2018年05月04日

#38 倉地透さん

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(くらち・とおる)
1971年、東京都練馬区生まれ。中学校2年生より登校拒否。中2の終わりごろから17歳まで東京シューレに在籍。18歳から縫製工場で働き、20歳で結婚。転職して工務店で働きながら専門学校に通い、27歳で二級建築士の免許を取得。その後、独立して、2008年に建築会社マッスルホームを設立、取締役社長をしている。ふたりの子どもの父でもあって、お子さんたちとは趣味のキックボクシングを楽しんでいる。
株式会社マッスルホーム http://www.muscle-home.com/

インタビュー日時:2018年3月1日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一

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〈テキスト本文〉

奥地 いまは、文部科学省が「不登校は問題行動と判断してはならない」と全国に通知を出す時代になりました。やっと、そこまで来たんです。でも、非常に厳しい時代もあって、とくに80年代、シューレができたころはたいへんでしたね。学校に行かない子たちが、どういう対応を受けてきたのか、そういう話をこのプロジェクトに入れたいと思って、透くんの話は絶対に入れたいと思っていました。だまされて、北海道までつれていかれちゃったわけですからね。

倉地 戸塚ヨットスクールなんかが、ふつうにまかり通ってたような時代でしたからね。

奥地 まず、簡単にプロフィールを聞きたいんだけど、いまは46歳で、中2から不登校だったんですよね?

倉地 中2の1学期からで、練馬区の中学校でした。東京シューレに入ったのは中2の終わりごろだったと思います。中3のあいだは、けっこうシューレに行ってましたね。

奥地 シューレを辞めたのはいつごろでしたかね。そのころは、まだ高等部がはっきりと確立していたわけじゃないんですよね。いまは高等部もあるんだけどね。

倉地 高校に入ったときにシューレは1回辞めて、でも1週間でダメになって、またシューレに戻ってきて、アルバイトしながら通ってましたね。

奥地 じゃあ、16~17歳のころに退会してるのかな?

倉地 仕事を始めたからだったと思います。18歳の4月、ふつうだったら高校卒業年齢のときから、知り合いの縫製工場で働き始めました。親がアパレル関係で、婦人服の縫製をやってたんで、それを継ぐって名目で、親の会社じゃないところで働き始めたんです。

奥地 それで20歳で結婚だっけ?

倉地 そうです。その会社にいたんですね、嫁は。

奥地 でも、その前にお母さんが亡くなられて……。

倉地 お袋が亡くなることによって、結婚が早まっちゃたような流れなんですよね。結婚したときは、まだ仕事もちゃんと定まってなかったんです。会社には、親父の仕事を継ぐってことで入社して、でも、お袋が亡くなったことによって、親父がやる気をなくしちゃって、自分の会社もうまくいかなくなって、借金も抱えて、がくっときちゃったんですよね。
 ずっと何もしなくなっちゃったわけじゃないんだけど、家賃も滞納していて、いっしょに住んでたんだけど、そのころの給料じゃ、僕も、とてもまだ独立できるような状況じゃなかったし、このあたりから親父ともうまくいかなくなっちゃって……。それで、親父も「透は好きなことをやりなさい」と言って、23歳のときに工務店に入ったんですね。

奥地 23歳で工務店就職で、それで夜は専門学校に通ったんだっけ?

倉地 そうです。夜と日曜日に通って、そこで二級建築士の資格を取りました。それが27歳のときです。

奥地 仕事と勉強でたいへんでしたね。それで、工務店でしばらくやっていって、30歳のときに自分で家を建てるんだよね?

倉地 そうです。その後、独立して、株式会社マッスルホームの取締役社長をやっています。会社を興したんです。

●いきがっていたのが逆転……

奥地 そういう歩みをしてきた倉地さんですが、30年以上前の不登校の話を聞きたいと思います。小学校のころは、学校では楽しくやっていたの?

倉地 楽しくやってました。

奥地 中2で不登校になったのは、どういう経緯だったんですか?

倉地 学校のなかでは、そこそこ悪いグループのほうにいたんです。僕、身長が伸びるのがすごく遅かったんですよ。中2でもちっちゃかった。中学のころって、すごい差が出るじゃないですか。

奥地 私も背が低かったから、中学生のころ、チビってよく言われた。

倉地 小学校のころは、真ん中とか、真ん中よりちょっと後ろぐらいにいたのに、だんだん前に行っちゃって、中学のときは一番前みたいな状態で。でも、悪いグループにいたから、いきがってたんですよね。ところが、あるとき、そのグループのリーダー格のヤツともめて、負けちゃったんですよ。そうしたら、次の日からクラス全員を敵にまわすというか、「あいつ無視ね」って感じで。

奥地 クラスの人たちとリーダーの関係ってどんな感じだったの? みんなが言うこと聞くような感じ?

倉地 強いというか悪いから。

奥地 怖いのか。

倉地 怖いから、僕と話せば、自分もそういう目に遭っちゃうんじゃないかって思うでしょう。いじめの対象になっちゃうから。そいつからしてみたら、俺ひとりを仲間外れにしたいわけですよね。

奥地 シカトの対象になっちゃったってことよね。それはたいへんだったよね。

倉地 それまでは俺もいきがって、ほかの子に対していばってたり、いろいろやってたのが、急にしゅんとしちゃって、逆転しちゃったもんだから、よけいにやられちゃうわけ。そうなっても、プライドがあるから、親とか先生に相談できないんですよね。ひたすら耐えてたんだけど、もう、毎日そんな学校に行くのも、だんだん憂鬱になってきちゃって、だんだん仮病を使うようになったんです。朝、学校に行くのがイヤで、昔は水銀の体温計だったから、ぽんぽんってやれば上がっちゃうから、「熱ある」って言って。

奥地 先生もあんまりわかってなかった?

倉地 むしろ、いばってると思ってるから。

奥地 クラスのなかの変化が、先生にはなかなか見えないもんね。

倉地 先生の前だと、そのリーダーのヤツも仲良くしてるみたいに、なあなあな感じでやるからね。でも、表と裏ではぜんぜん、ちがくて。

奥地 そのころって、学校に来ない子はいました? 1984年ごろですよね。

倉地 僕が行っていた学校には、不登校は誰もいなかったですね。休むのもめずらしいぐらいで、「えっ、あいつ来てないの?」みたいな感じだったから。

奥地 84年というと、私らが「登校拒否を考える会」をつくったころなの。まだシューレもできてない。

倉地 そうですよね。シューレは85年からですよね。

奥地 そのころは、教育委員会も学校も、「首に縄をつけてでも学校に行かせる」という方針だったし、世間は不登校なんて許さんって感じだったからね。

倉地 親も、やっぱ世間体をすごい気にするからね。


●車に乗せられて学校に

奥地 透くんのお母さんとかお父さんはどんな対応だったの?

倉地 最初、仮病で休んでるうちはよかったんだけど、それも2~3日したら「もう行け」って話になるから、またガマンして行くんだけど、行けば「何、休んでんだよ」って感じで、よけいひどいことされるじゃないですか。
 もう、ほんとうにガマンできなくなって、とりあえず母親にわけを話したんですよね。そうしたら母親は激怒ですよ。ぜんぜん話を聞いてくれない。「何、言ってるの、ダメダメ」「とにかく行きなさい」みたいな感じで、仮病もだんだん通用しなくなって、ひっぱたかれて、家を出されちゃって。でも、そのうち今度は起きられなくなっちゃうんだよね。「遅刻するよ」って言われても、「うん」って言ってるだけで起きられなくなっちゃって……。

奥地 お父さんはいつごろ知ったの?

