妻の父が亡くなった。
四歳の息子には、まだ、死ぬということの意味がわからない。
それは三十五歳の僕にもわからない。
改築されたばかりの斎場は、まるでホテルのロビーのように明るくて清潔な空間だった。
息子は、そこで僕を質問責めにした。
「じいじはどうして箱(棺のことだ)に入っているの?」
「じいじはどこにいくの?」
別に簡単に答えてしまってもいいのだけど、というか簡単に答えるほかしょうがないのだけど、僕はいちいち口ごもってしまう。しかし、そうやって、何事かを考えている振りをしたところで、別にふだん生きることだの死ぬことだのをマジメに考えているわけでもないのだから、結局は気の利いたことがいえるはずもない。
僕は息子に、じいじはお空のうえの天国に行ったのだと答えた。
その答えに自分でも驚いてしまう。
おれは天国は空の上にあると思っていたのか。
息子の質問は止まらない。
「じいじは、お空の上で何をするの?」
また、答えに詰まってしまう。そんなことはパパにもわからない。
とりあえずは、ゆっくりねんねするんじゃないか。
何が「とりあえず」なのか、自分でもわからない。
息子は僕から十分な答えをもらえなかったが、しかし、それでも、じいじにはもう会えないのだということは、ここに来るずっと前から分かっていたようだった。
「きょうは、みんなで、じいじに行かないでって言いに来たんでしょ?」
電車の中ではずっとYouTubeでシンカリオンを見ていたくせに、そんなしおらしいことを考えていたのか。僕はまた、何も答えることができなかった。
いちばん答えるのに困ってしまったのは、家に帰った息子が思い出したように投げかけた、
「そういえば、あの白いのなんだったの?骨?骨なの?どうやって骨を出したの?」
という極めて実際的な質問だった。
じいじを焼いて骨にしたのだと伝えることには、自分でも驚くほど抵抗があった。
そんなことはとてもじゃないが、言えっこない。というくらいのテンションだった。
妻も同じ気持ちだったようで、なにやら必死で話をごまかそうとする。
きょうは一日中よくがんばったから、何でも好きなシンカリオン買ってやるぞ!
そんなことくらいしか、僕には言えなかった。