で学習し、我々は人付き合いのフレームワークを作り上げる。このフレームワークに基づいて対人関係における自身の言動の距離感覚を推し量るようになる。
幼児・児童は、精神発達段階を踏まえ、この指導でよいかもしれない。
しかし、大人になっても、あなたがこの考え方を人間関係を円滑にするツールとして活用しているならば、それは危険だ。私はあなたに、他者と自分をつなげて考える習慣が、あなたの優しさを独りよがりなものにし、人間関係をややこしくしていることを告げなければならない。
人と交流することを好むか、ひとりでいることを好むか
安定を好むか、危うさを好むか
合理性を大切にするか、感情面を大切にするか
規律正しさを重視するか、格式ばらないことを重視するか
ユングのタイプ論によると、あなたが、上記2択のどちらに偏っているかは生まれ落ちた時点で決まっている。また、これらの偏りは生涯変わらない。
この生来的かつ生涯変わらないパーソナリティのことを、気質という。気質とは魂のようなものであり、世界中の心理臨床研究・調査により、その存在が確かめられている。
「こうした性格の偏りが生涯変わらないものとは思えない。現にわたしは、性格が変わる経験を何度もした。」という人は、認識を改めてほしい。それは、右利きの人が、左手で上手に文字を書けるようになった状態に近い。どちらの手でペンを握った方がより綺麗な字を書けるかと同じように、どのように考えた方がしっくりくるか、考え方にも利き手が存在する。
価値観の変化は当たり前のように起こるが、気質の変化は生涯起こらない。根本的な性格が変わるわけではないのだ。三つ子の魂百まで、である。
あなたにとって「しっくりくる考え方」「しっくりこない考え方」が存在するのと同じように、他人にも「しっくりくる考え方」「しっくりこない考え方」が存在する。つまり、あなたがいくら相手の気持ちになって考え、優しさを提供しようとしても、そもそもの考えのベース(=気質)が人によって違いすぎるのだ。
真の意味で、相手のことを慮ろう
相手のことを慮るとは「もし相手が~したら私は幸せな気持ちになる」「もし相手が~したら私は嫌な気持ちになる」といったことを考えることではない。相手のことを慮るとは、相手の価値観、人生観に寄り添うということである。
相手の気持ちと自分の気持ちは、WindowsOSとMacOSと同じくらい性質を異にしており、分けて考えなければならない。
「相手がしてほしいことは分かる。でも、それをしたくない」
「相手がしてほしくないことは分かる。でも、それをしたい」
と感じる場面に、出くわしたとき、気質の違いが分かっていれば、主体的かつ状況を鑑みた意思決定ができるようになる。そしてあなたが他者と付き合う上で「私と相手とでは、生まれ持ったパーソナリティが違う」ということが理解できるようになり、相手の気質を尊重した対応が取れるようになる。人の気質は大雑把に16パターン存在することを念頭に置くだけで、必要のない優しさをかけることがなくなる。
まとめよう。真の意味での「相手のことを考える」とは、自分の気質を理解し、相手の気質を尊重し、2つの気質のバランスを取ろうと努めることである。
「自分がしてほしいことを相手にする」ことを心がけている人は、とても優しい人だ。共感性の高いパーソナリティを生まれ持っている。しかし、その共感力による優しさの行使は、使い方を間違えると毒になる。
これからは、人の性格が生まれつき違うものであり、他者とは相容れないのが普通であることを脳裏に留めよう。あなたの優しさを真っすぐ相手に届けるためには、それなりの譲歩と工夫が必要になる。優しさとは尊重と譲り合いである。
もうひとつ。気質の違いを学んだなら、まずは自身の気質を尊重してほしい。そのうえで、他者の気質を尊重してほしい。あなたの気質は、あなたにしか大切にできない。あなたの気質は、他者には理解できない。あなたにしか、理解してあげられない。あなたは、まず自分に優しくなるべきだ。
以下、ペトラルカの「無知について」の一節をご紹介し、本記事を〆る。
我々に許されているのは、「善き人」であろうとすることだけだ。
善良になるためには、それを欲することが必要である。
善良であることを欲した時点で、人はすでに善良である。あなたが善良であろうと欲した時点で、
あなたは善良な人間であることは真である。善良がどういうものであるか、は関係ない。