倉地 親父は家にいないことのほうが多かったので。

奥地 すぐには知らなかった?

倉地 すぐには。母は「これ以上やったら、お父さんに言うよ」みたいな感じでした。

奥地 昔はよく母親が子どもに「お父さんに言うよ」って言いましたね。子どもは、お父さんに言いつけられたら困るし怖いので、言うことを聞いたんですよね。

倉地 まあ、結局は親父に言われちゃって、無理やり車に乗せられて学校に送られたりもしました。それで、学校に入るまでずっと見てるんですよ。
 こっちも目の前で降ろされるのは、さすがに恥ずかしいから、ある程度手前で降りて、なんとか、ほかの人たちにまぎれて行くわけです。「何、車で来てんだよ」って話になっちゃうし、また格好の餌になっちゃうから。

奥地 そうだよね。その日は覚悟して、しょうがなく行くわけね。

倉地 そうなんですよね。

奥地 でも、また行かなくなる?

倉地 結局、朝になるとそんな感じで。

奥地 家にいるときは、どうやって過ごしてたの? お父さんもお母さんも働いてたら、家にいない時間があるでしょう?

倉地 ひたすらゲームやってるか、テレビ観てるか。ファミコンはあったんですよね。初期のころの。でも、テレビ観てることが多かったかな。それか、ずっと寝てるか。

奥地 部屋から一歩も出ない生活になったって。

倉地 ひきこもっちゃったんでね。マンションだったので、昼間に外に出ると、ほかのお母さんとかに見つかると……。

奥地 そこは、いまとちがうかも。目線がきついでしょう?

倉地 そう。「なんでいるの?」「あれ、学校は?」みたいな状態になっちゃうんで、出られないんですよね。出るとしても、すごくコソコソですよね。


●北海道の牧場に置いていかれて

奥地 それで、お父さんがカウンセラーのところに行ったの? 女子大のカウンセラーのところに相談に行って、たいへんなことになったということでしたが。

倉地 母方の叔母が乗馬をやってたんですね。その乗馬クラブに行って、馬に乗ってるときだけが楽しかったんですよ。友だちはいないし、馬に乗ってるときだけ、本来の自分でいられた。乗馬クラブがあったのは所沢(埼玉県)で、練馬(東京都)から離れてるから、人目も気にしなくていい。「学校は?」とか言われないで済む。
 だから、自分のなかでは、所沢の叔母さんの家に行ってリフレッシュしてたんですよね。その乗馬クラブに来てた馬主に、大妻女子大学の昌子武司というカウンセラーがいたんです。僕も、しょっちゅう会ってはいたんですが。

奥地 その人、本も出してたから、私も覚えてる。

倉地 あとから知ったことですけど、昌子さんは教育相談をラジオでもやってて、たぶん親父が昌子さんに相談させてほしいって、叔母に頼んだんでしょうね。それで、親父は「そういう子どもは甘えてるから、遠くに行かして突き放せばいいんだ」とか言われたんだと思うんです。いまでも、あまり許せないですけど。

奥地 大好きな乗馬クラブが、そういう変なつなぎになっちゃったんだ。

倉地 叔母はあんまり賛成じゃなかったんだけど、父親の方針には逆らえなかったんでしょうね、押し切られてしまって。

奥地 そのころは、まだ父親が強かったもんね。

倉地 あとで聞いたところでは、叔母は「そんなことしても、透は萎縮するだけでダメよ」って言ってたらしいんですよ。だけど、親父はその人の言う通りにやるんだと言って。
 最初は2泊3日だと聞いていたんですけど、「あれ?」と思ったのは、お袋が、ふつうは家で「行ってらっしゃい」なんだけど、わざわざ最寄りの駅まで来て、ずっと見てるんですよ。改札に入って、歩いてるところが見えるんですけど、何回振り返っても、ずっと見てるんですよ。自転車持って、ずっと……。
 それと、「おみやげ買ってくるから、おこづかいちょうだい」って言ったら、ふだんだったら、2000~3000円くらいなのに、1万円くれたんですよね。「おっ、いいの?」みたいに喜んじゃったんですけどね。いまだったら、「うん?」って思うかもしれないけど。

奥地 お母さんの気持ちを考えると、心を鬼にして送り出さないと治らないと思ったんだろうね。きっと、親子離ればなれになるから、複雑な気持ちで見てたんだよね。

倉地 まあ、こっちは2泊3日のつもりでニコニコしながら行ったんですけどね。北海道の千歳空港に着いて、旅行気分でおいしいものを食べて、親父がレンタカーを空港で借りて、日高市の浦河っていうところだったかな、車で3時間ぐらいかけて牧場まで行ったんです。
 その前に、記憶があいまいなんですけど、どこか公共のところに立ち寄ったんですよね。そこで、牧場の場所とかを聞いてたと思うんですけど、親父は、自分ではその牧場は知り合いだって言ってたんですよね。なんでこんなところに知り合いがいるんだろうって思うところですけど、子どもなので、別にそれ以上は考えず、親父の言うことを信じちゃってたんで……。

奥地 それは疑わないよね。

倉地 大人のつきあいまで、わからないですからね。牧場に着いて、ご主人さんはじめ、みんなに紹介されて、親父は「ここで2泊お世話になるから」「おまえ、馬見て来いよ」って。そのあいだ、親父はご主人と話をしていて、よろしくお願いしますって感じだったと思うんですけどね。こっちは、馬もいっぱいいるし、厩舎で馬を見たりして、「わー、楽しいな」って。
 だんだん、親父が言葉の端々に「こういうところだったら、おまえもしばらくいたいだろう」みたいなことをさらっと言ってきて、でも、そこはこっちも敏感で、「それはいい」みたいな返事をしてました。なんで何回も聞くんだろうとは思ったんですけど。
 それで、広いので、いろんなところへ行って楽しんでたら、父親の車が見えて、いま来た道を帰っていくわけです。牧場の入口からお世話になった家までは、けっこう距離があるんですけど、その道を車が帰っていく。「あれ? あれは借りてきた車だよな」と思いつつ、でも、父親が帰ってしまったとは思わず、見てたんです。
 でも、ご主人と奥さんは確実に見送ってるんですよね。車に頭を下げて、見送ってる感じなんです。それで、「行っちゃったね」みたいな感じになってるから、「あれ、お父さんは?」ってきいたら「帰られたよ。ちょっと話があるからいらっしゃい」って言われて、「学校行ってないんだって?」ってところから始まって……。もう、そこでだいたい「うっわ、やられた」みたいな感じになりました。
 「君はしばらく、ここであずかるから」「毎朝、馬小屋の掃除をしてもらうよ」って、要は働けってことでね。毎朝5時に、自分の部屋のブザーがブーって鳴るんですけど、それで跳ね起きて、着替えて下に行くと、その夫婦の長男がいるんですよね。

奥地 何歳ぐらいの人?

