メディア・マスコミ 芸人 インタビュー

「一発屋」を消費してきたすべての人に山田ルイ53世が伝えたいこと

元売れっ子たちの「その後」
石戸 諭 プロフィール

「おもろない」には徹底的に反論したい

芸を表面的に理解しようとする風潮は強い。その象徴が忘年会シーズンに販売される「なりきり衣装」である。

パッケージ化されたグッズを身につければ誰でも髭男爵にもなれる。彼らっぽい貴族風の衣装を着て「ルネッサーンス!」と乾杯の音頭を取ればモノマネが完了し、場を盛り上げて消費は終わる。

「今年も終わったね。来年は誰かなぁ」。そんな会話とともに彼らの旬は過ぎたものとみなされていくのだ。

《あの衣装は一発屋芸人の「皮」なんですよ。ただ、皮が陳列されているだけで、皮の中にある技術や魂はないわけです。

忘年会の余興をしのぐには役に立ちますけど、皮だけが一発屋の芸やポテンシャルだと思わないでいただきたい。

皮はわかりやすいし、楽に理解できますよね。例えば、いくら人気があるからって「和牛」の漫才を忘年会で真似しようとは思わないじゃないですか。

できないからですよね。できないものに対しては、人間はリスペクトが生まれるんです。

でも、簡単なコスプレをして一発屋の真似をすれば、自分もできたと思ってしまう。誰でもできるって思われるから、芸に対するリスペクトってほとんどない。》

街ゆく人々が自分たち「髭男爵」の真似をしている。それは自分たちがお笑い業界に受け入れられ、苦難の時を経て売れていった証拠でもある。

業界からも「乾杯の漫才は発明だ」と言われ、漫才師としても実力が認められかけるところまできた。当然ながら嬉しくもあり、ありがたいと喜んだ。

しかし、なりきりグッズが売られ、街中に爆発的に広がるにつれて「いや、全然違うで」と山田さんは思うようになった。

自分たちの芸と間が違う、テンポ感が全然違う。結局、残っていくのはわかりやすい「皮」の部分だけであり、忘れられていくのは生み出した「芸」の部分だった。

言い換えれば表面だけが真似され、わかられた気になり、飽きられていく。一発屋がたどる道である。優しい口調は一転して、厳しい言葉がでてくる。

 

《それくらい「皮」の力は強いんです。そもそも「ルネッサーンス!」だってギャグのつもりでやってなかったし、そこがウケるかウケないかは正直関係なかったんですよ。

最初になんか言っておこうくらいで、自分たちの漫才の本質ではないんです。でも、結局残ったのは皮なんですよね。

だんだん、消費されていくのは防ぎようがない。でもね、みんな、あらためて聞いてみると、間とか技術の部分で、一発屋はけっこうな笑いの発明をしているんです。そして、かなりおもろいんです。

そこで思いました。僕たちは「皮」じゃないし、「皮」だけが、今年流行した安いおもちゃみたいな扱いをされるのはよろしくない。

芸の部分、「皮」の内側にある魂の部分をきちんと記録として残したいという思いが途中から強くなってきたんです。

消えた、死んだはまぁいい。でも「おもろない」には徹底的に反論したい。

このあと、本業のジャーナリストやルポライターの方がお笑い史、芸人史を書くときに参照してほしいなって思ってます。芸に関しては客観的に書けたと思っていますよ。》

歴史として「一発屋芸人」を記録して、後世に伝えたい。書く目的もジャーナリズムのそれである。では「魂」の部分とは何か?

テツandトモはなぜ老若男女にウケるのか?

《例えば、この中にも書いてますけどHGさんがハードゲイをやるにあたって、方々に挨拶にいったりとか筋を通そうとしているとかね。いきなりでてきて腰振って、フォーって言ってるだけやって思われているなら、それは違うよって言いたかった。

いきなりトリッキーなところにいって、特別な存在になりたい、人気者になりたいって若い人ほど思うんですよ。

HGさんの芸はトリッキーで特別な芸なんですけど、それは勢い任せでできることやないんやで、そこには土台があるんだってことを知ってほしいんです。》

山田さんもまた伝えたい、知ってほしいという「魂」を各人の芸の解説に込め、世間の思い込みを跳ね返そうとする。このスタイルはまさにジャーナリズムであり、批評だ。

新メディア「現代新書」OPEN!