全部やれ。

とんねるずを獲ってこい!日テレ社員が『ねるとん』収録現場に潜入

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、なぜ帝王・フジテレビを逆転できたのかを描くノンフィクション。
発売を記念して『進め!電波少年』そして『ガキの使いやあらへんで!』という人気番組の誕生秘話を紹介します。

朝まで13時間続いた欽ちゃんの話

90年代、日本テレビ躍進の象徴のひとつは間違いなく『進め!電波少年』だった。だが、それをつくった土屋敏男は当時の心境を次のように語る。

「オレは町外れの孤児院の院長みたいな感覚でした。町の真ん中でやってる五味(一男)とか吉川(圭三)たちがフジテレビに勝ったんであって、彼らが『バンザイ、バンザイ』って言ってるところに混ざっちゃいけない。オレたちはそんな身分じゃないって思ってましたね」

そうした意識は、もちろん『電波少年』が放送時間上、視聴率三冠王争いにあまり貢献できないという事情にもよるだろう。だが、それ以上に「たまたま思い切って振ったバットが当たっただけ」と言うとおり、『電波少年』を当てるまでの土屋は、この頃に第一線で活躍したディレクター・プロデューサー陣の中で屈指の“落ちこぼれ”であった。それが、そんな思いにつながっているのではないだろうか。

*  *

「とんねるずを獲ってこい」

1989年、土屋敏男は編成部に異動になった。そして、異動初日に編成部長に就任していた加藤光夫にそう言い渡されたのだ—。

遡ること2年前、『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』から“一人立ち”をした土屋は、加藤から『風雲たけし城』のような番組を作れと指示され、87年『ニッポン快汗マップ ガムシャラ十勇士‼』というゴールデンタイムの番組を制作した。山田邦子と柳沢慎吾が司会の視聴者参加型の番組だ。しかし、番組は視聴率1%台。当時も今もゴールデンではあり得ない惨憺たる結果に沈み、わずか半年足らずで早々に打ち切りが決定した。

その後、土屋は萩本欽一の番組を手がけることになった。

最初の顔合わせの時、萩本はおもむろに話し始めた。土屋の顔は見ずによどみなく語る。夕方6時から始まったその話は、朝方7時まで実に13時間続いた。

「お前、合格」

萩本は土屋に言った。土屋はその13時間もの間、萩本の話を気をそらさずにずっと耳を傾けていたからだ。話しながら萩本はその様子をしっかり見ていたのだ。もちろん、番組の“座長”となる男の話だから、しっかり聞かなければという意識もあった。だが、何より、萩本の語るテレビ論、お笑い論に自然に引き込まれたのだ。80年代前半、「視聴率100%男」と呼ばれていた萩本も85年の休養から復帰以後、その人気に陰りが見えてきていた。とはいえ、その理論と説得力、そして熱意はまったく衰えていなかった。

土屋は、『欽ちゃんの気楽にリン』や若き日の草彅剛も出演した『欽きらリン530‼』のメインディレクターとして、萩本欽一からテレビにおける笑いについての薫陶を受けるのだが、この番組も成功とは程遠く、前者はわずか6回で打ち切り、後者もやはり半年で終了した。この番組で誕生した勝俣州和擁するCHA‐CHAをメインに起用した『CHA‐CHAワールド』なども制作したが、結局、89年、編成部に異動になってしまう。事実上、バラエティのディレクターとしては“失格”の烙印を押されたと土屋は感じていた。

前年の88年から日本テレビは、開局35周年を機に「ソフト・イノベーション35(SI35)」と名付けられた小林與三次会長肝いりの業務改革に着手していた。人材の交流を促す人事制度や自己申告制度の導入、広報局の設立など改革は多岐にわたったが、その大きな柱の一つが、編成部の権限強化だった。それまでの日本テレビは制作部や営業部の力が絶大だった。このままでは番組編成が硬直化したままになってしまう。こうした危機感から日本テレビは、編成部内に、番組の企画立案機能を有する企画センターを設置。「編成企画」と呼ばれるその部署に土屋は配属されたのだ。