倉地 20代半ばぐらいの人で、牧場を継ぐんでしょうね。そのお兄さんに「こうやってやるんだ」「やってみろ」って言われて、でも、まだ背が小さかったし、力もないし、けっこうな重労働でした。

奥地 自分で来たくて来たわけじゃないしね。


●いつ帰れるのかな

倉地 馬房を掃除するのは、慣れてたんですよ。乗馬クラブでもやっていたんで。ただ、数が多いんですよ。乗馬クラブのときは、自分のところだけ世話すればいいんだけど、何十頭もいるのを、そのお兄さんとふたりでやるわけで、「午前中までにこれぜんぶやるから」って言われて、遅いと怒られるし……。

奥地 そのときの気持ちは、どうでしたか? やっぱり、学校に行ってないとこういう目に遭うのか、みたいな?

倉地 俺、いつ帰れるのかなって。

奥地 何の話もないわけよね。いつ帰れるんだろうって、毎日思うよね。

倉地 ただ、そのお兄さんも厳しい人だったけど、別にいじめるとかではなかったんで、わりと最初は楽しかったんですよ。まだ疲れても出てないときは。馬を世話するのも、きらいじゃなかったし、ちょうど5月は馬の出産の時期で、出産するところも見れたんですよね。

奥地 新鮮な面もあったわけね。

倉地 帰りたいんだけど、すごく楽しい時間もあったんですよ。でも、すぐに飽きますよね。それで、夜になるとやっぱり連絡しちゃうんです。「電話借ります」って言って。

奥地 そのころは家電(固定電話)?

倉地 家電で、高いのもわかってなかったんですけど、4秒10円とかだったんですよね。

奥地 北海道から東京じゃあねえ。

倉地 でも、わかってないから電話しちゃうんだけど、そうすると「かけ直すから」とか言って、またかかってくる。そうすると「なんで?」ってなるじゃないですか。お袋は声を聞いちゃうと「あんた、ちゃんとすれば早く帰ってこれるんだから」みたいな、ちょっと助け舟的な言い方をしてくるんですよ。だけど、たまたまそこに親父がいたりすると、パッと代わられて、「お前みたいなヤツは、しばらくそっちで頭冷やせ」って言われて切られちゃう。

奥地 頭ごなしね。

倉地 「もう二度と電話かけてくるんじゃねえぞ」みたいな感じで、「何だ、それ」って。「北海道に2泊3日リフレッシュしに行くか? 」って言ってた言葉を思い出すと、やられたなと。

奥地 そこで、お父さんとケンカしたりもしたの?

倉地 離れてるし、こっちからケンカふっかけっちゃうと、帰れなくなっちゃうと思ってるんで、どうしようもないんですよね。お金も1万円しかないし。

奥地 そこも考えたわけね。子どもは立場弱いもんね。

倉地 自分には、どこにいるかもわからないんですよ。3時間車に乗ってきたってだけで、車では寝ちゃってたし、だいたい北海道のこのあたりっていうのはわかるんだけど、たとえば電車がどこに走ってるのかもわからない。

奥地 帰れる自信ないよね。

倉地 交通機関がなくて、ただ牧場が広がってるんですよ。牧場の隣もまた牧場、とにかく何もない。すごく向こうのほうに国道らしきものが見えて、トラックが往き来してるのは見えるんだけど、どれぐらい先かもわからない。
 それで、そのお兄さんが車好きで、改造車に乗ってたんですよ。その車をほめると乗れるかなと思って、よくわかんないんだけど「いいっすね、いいっすね!」って言ってたら、「乗る?」って話になるじゃないですか。「いいんですか?」みたいな感じで、乗せてもらったら、ほんとうに楽しかったので、「オワー!」なんて言ってはしゃぐと、そのお兄さんも「ウオー!」って攻めて走るんですよ。そうすると、すごいスピードで行くから、町には、5分ぐらいですぐ着くんですよね。
 そんな感じで、お兄さんも遊んでくれるんで、「マンガ読みたい。本屋に行きたい」って言ったら、「いいよ、つれていってやる」って、その後も、町につれていってくれるようになったんです。それで、情報をだんだん得たんですよね。町への道順とか、「ここの人たちって電車で行くときはどうしてるんですか?」って聞いたら、「電車はここを走ってる」とか。

奥地 探ったわけね(笑)。

倉地 毎回、町に行くたびに、ちょっとずつ情報を得て、あんまりお兄さんばかりにきいちゃうと不審に思われるんで、本屋の店員さんにきいたりもして。

奥地 いろいろと知恵を使ったね。

倉地 それだけ慎重だったんですよね。1回だまされてるんで、そのお兄さんはグルだと思うじゃないですか。「こんなこと、きかれたよ」って話が家にいくと、バレちゃうなと思ったので。
 それで、とにかく1本道を行くと国道に出て、それを右に曲がってしばらく行くと電車の駅があるというのは、なんとなくわかったので、そこまで歩いていけば、なんとかなるかなって思ったんです。


●脱出を決行

倉地 それで、1週間ぐらいしたら家出したくてしょうがなくなっちゃって、とにかく出る日を自分のなかで決めようと思ったんです。
 馬の出産って、夜中とかに急にくるんですよ。出産に時間がかかって、みんなで夜中までかかっちゃうときは、だいたい次の日みんな寝坊してるんですよ。そこを狙おうと思ったんです。出産の翌朝4時とかに出ちゃえばって。

奥地 そこをよく発見したよね。考えたね。

倉地 それしかないなって。それで「今日産まれそうだけど、透くん見るかい?」ってときに「見たい」と言って。でも、子どもだから眠くなるんですよね。朝5時に起きて毎日肉体労働やってるから眠いんですけど、今日は寝ちゃいけないって、がんばって、夜中1時ごろに出産の立ち合いに行ったんです。でも、「うわー、やばい、眠い」って、もう船漕ぎ出しちゃって、ご主人も「もう寝なさい、眠そうだからいいよ」って言って。それで部屋に戻ったんだけど、暖房とかもいっさい切って。

奥地 寝ないようにしたわけね。

倉地 それと、玄関のすぐ脇が夫妻の寝室なんですよ。だから応接間のほうから出ようと思って、眠い目をこすりながら、そっちに靴を置いて、荷物もぜんぶまとめて、4時に出ようと思って、ひたすら3時間、ただ座っていました。でも、携帯とかもないじゃないですか。それで寝ちゃったんですよね。
 ハッと起きたら、4時をちょっと過ぎちゃっていて、でも間に合うと思って、「いましかない」って決行しました。
 外に出ようとしたら雨が降ってるんですよ。「うわー」と思ったけど、雨の音で物音が聞こえないから、ちょうどいいやと思って、そのまま出ました。

奥地 傘は持ってたの?

