例えば「なんでだろう」で大ブレイクしたテツandトモの芸の本質を「演歌」であると喝破する。
彼らは地方営業にいくときに必ずご当地ネタをいれる。しかも、インターネットだけでご当地ネタを調べることはしない。イベントの主催者に取材をし、地元ネタを収集する。しかも複数の人に聞き、あるあるネタの「裏取り」をしてステージに立つ。
お笑い芸人に必要なものを「愛情」「お子さんからおじいちゃんおばあちゃんまで楽しめるもの」とまじめに回答するコンビなのだ。
《これは演歌ですよ。演歌的な世界で生きているから老若男女にウケるし、営業に強くなる。
テツandトモさんは何よりも丁寧なことを優先する芸なんです。だからお客さんが見ていても「いい子やな」「好青年やな」ってなる。
その結果、おもしろいものが完成するし、印象もいいんです。》
山田さんの批評をもう少し堪能しよう。
先日、解散をかけたライブに臨んだジョイマンの芸の本質は「連続する言葉の意味のなさ」にある。
山田さんはジョイマンの芸は「簡単そうにみえて難易度は高い」と断言し、論を進める。
そもそも「意味を見出し思考の拠り所とするのが人間の本能」である。この芸は人間の本能に反して、まったく脈絡のない言葉を2つ並べて、笑いを取ろうと試みている。
言葉と言葉に意味が生じた瞬間に「ただのダジャレ」になり、オリジナリティがなくなってしまうからだ。
《こんな難いことないですよ。人間は自然と言葉に意味を持たせようとするじゃないですか。ジョイマンはそこに抗っていくわけですね。
やってみたらわかるんですけど、意味もなく韻を踏む言葉を並べるだけでもかなり難しいんです。自然と意味がある言葉を連想して、続けてしまう。
意味もない言葉を並べて、それで笑いをとるのはもっと難しいんですよ。
だからこそ、ジョイマンの芸は単純にすごいし、発明だって思うんです。》
芸人が語っていない一面を解き明かすために、インタビューではあえて強烈な「ツッコミ」を入れた。
《みんな一度はどかーんと売れた人だから、仕上がったネタや漫談はあるんですよ。正直、どこの現場でも使い回すエピソードがあるし、僕はそれを熟知している。
それを聞いて書いたところで、僕が知りたいことでも、皆さんに紹介したいことでもない。僕はこの発想や技術はすごいんだ、人柄がすごいんだって紹介したいんです。
だから、おきまりの話が始まると「いやいや、お兄さん、そこじゃないんですよ」って言ってましたよ。》
やはり、発想は完全にジャーナリストのそれである。「ツッコミ」を恐れたのか、それとも生来の資質なのか。実はシャイな人ばかりだという一発屋芸人たちは心の奥底にある思いを山田さんに打ち明ける。
「キンタロー。」は結婚を契機に女性芸人の集まりに呼ばれなくなったと嘆き、ブログ開設を真似されたと愚痴っぽく語る。
《僕は面白いけど、この話書いてもいいんかなと悩みましたよ。書いたら、(キンタロー。は)もっと集まりに呼ばれなくなるんじゃないか。本当にいいのかなって思いながら書きました。
話はプロの芸人の話だから、普通に面白いんですよ。僕の書き方によって、その面白さが増えもすれば、減ることもある。書くときも取材するときも、常に緊張感がありました。》
緊張感の末に生まれた文章、最大の特徴はテンポの良さとツッコミにある。まるで漫才のような文章ではないか。そう問いかけると、ニヤリと笑ってこう切り返した。
《「まるで取材対象と漫才をしているようだ」。いいじゃないですか。それ僕が言うたことにしてくださいよ。
いや、それは冗談として……。ネタを書いてきた経験もいかされてますし、楽しい取材で、楽しいおしゃべりを生かそうとしたら結果的に「漫才のような」って言われる文章になったんでしょうね。》
しかし、彼の文章は「一発屋」にとって常に味方であるとは限らない。味方であり続ければ単に傷の舐め合いになってしまうからだ。だからといって、決して敵でもなく、無関係な第三者、傍観者を気取るものでもない。
文章を書くということは、本人たちの傷をえぐる行為でもあるということに著者の筆は自覚的だ。
当事者、仲間でありながら、書くときはどこか突き放したり、距離を置いたりしようとする。キンタロー。のエピソードに端的にあらわれているが「うわ、どうしようもないな」という部分も包み隠さずに見せる。