20時、22時、24時~の酒の席

「加藤光夫の三段重ね」

当時、加藤が毎晩のように開いていた飲み会を人はそんな風に呼んだ。加藤はたとえば20時からはスポンサーの関係者と、22時からはプロダクション関係者と、24時からは後輩たちと、というように2時間ごと三段にズラして酒の席の約束をする。すると時には前の時間帯のメンバーと後の時間帯のメンバーが顔を合わせることになる。四谷三丁目の小料理屋や加藤と親交が深かった「オヒョイさん」こと藤村俊二が経営していたバーなどにスポンサーやプロダクション関係者から営業、制作、編成に至るまで様々な人たちが入れ代わり立ち代わり訪れ、そのまま合流していったりする。やがて、それまであまり顔を合わすことがなかった人たちの間に交流が生まれ、特に若手社員にとって貴重な情報交換と人脈構築の場となった。加藤はそんな若手たちにこまめに気を配り声をかけていた。

「編成は会社の経営戦略を作るもの」という持論があった加藤光夫は編成部長に就任すると、「番組表更地説」を唱えた。

それまでの日本テレビの番組表は、いわば各チーフプロデューサーや芸能プロダクションが持っている枠の集合体だった。この曜日のこの時間帯はこのプロデューサーのもの。番組が不調ならば、その番組は終わるが、後継番組でもスタッフは変わらない。こうした「自分の枠」をどれくらい持っているかが、プロデューサーの強さのバロメーターだった。一方で営業の命綱は巨人戦のナイター中継。編成上は常にナイター中継が優先され、制作側も窮屈な思いを強いられている状態だった。加藤はそこに風穴を開けようとしたのだ。

そのひとつが、「クイズプロジェクト」のように広く社内に企画募集をすることだった。よい企画があればそれを採用し番組にする。今では当たり前に行われることだ。土屋は、加藤の“鉄砲玉”となって、その主旨を社内に説明しに回った。するとベテランプロデューサーたちに烈火の如く怒鳴られたという。

「番組企画を制作以外に募集するなんて何事だ!」

とんねるずに張り付け!

もうひとつ加藤が編成企画のメンバーに指示したのがタレント個人に張り付くというものだった。つまり冒頭に挙げた土屋への命令は、「とんねるずに張り付いて仲良くなって日テレに連れてこい」というミッションだったのだ。なぜなら、芸能プロダクションは、制作のプロデューサーたちの“縄張り”だったからだ。ひとたび編成の人間が事務所に立ち寄ろうものなら「お前、何しに来た」と一喝され排除されてしまう。だったら、直接タレント個人とつながるしかない。強力な制作から主導権を奪うためのやむを得ない戦略だった。また、当時の人気タレントは半ばフジテレビが“独占”していた。特にフジテレビが“育てた”と言われるような新世代の旗手である、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンらは、日本テレビに簡単に出演してくれるような状況ではなかった。

その結果、夕方出社して、早朝に帰宅するという土屋の過酷な毎日が始まった。もちろんタレントに張り付くためだ。この過酷さと、タレント本人と密接にかかわるという性質からか、編成企画の任期は2年というのが通例となった。

だが、張り付くといっても、何のツテもない。どうにかしてタレントと直接つながる方法はないか。土屋が思い巡らすと一人の人物にたどり着いた。テリー伊藤こと伊藤輝夫だ。『元気が出るテレビ』でバラエティ番組のディレクターとしてのノウハウを叩き込んでくれた“恩師”である。当時、伊藤はとんねるずとフジテレビで『ねるとん紅鯨団』を制作していた。その収録現場に通ったのだ。もちろん、他局の現場だ。普通に考えるとそこにライバル局の社員が入ってくるなどありえない。

「でもあの当時は、警備も緩かったし、いろんなわけのわかんない人が現場にいっぱいいたから紛れて入れたんですよ」

土屋は毎週のようにひたすら現場に通い、当初は不審がられたものの、やがて石橋貴明らと麻雀卓を囲むようにまでなった。

なぜ日本テレビだけが勝ち続けるのか?

全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方

戸部田誠(てれびのスキマ)
文藝春秋
2018-05-11

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てれびのスキマ(戸部田誠)

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。 しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。 「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、 なぜ帝王・フジ...もっと読む

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