倉地 持ってないです。そんなのどうでもいいと思ったので。

奥地 ひたすら帰りたかったのよね。

倉地 もう出ちゃったら、逃げるしかないじゃないですか。でも、牧場の入口までの道、親父が車で帰った道って、寝室の窓から思いっきり見えるところなんですよ。もし、夫妻がカーテン開けたら、「あっ」って気づかれちゃう。だから、土手の死角を選んで走って行って、そのまま国道を目指したんです。4時半ぐらいになってたので、もう薄明るくなってました。

奥地 どきどきしたでしょう? 早く牧場を出たい、見つからないようにって。でも、牧場だから、さえぎるものはないし、見えちゃうし。

倉地 1時間経ったら、みんなが起きる時間になっちゃうんで、それまでには国道に出てないとまずい。

奥地 車ですぐ追いつかれちゃうもんね。

倉地 そう。あの改造車で来ちゃうなって思うんで、とにかく道を急いでたら、すぐ隣の牧場のあたりで、番犬に襲われちゃったんです。2匹いました。

奥地 そうすると、聞こえるもんね。

倉地 離れてるんで、それは大丈夫だったと思いますけど、完全に噛もうとしてるんですよ。持ってたバックを振りかざして対抗して、もう、まずいなと思って。こっちに行こうとすると、びゅって来るし、後ずさりしながら、バス停の小屋みたいなところに逃げ込んで、犬のようすを見てたんですね。それで、いなくなった隙に出ていったんですけど、やっぱり後ろからついてきて、バックを噛まれて、もうダメだと思って……。そうしたら、そこの牧場のおじさんが出てきて、「何やってるんだ!」って、犬を追っ払ってくれたんですよ。犬はキャンキャン逃げていって、「ケガはないかい?」って言ってくれて、「大丈夫です」って。
 それで「何やってるの?」って話になるじゃないですか。「実は東京から来ていて、親が倒れて帰らなきゃいけないんだけど、昨晩はお産でたいへんで、牧場のご主人を起こしても起きてくれないから、仕方なく出てきたんです」って言ったんです。

奥地 必死だからね。

倉地 おじさんが「○○さん送ってくれればいいのに」なんて言うから、「いや、もう明け方までお産がたいへんだったんで、起きられなかったんですよ」って言ったら、「そうかわかった、車乗りなさい」「どこまで行くんだ?」って。
 千歳空港に行きたかったんですけど、駅に着いたら電車がちょうど行っちゃったあとで、高速バスがいいってことになって、乗り場までつれていってくれたんですよね。でも、内心では「やべ、もう来ちゃうな」「もう家ではいないってなってるんだろうな」と思っていて、同じような車が来ると「うわ」ってなってました。
 高速バスの乗り場では、おじさんが「中学生だけど子ども料金で乗せてやってくれ」「じゃあ、がんばれよ」って言ってくれて、「おじさん、すいません」みたいな感じで、高速バスに乗れたんですけど、なかなか出発しないんですよね。たかが5分ぐらいなんですけど。

奥地 もうドキドキしちゃうよね。

倉地 座ってからも「うわー、やべえ」と思ってて、でも、まあ何とか出発して、高速に乗った瞬間、「あー、よかった」って。バスのなかのテレビで、「トラック野郎」かなんかのビデオが流れてて、それをすごくよく覚えてます。それを見て「ああ、よかった」って。


●1万円では東京に帰れない

倉地 バスは札幌行きで、寝てたらすぐ着いちゃった感じなんですけど、「ここまでは来ないだろう」とは思ったものの、まだ帰れないじゃないですか。1万円で帰れるのかなとか、どうしようと思って……。電車はくわしくないけど、あのころの感覚では北海道から東京まで電車というのは無理だと思ったし、とにかく無理かもしれないけど、飛行場に行って考えるかと思って、札幌でラーメン食べて、札幌駅で飛行場までの電車をきいて、それに乗って千歳空港まで行ったんです。
 千歳空港に着いて、JALとANAとがあるけど、日航機の墜落事故があったばかりだったから、JALなら無理もきくだろうと思って頼んでみたんだけど、すぐに裏を取ろうとするんですよ。

奥地 まだ中学生だもんね。

倉地 だから「やっぱいいです」って言って、ANAに行っても同じで。一番しょぼい東亜国内航空なら大丈夫かなと思ったら、東亜はいきなり連絡しようとするんですよ。これはもう直談判しかないなと思って、1000円のテレフォンカードを1万円のなかから買ったんですね。それで、叔母さんのところに電話したら、叔母さんも親じゃなくて私のところにかかってくるって思ってたらしくて、出た瞬間「あんたどこにいるの? いま、みんな探してるのよ」って言うから、「それは言えない」って。
 テレフォンカードがすごい勢いで減っていくんですね。カチャ、カチャって。「やばい、あんま長電話できないな」と思ってたら、叔母さんは「とにかくそこからタクシーに乗って戻りなさい」って。

奥地 言われたんだ。

倉地 たぶん、親父に言われてたんでしょうね。「透から電話かかってきたら、タクシーに乗せて返してくれ。タクシー代はこっちで持つから」みたいな感じで。「何でもいいから、牧場に戻りなさい」って言うから、「やだ、絶対やだ」って、こっちも腹が立ってきちゃって「結局、大人はこうなんだよな」と思って、「もうわかった。いいよ、頼まない」って電話を切っちゃった。でも、「どうするかな……自宅に電話するとなあ」って思って……。

奥地 どう言われるか、わかってるもんね。

倉地 親父は電話かかってるのを待ってるに決まってるので、こうなったらイチかバチかやるかと思って、空港の売店でお菓子を買ったんですよ。それで、そこにいた小さい女の子が、ちょうどお母さんと離れてたんで、「お菓子あげるから、ちょっと来て」って言って、それから家に電話したんです。電話に親父が出て「おまえ、いまどこにいるんだ」って言ったところで、「いま、女の子を誘拐したから」って言って、女の子が「助けて、助けて」って。

奥地 女の子に協力してもらったわけね。

倉地 そう。「痛い、痛い」とか言ってもらって。でも、お母さんも心配してるだろうから、その子にはお菓子をあげて「バイバイ」ってすぐ追い返して。それで、親父には「この子、殺しちゃおうかな」とか言って、「おまえ、バカなことはやめろ」ってなって。「バカなことやってるのはどっちだよ、冗談じゃねえよ。これから、ほんとうにこんな子産まなきゃよかったってぐらいのことしてやるよ。何やろうかな? 誘拐だろ、強盗だろ」とか言ったら、「わかった。迎えにいく」って、やっと親父が言って、「その代わり、学校に行けるか?」って言うから、「行ける」って言ったんです。、行く気はないんだけど、まずは東京に行かなきゃいけないんで、ここは服従だなと思って。「じゃあ、その女の子を離してあげなさい」って、もうとっくに離してるんですけどね(笑)。
 それが夕方の5時ぐらいだったですかね。

奥地 お父さんが来るまで待ってたの?

倉地 ご飯食べたりして待ってましたね。

奥地 1万円の残りは持ってるからね(笑)。

倉地 でも、バス代と電車代とテレフォンカードとお菓子で使っちゃったから、残りは2000~3000円しか残ってなかったんですよ。それで、ご飯食べて半分くらいになっちゃったかな。でも、親父が来るってわかったから、気にしないで食べました。親父は、「まったく、おまえはよう」ぐらいな感じで来て、「女の子は大丈夫だったか?」って言うから、「ああ、大丈夫、大丈夫。すぐに解放しました」って言って。

奥地 その日のうちに東京に帰ったの?

