と、ここまで書いてきてある本を思い出した。この本に近い一冊があった。昭和を代表する作家、エッセイストの山口瞳が書いた『世相講談』だ。
昭和の時代を生きた、あらゆる職業の人々――しかも決して成功したとは言えない人々――を山口が取材し、その人生模様を描いた一冊だ。
江國滋が解説の中で、市井の人々を書く山口瞳に一貫しているのは「やわらかな心」であると指摘している。江國がいう「やわらかな心」とは「在るものを在るがままに見つめる勇気」を意味する。
山田さんが一発屋芸人をとらえる姿と共通しているといえないだろうか。例えば、こんな言葉に「やわらかな心」は宿っているように思える。
《「何億稼ぐ何個の法則」「誰それの勝利の法則」とか、注目されるのってそんな本ばかりでしょう。
サクセスストーリーで、みんなが読みたいんでしょうけど、僕は「それって勝ち組の平均値やな」って思うんです。
例えば、成功した人は最後まであきらめなければ勝つっていうでしょ。これって、あきらめる前にたまたま勝ったから言えるってところもあるんじゃないですかね?
世の中、0か100でこき下ろしたり、叩いたり、みんな「きらきら輝かないといけない」って圧も強いでしょ。誰しも主役でないといけないとか、そんなのはしんどいし、なんて馬鹿げた考えなんだって思うんです。
そんな世の中で、一発屋芸人の現状は負け組ってことなんでしょうけど、負けをごくりと飲み込んで、悔しくて喉がやけそうになりながら、でも笑っている。
負けて上等、生き方としても上等やないですか。
で、さっきも言いましたけど、それを僕が言うのって正直ダサい部分はあるんですよ。この本みたいに、お笑い芸人に対して、お笑い芸人が解説して芸のすごさを語るって芸人の世界でいえば、普通は無しですよ。
でも、実力を過小評価されている一発屋芸人なら、それを救い出す人間がいてもいいじゃないですか。》
「在るものを在るがままに見つめる」視点は自身にも貫かれる。
山田さんは元ひきこもりだ。兵庫の名門私立中学に進学したが、「大」を漏らしたことをきっかけに6年のひきこもり生活に入る。
そこから先の彼の人生はある意味で、様々な「負け」を経験した人生であるとも言える。
《ひきこもりの話をすると、多くの人はその6年間があって今があるんですよね!って美しい着地を目指される。
でも、僕はこの6年は完全なる無駄やったと思っているんですよ。なんにもない。成果ゼロで完全に無駄やねんと言いたいんです。美談じゃないし、きれいな落とし所もないですよ。
美談に持っていこうとする話を聞くたびに、みんな、そんなに無駄が嫌かね?落とし所がないとそんなに心穏やかに生きられないものかね?と思うんですよ。
僕にとってお笑いは、学歴ボロボロ、夜逃げ同然で上京してきて、他にやることがない、就職できなかったからやり続けたものです。
自分の人生が無駄だって認めるのは苦しいこともあります。でも生きている。きちんと生活をしている。シンプルだけどそれでいいじゃないですかって伝えたいんですよね。》