倉地 いや、夕方から来たので、もう帰りの便はなくて、親父も「どっかホテルに泊まって、今日はゆっくり話そう」って。その日はカニとか食べて、「おまえも、これでいろいろわかっただろ」「おまえ大丈夫だな?」みたいな感じで言うんですよ。こっちも「わかった、大丈夫」だって。

奥地 まだ帰るまでは安心できないもんね(笑)。

倉地 そう。いつ手の平を返すかわかんないから、「大丈夫です。ごめんなさい。もう二度としません。学校にも行きます」って。

奥地 言わざるを得ないよね。


●お袋にキレた

倉地 それで次の日に無事に東京に帰って、「明日から学校に行けるな?」って言うから「わかった行く」って言って、それで親父は仕事に行ったんですね。その瞬間、お袋にキレましたね。
 「お前グルだったのか? わかってたんだろ? だから、あのとき駅まで来たんだろ」って、もう、わあっとなって、母親も泣き出して……。

奥地 それはぶつけざるを得ないよね。

倉地 「絶対、おまえらのことなんか信用できない」って言って、家を出て叔母さんの家に行ったんです。叔母さんは「帰りなさい」って言うんですけど、「それはイヤだ、帰るぐらいなら死ぬわ」「あんな裏切り者の信用できないヤツが住んでる家なんか住んでらんない」「学校にも絶対行かない」って、言ったんです。
 そうしたら、叔母さんが「うちであずかるわ」って言ってくれたんです。「あの子、しばらくケアしないとダメよ。おかしくなっちゃってる」って言ってくれて。「その代わり、教科書を持ってきて、ちゃんと勉強はしなさい」って言って、叔父さんと叔母さんで教えてくれました。

奥地 たしか、その叔母さんがシューレのことを知ってたんだよね?

倉地 そうなんです。叔母さんが勧めてきたんですよ。「ここは自由だから」って。新聞か何かで知ったと言って、「この子には、こういうところがいいんじゃないの」って。それで、親父が奥地さんに会いに行ったら、親父は「奥地さんに怒られた」って言ってましたね。「子どもが怒るのあたりまえでしょ」って言われたって。
 でも、そのときはまだ、親父の言葉は信用できなかったんですよ。だから親父に「東京シューレ行こう」って言われても、「東京シューレって、どこにあるんだよ」って。

奥地 また、だまされるかもしれないもんね。

倉地 「北区」っていうから、「北っていうのがあやしいな、それ北海道の北じゃないの?」って(笑)。

奥地 もう北にアレルギーが(笑)。

倉地 北はやめてほしいよと思って、東十条の場所も知らなかったんですよ。叔母さんが「1回行ってみなさい。ほんとうにここは大丈夫よ」って強く言うから、「叔母さんが言うなら」ってことで、それで行ったんですよね。

奥地 狭い階段上がって、3階の狭いところでやってたんですよね。

倉地 そう、東十条のアパートの一室だったときで、20人ぐらいいたと思うんだけど、ドラム叩いていた子がいて、TとかSとかもいましたね。女の子は、Kちゃん、Aちゃんもいて。


●なんだ、ここは?

奥地 初期のシューレには、どういう印象を受けた?

倉地 「なんだ、ここは?」だよね(笑)。「何やってんの、この人たちは。毎日ここに来て何やってるの?」って。「自由だから」って言われて、だけど自由って言われると何していいかわかんない。好きなことしていい、好きな時間に来ていいって、ピンとこなかったんだけど、とりあえず学校に行かないで、こっちに来ればいいって言うんだったら、行こうかなって感じでした。

奥地 学校よりはいいって思ったんだね(笑)。

倉地 それで親が納得するんだったら、こっちに来るわ、こっちのほうが100倍いいわって。もともと家に閉じこもってるのはあんまり好きじゃなかったので、それで通い始めた感じですね。

奥地 シューレで、どういうことをやったかは覚えてる?

倉地 授業は何か出てましたよね。あと、スポーツはいっぱいやったな。バスケとか。

奥地 高架下のところだけどね。

倉地 そう、あれは楽しかった。汚れたら、みんなで銭湯に行ったりして。あとは、みんなとゲーセン行ったり、本屋に行ったり、喫茶店でご飯食べたりって感じかな。

奥地 ミーティングでいろんなことを決めて、合宿で北海道にも行ったね。そのときは、どういう気分だった? 根室のほうから斜里のほうに行きましたね。清里町の緑町公民館を無料で借りて。

倉地 あのときはSとふたりで電車で行ったんですよ。俺とSは仕事もしていて抜けられなかったから、あとから行ったんですよね。

奥地 バイトをしてたからね。

倉地 Sは出版社のバイトで、自分もバイトを何かやってたんですよね。あのときは楽しかったですね。そのころになると、いまシューレでスタッフをしている美奈ちゃん(萩原美奈子さん)もいました。北海道の子たちとも仲良くなって。

奥地 シューレに出会ったことは、自分にとって、どうだったんでしょう。まだ日本には、学校外の場はほとんどなくて、大人が指示・命令するんじゃなくて、子どもでやっていくところでしょう。ミーティングを開いて、どうしようぜとか、どういうルールにしようとか。自由に通ってきていいし、ほんとうに遅い時間から来る子もいましたし。

倉地 3時とかね。Kなんて、けっこう遅くに来てましたからね。

奥地 それも、自分のペースでいいんだって感じでやってた。


●仲間との出会いと触発

倉地 最初は、親に対して「ここに行ったら満足だろ」って感じだったんですよ。別にシューレに行きたいから行くんじゃなくて、どこかに行ってないと、この人たちは何を考え出すかわかんないから、「ここに行ってればいいんだったら、ここに行くよ」って感じだったんだけど、行けば横のつながり、仲間ができるじゃないですか。
 それで、同世代が多かったので、触発されましたね。Hくんは定時制に行ったとか、Sも受かったとか、誰が就職したとか、なんとなく、みんな道が決まっていく。仲間どうしで、いろんなことをしゃべるんですよね。将来は何をやりたいとか、稼ぎたいとか。何かやりたいことの決まってるヤツはうらやましかったし、「俺は何やりたいんだろう? 何かやらなきゃいけない」って、自分のことを考えるきっかけになりましたね。それはたぶん、家にいたら思わなかったことだと思いますね。

奥地 学校の友だちやクラスメイトと、シューレの仲間では、ちがいを感じてましたか? 学校では、ヒヤヒヤしながら関係をつくってたわけでしょう?

倉地 だんだん学校の友だちも、ひとりずつ戻ってはきたんですよね。そいつらはわかってくれてたんで、「いいんじゃね、別に来なくても。卒業できれば」ぐらいな感じで。
 シューレの友だちにも会わせるよって言って、会わせたりもしたぐらいなんで、Tさんなんか、けっこう俺の友だちいっぱい知ってますよ。だから別にそこに壁はないですね。どっちもいっしょ。

奥地 学校の友だちともシューレの友だちとも、両方つきあってた感じなんだね。

倉地 どっちも、ふつうにいっしょですね。別になんら変わりはないと思うし。


●交渉してもらって、卒業できた

奥地 あのころだと、卒業も厳しかったですけど、何か覚えてますか?

倉地 校長は、出席日数足りないから卒業させないと言ってましたね。

奥地 だいぶ交渉しないといけなかったのよね。

倉地 交渉してたってのは、奥地さん、俺に言わなかったんだよね。「あんたのところの校長はたいへんだったのよ」っていうのは、あとから聞きました。

奥地 あのころは、そういうことがめずらしくなかったのよね。

倉地 でも、卒業できたんですよね。それで、卒業証書だけは学校に取りに来いって。

奥地 行ったの?

倉地 親父に連れて行かれたんですよ。俺は「そんなものいらねえよ、行かなくていい」って言ったんですけど、親父は「何でそんなこというのかね」って言って。

奥地 親はそうはいかないでしょうね。せめて卒業証書は、となりますよね。

倉地 その日だけ学生服を着て、職員室に行ったんですよ。学生服なんて「は? 着たくもないよ」って思ってたけど。

奥地 先生は、なんか言ってた?

倉地 3年の担任が、けっこう熱血な先生だったんですよ。金八さん目指してるぐらいな人で、一生懸命、家に通ってきたんですよね。それで、そのころ「朝のホットライン」(TBS)という番組で、土手でインタビューされて、僕の言ってることがオンエアされたんですよ。「学校はわりと何もしてくれないですね」って、ちらっと言ったことがオンエアされたんですけど、それを見て「先生は悲しいよ」と言ってきた(笑)。それで、「先生はしてくれてるけど、学校はしてくれないんだよな」って話したんですけど。

奥地 先生は必死でやってるつもりだからね(笑)。

倉地 だから、卒業証書をもらってるときも、何となく担任的には「ああ」って感じだったと思うんですよね。最終的に学校じゃなくてシューレを選んだわけじゃないですか。学校には来なかったわけだから。

奥地 そこに釈然としないものがあったんでしょうね。

倉地 「卒業おめでとう」って言うんだけど、なんとなく「はい、はい」みたいな(笑)。それはすごく感じましたね。職員室はアウェイな感じがしました。

奥地 まだそのころは、登校拒否は問題行動で、理解されてなかったですからね。初期のシューレだと、通ってくるだけで補導されちゃうこともよくありました。

倉地 補導されてましたね。それで、しょっちゅう電話がきて。

奥地 そうなの。電話がかかってきて、警察に行って、「この子は悪いことしてないんだから叱らないでください。引き取りにいきますから」って言ってね。そういう時代だった。

倉地 僕も16歳のとき、中学を卒業した年にファーストフード店でバイトしているときに、警察から声をかけられたことがありました。朝10時に店に行ったら、背が小さいから中学生だと思ったんでしょうね。スーツを着てるおじさんたちにパッと囲まれて、「おはよう」っていうから、「誰?」って思いながら、「おはようございます」って返したら、「警察だけど、学校は?」って、きかれたんですよね。「いや、行ってないですけど」って言ったら、「何で? どこに行くの?」って。「そこにアルバイトに」と言っても、「アルバイト? 年はいくつ?」ってきくから、「16歳です」って言ったら、「ああ、ごめんね」って。こうやって補導されるのかと思いましたよ。

奥地 そういう雰囲気って、子どもは怖いですよね。だから逃げちゃうのね。逃げるとよけい追っかけるの、あやしいって言ってね。

倉地 僕も4~5人に囲まれて、「何だよ? 何したんだよ」と思って、しばらくドキドキしましたもん。

奥地 初期のころは、なかなか学校外の居場所は理解されなかったからね。アルバイトはどんなところで?

倉地 最初はロッテリアで、それからガソリンスタンドを何軒かやりましたね。


●働くうえでの支障は

奥地 そのころ、学校に行かなかったとか、フリースクールに行ってたというので、働くうえでの支障はありました? それを知ったら、シラーッとしちゃったとか。わりとそういうことがあったって、シューレの子たちは言ってたけど……。

倉地 アルバイトでは、あんまり支障はなかったかな。逆に、高校に行ってないから長い時間入れるじゃないですか。それは喜ばれることが多かったですね。だけど、就職になると、やっぱり高卒からなんで。

奥地 くやしい思いをしたこともあったんですかね?

倉地 ありましたよ。だから、大検を取ったほうがいいかとか思いましたもん。

奥地 それで、18歳のときに、最初に話していた縫製工場に就職したということですかね。

倉地 コネを使わないと就職できなかった感じで、とりあえずは、そこに就職したんです。

奥地 就職して、最初はどんな仕事をやったの?

倉地 車の免許は18歳ですぐに取って、内職をやっている下請けのおばさんたちのところに行って、「これにボタンを付けてください」と持っていくんです。自分で単価を決めて、「一着いくらね」ってやっていくんです。下請けのおばちゃんのところを朝から16軒まわるんですよね。前に出したのを回収して、次の仕事を置いて、伝票を切っていく。それで、午後は、大きいトラックに乗って、納品に行かされました。ひたすら車ばっか乗る仕事ですよね。
 その会社のなかでは、僕だけが、いろんなセクションに行く人だったんですよ。たとえばアイロンかける人は、ひたすら1日中アイロンをかけてるじゃないですか。ミシンの人は、ひたすらミシン。裁断の人は、ひたすら裁断。そのなかで、僕だけは車に乗って、ミシン番に行ってみたり、プレスの不良品が返ってくれば、そこに持って行ったり、いろんなところに行ってました。

奥地 若いときだから、そういうところで働くだけだと、ちょっと物足りなくはなかった? それとも、けっこう、やりがいがあった感じ?

倉地 それが僕にしかできない仕事だったんですよ。何カ月かしたら、そのおばちゃんたちもすごいかわいがってくれるんで、お願いしたら何とかやってくれるんです。

奥地 働きやすかったんだね。

倉地 働きやすかったですね。納品に行っても、納品時間にうるさい人が多かったんですけど、時間を過ぎてもわりと入れてくれたりとか。

奥地 まだそのころは昭和の雰囲気が残ってるよね。

倉地 そう。なんか人情な感じありましたよね。「あと何枚でできあがるから、ようかんでも食べて待ってて」とか、そういう感じがすごく好きでした。コミュニケーションが楽しく取れてたんで。

奥地 雰囲気があたたかければね。お父さんとは、その後どうなったんですか?


●両親とのその後

倉地 ずっと、「また、だますんだろ?」みたいなことを二言目には言ってたんです。親父も「それはもう二度としない」と約束して。

奥地 それは反省してくれたって意味?

倉地 そうなんですよね。当時、僕がオーディオに凝っていて、デカいステレオがほしくてバイトしたりしてたんですよ。スピーカーを換えたい、プレイヤーを換えたい、アンプを換えたいとか、そういう感じでいたころに、親父が、すごくデカいスピーカーを買ってくれて、「申し訳なかった」と言ってくれました。その代わり、このことに関しては二度と言うなって。俺もスピーカーもらっちゃったんで言わないってことで、それで、いったんはチャラにしました。

奥地 そうこうしてるうちにお母さんが亡くなったってことなんですよね。ご病気で?

倉地 くも膜下ですね。

奥地 私の母も、くも膜下出血で亡くなったんです。

倉地 あれも運なんですよね。破裂した場所によっては大丈夫な場合もあるし。母の場合は脳に近いところで2発も破裂しちゃったらしくて、もう血を抜くしかできなかった。僕が行ったときは昏睡状態で、もう亡くなるのを待つだけ、いつまでもつかっていう状態で、「覚悟してください」みたいな状況でした。

奥地 それまでは、日常では、お母さんと話してたの?

倉地 ぜんぜん元気だったんで、いきなりですよ。いまだから言えますけど、お袋と最後に会話したのがケンカですからね。「うるせえ、くそばばあ」ぐらいなのが最後の言葉なんですよ……。

奥地 それが最後になっちゃったの?

倉地 もう、あのときは悔いました。はあーって……。

奥地 でも、わかんないもんね。

倉地 いまだから、最後まで「らしかったな」って、ポジティブに捉えていけるんですけど、あれが最後だったんだなって、そのときは悲しかったですね……。

奥地 それで、お母さんが亡くなられてから、たいへんだったんですね。


●退職、結婚、工務店へ

倉地 親父が、お袋が亡くなってからやる気なくなっちゃって、父親の会社もどうしようもなくなっちゃったんで、この先どうしようってなったんですよね。縫製の仕事も自分がやりたくてやってたわけじゃないし、まだ自分の好きなこともわかってなかったんですけど、好きなことをやろうと思って、会社を辞めたんです。
 それと、その職場にいた女性と結婚して、家も買いました。

奥地 お母さんの遺したお金で?

倉地 何千万もあったわけじゃないんですけど、自分たちの貯金と合わせて頭金にして、アパートを借りるよりは月々の返済は安くなるからって。家を買ったのは、別の理由もあって。嫁のご両親が新潟に住んでるんですけど、当時まだ若かったので、結婚はまだ早いって、なかなか会ってもくれなかったんですよね。
 それで、家を買って、ちゃんと幸せにしますっていうのを示そうと思って、あとはハンコつくだけの書類を持って、会いに行ったんですよね。会わないと言ってるのに。
 ご両親も、来ちゃったものだから会うしかなくなって、会ってくれたんです。それで、そういうことを話したら、「そこまで考えてくれてるんだね。じゃあ応援する」って言ってくれて、それで結婚を許してもらって、家を買って結婚したんです。
 仕事は辞めちゃってたんですけど、たまたま、そのときに声をかけてくれた工務店に行くことになったんです。何もしないわけにはいかなかったんで。

奥地 好きなことがわかんなかったって言ってたけど、工務店の仕事はやりたかったの?

倉地 叔母が「あなたは小さいころから、木とかがあると、すぐ何かつくるよね」って言ってたんです。叔母の家には、じいさん、ばあさんもいたんですよ。お袋の両親。それで、叔母の家に、僕が小さいときに、じいさんにつくってあげた木のイスがあったんですよ。このイス、いまもまだ置いてあるんです。

奥地 すごい頑丈なものをつくったんだね。

倉地 何十年もすげえなと思って、IKEAもびっくりだよねって(笑)。叔母が「あんた、小っちゃいころに、こんなのをつくってたんだよね」って言ってくれて、自分でも、大工工事は楽しいっていうのがあって。小さいころからノコギリとか使ってたんですよね。それで、「何もやってないんだったらうちの手伝いする?」って、その工務店から声をかけてもらったとき、叔母の家のイスのことを思い出したりして、「ああ、絶対これ楽しい」って。「のこぎり引いたことある? 切ってごらん」って言われてやってみたら、「まっすぐ切れるじゃん。最初っからまっすぐってなかなか切れないんだよね。意外と素質あるんじゃない」って。調子よく言ってくれてるんだなって思ったけど、やってたら、ほんとうに楽しくなってきちゃって。


●働きながら専門学校に

奥地 それで夜の専門学校に通うことにするんですよね。どれぐらい経ってから、勉強しようって思ったの?

倉地 厳密に言うと、2回目の親方のところに行ってからなんですよ。最初の親方のところで、いろんな大工工事も覚えたんですけど、もっと深くやりたかったんで、親方にお礼奉公したあとに、基礎からやる工務店の門を叩いたんですよね。そこで何か資格を取ったほうがいいんじゃないのって話になって。
 でも、まあ学がないじゃないですか。それで、数学はきらいじゃないけど、わかんないところがあると、ちょっとイヤぐらいだったんですよね。だから、いまから全教科をやるのは難しいけど、数学に特化してやればいいんじゃないかなと思って。取れるかどうかは別にして、チャレンジはしてみようかなと思ったんですね。わりと、やりだしたら本気でパッと入っちゃうタイプなんで。

奥地 仕事していて、何時から学校に行ってたんですか?

倉地 平日は週2日、夜6時から9時ぐらいまでで、日曜日は朝から夕方まででしたね。

奥地 夜、眠くなったりしなかったですか? 昼間も肉体労働をやってるわけだから。

倉地 眠いですよ。ばんばん肉体労働やったあとに作業着のまま学校行って、でも、そんなのいっぱい来てるんですよ。そこでも仲間ができて、また、触発しあうところがあって。いまだに、つきあってるのもいますしね。

奥地 何年、通ってたの?

倉地 1年ですね。長期戦は無理なんで、短期で詰め込むだけ詰め込んで。

奥地 それで、二級建築士の資格を取ったんですよね。勉強もたいへんだったでしょう。テストもあるし。

倉地 すごい勉強しましたよ。小学校4年生の算数あたりからやりましたからね。速度の計算とかもできなかったので、ドリルとか買ってきて。

奥地 人間やり直そうと思えば、いつからでもできるんだ。

倉地 ルートなんて知らないし、サインコサインなんて聞いたこともないって感じで。

奥地 そうだよね。中2から行ってないんだもんね。

倉地 中3から出てくるものは、もうわかんないです。

奥地 シューレでも、そんなにはやってるわけじゃないからね。学校に行ってたのは23歳のときですよね。その後、一級建築士は取ったんですか?

倉地 いや、一級は取ってないですね。一級はうちの子どもにまかそうかなって(笑)。

奥地 なるほど(笑)。その後、独立しようと思ったのは、どうして?


●独立して社長に

倉地 いろいろあるんですけど、最初の大工の親方のところから、個人の工務店、次にちょっと大きい工務店に行って、最後は建設会社に行ってたんです。ずっと大工でやってきたんですけど、最後のところは、基本的に仕事が甘かったんですよね。

奥地 甘いって、いい加減って意味?

倉地 いや、仕事が少ないってことです。甘くなっちゃってた時代なんですよ。今はオリンピックとかで建築の仕事もきてますけど、そのころはヒマなところが多くて、そんななかでも、わりと仕事をきっちりやるところだったんですけど、自分で持ってきた仕事をやるみたいな感じで。
 たとえば、先輩が家を建てるとき、自分でやらないで会社で受けてもらって、僕が建てるみたいな。その次は後輩の家で、次は誰の家って、立て続けに3棟ぐらい取ったんですよね。それで、自分でやったらってなったんです。社長からも「そんだけやれるんだから絶対自分でやったほうがいいよ。おまえは人の下でやるタイプじゃないよ」って言われて。「そうなのかな?」って思っているうちに、その会社で働く期限を切られちゃったんですよ。僕がいると、うちの会社も甘えちゃうって。すごい切られ方だなと思いました。社長は同じ目線でいたい、僕にも社長になってもらって、上下関係じゃなくて同じところでやりたいって言ったんです。

奥地 同業者の社長どうしみたいな?

倉地 そう。すごく懐のある人で、いい方だったんですよね。いまだに、つきあいはありますし、仕事をまわしたりしてます。
 そのころは埼玉で仕事をしてたんですけど、いまは東京に出てきてやってます。もともと練馬で生まれてるんで、やっぱりこっちに戻りたかったんですよね。東京に戻ったら、水を得た魚じゃないですけど、知り合いができていくのが早いんですよ。
 家を買ったときに、埼玉の川越にしたんですけど、それは嫁さんの両親が新潟なんで、ちょっとでも近くに寄せたかったんですよね。だけど、仕事となると、ホームグラウンドは東京なので、練馬とか板橋のあたりは土地勘もあるし、知り合いのつてで「誰々さん知ってます」とか、すぐつながるので、広がるのが早かった。
 それからリフォームを覚えて、店舗とかもやるようになって、要は何でもやるようになっちゃいました。


●子どもたちは

奥地 お子さんは何歳になられた?

倉地 上が今度19歳になりますね。いま、東洋大学に行っていて、建築やりたいって言ってます。

奥地 親子冥利に尽きるじゃない。なかなか親の仕事を継ぎたいって少ないですけどね。

倉地 なんで建築やりたいのかは知らないですけどね。

奥地 お父さんが楽しそうに働いてるからじゃない。家でそういう話をしたり。

倉地 自分で自分の家を建てるのを見てるんですよね。子どもが幼稚園のとき、3階建てをひとりで建てたんで。

奥地 働きながら、空いた時間とか休みの日を使って家を建てたって言ってたよね。

倉地 工務店に勤めながら自分の家を建てて、子どもも、それを毎日見に来てたんですよね。幼稚園バスが、わざと家の前を通って行くんですよ。それで、ほかの子たちにも、指さして「ここだよ」みたいな。

奥地 お子さんの夢になったんだ。下のお子さんは?

倉地 下の子は今年6月で9歳になるんで、上の子と10歳離れてるんです。あいだに2回流産しちゃってるんですよね。でも、僕がひとりっ子でさびしかったので、どうしても兄弟をつくってあげたかったんです。ちょっと離れちゃったんですけど、がんばって。

奥地 いま、学校は行ってる?

倉地 行ってますね(笑)。

奥地 もし行かなくなったらどうする?

倉地 行かなくなったら、行かなくなったで。俺、上の子にも「行きたくなかったら、別に行かなくたっていいんだよ」って、いつも言ってたんだけど、子どものほうは「別に」「友だちみんないいヤツだし」とか言ってて、「まあ、それならいいけど」みたいな感じで。
 
奥地 楽しく行ってれば、一番いいよね。

倉地 楽しく行ってるんだったらいいかなと思って。環境がいいって言うんだったら。それと、ふたりともキックボクシングをやっています。


●いまごろかよ、この野郎

奥地 最初に言いましたけど、いまは文科省が「不登校は問題行動じゃない」って通知を出して、フリースクールのようなところも応援しなきゃって方向へ考え方が変わってきてるんです。お金はまだ出てないんだけど、経済的支援にも努めますというような法律もできて、変わってきてるんです。
 まったく問題児扱いされて、治すためには嘘までつかれて北海道に置いていかれた立場からすると、こういう変化をどう思いますか?

倉地 「いまごろかよ」ってね(笑)。「もっと早くしろよ、この野郎」ですよね。

奥地 この野郎だよね(笑)。

倉地 こっちがどんだけ苦労したと思ってるんだよ。うちの子は「学校行かなくていいよ」って言ってるのに行っちゃってるし、なんか逆じゃないかなって(笑)。

奥地 30年経って、やっと少し変化してきたっていうか。

倉地 ぜんぜん聞いてくれなかったですからね。なんで学校に行かせることが先決なんだろうって、意味わかんないですよね。学校に行かないと、いい高校に行けないから、いい高校に行かないと、いい大学に入れないから、いい大学に入らないと、いいところに就職できないからって。「だから?」「はあ?」って感じなんですけど。

奥地 そうじゃない人生をつくってきた立場からするとね。

倉地 ふつうに大学出てたら、こういう楽しみ方はできてないはずだしなと思ってるから。二級建築士取るとき、高校も卒業して専門大学に行ってたヤツらも夜学に来てたんですよ。それなのに落ちてましたからね。中卒の自分が一発で受かってんのに。俺なんか中学だってギリギリ卒業じゃないですか。2年から行ってなかったんですから。

奥地 学ぶ力って、別に学歴をのぼってきたから、あるってもんでもないよね。

倉地 「何やってたの? 逆に安心しちゃったんじゃないの?」って感じですよね。こっちは、何だかんだ言いながら、ずっと危機感はあったんで。何もしてなくてゴロゴロしてるように、まわりからは見えてたかもしれないけど、シューレの仲間たちとは、毎日のように「この先どうする?」「このままでいいの?」みたいなことを言ってましたしね。学校に行ってるヤツは、1回入っちゃえば、そういうこと考えてないと思うんですよ。

奥地 そういう意味では自分と向き合ってるし、世の中とも向き合ってるとも言えるもんね。

倉地 いつも切実だったんですよね。「どうする? もう18歳だよ」みたいなね。


●崖っぷちに強くなった

奥地 いまも不登校は少数派だけど、そのころはもっと少数派ですものね。大多数が学校に行くのがあたりまえのなかで、そうではない道を歩いてきたのは、たいへんだったかもしれないけど、それがまたパワーをつくったような気もするんですよね。ほんとうにパワーあるなって思います。

倉地 強くはなりましたよね。崖っぷちには強くなるというか、崖っぷちをずっと歩いてきてるんで、崖っぷちが好きになりますよね。そのほうが自分らしいじゃないけど。だから起業したほうが、たぶん自分には合ってたと思いますね。いつも崖っぷちですから(笑)。

奥地 自分で全責任を持ってやるしね。

倉地 公務員とかじゃないから安定しないし、黙ってても給料が入るわけじゃないから、売上を上げなきゃいけないし。

奥地 たしかに不登校の人は崖っぷちに強いかもしれない。

倉地 強いですよね。崖っぷちがふつうなんで(笑)、土壇場に強くなるんですよね。知恵が湧くっていうか。

奥地 子ども時代から崖っぷち(笑)。北海道の牧場の話だって、どうやって生きて帰れるかみたいなことですものね。中学生ぐらいのときに、そんな困った状態に置かれて、ほんとうに必死で、全力で考えて神経を張りめぐらせて打開の道を考えたんですものね。社会に理解がなかったことのとばっちりが、そういうかたちで現れていたわけだからね。専門家のおかしな助言で、ひどいですよね。

倉地 あのあと、その専門家は誰か、とにかく聞きたくて、「どいつだよそいつは」って親父にきいたんです。そうしたら、「自分がこういうことを言ったってことは、本人には絶対に言わないでください」って言ってたらしいんですよ。そうなったら、よけいに教えろって。「おまえ逃げてんじゃないか。失敗したって言ってるんじゃないか」って。しかも、僕は帰ってきちゃったわけじゃないですか。帰ってきちゃったあと、親父が昌子武司に「帰ってきちゃったんですけど、どうしましょう?」って話したら、「もう、それぐらいできる子ですから大丈夫」って言ったらしい。バカかと。

奥地 けしからんね(笑)。

倉地 けしからんですよ、どうしようもないですよ。

奥地 自分が変わったわけじゃなくて、初めから大丈夫なのにね。

倉地 何言ってるんだよ、最後まで上から目線だなと思って。

奥地 その人、不登校の専門家として売り出していて、本屋さんにたくさん本が並んでてね。よけいに、けしからんって思いましたね。

倉地 昌子武司だって聞き出したとき、「会わせろ」って言ったんですよ。一度対談したいって。でも、「絶対に会わせない。おまえは何するかわかんないから」って。

奥地 ほんとうは、しなくてもいい経験だったと思いますけど、でも、それを自分でなんとかくぐってきたから、そういう意味では、自信というか強さにもなったのかなと思います。それにしても、たいへんな経験だったと、あらためて思いました。不登校への見方がまちがっていたことで、人権侵害にあたることが次々に起きていたんですが、そのひとつですよね。よくぞ、それにめげず生き抜いてこられて、すごいです。今日はありがとうございました。
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posted by 不登校新聞社 at 17:12| Comment(2) | 当事者
この記事へのコメント
すごいのHITOKOTOでした

誘拐はありえないですが
Posted by 丸子七重 at 2018年05月04日 18:20
倉地透っていったら、あのっ!?
Posted by at 2018年05月27日 11:34
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