お見合いは、最悪の結婚制度である
b.hatena.ne.jp私の両親は「初対面の次に会ったのが結婚式」という極めて純度が高い見合い結婚だったが、そんな2人は死ぬほど夫婦仲が悪く、いつも罵り合っていたという話はこれまで私のブログでしばしば書いてきたけれど、なぜそこまで仲が悪かったのかという理由の部分については、そういえばまだ書いていなかった。今日は、そのことについて書こうと思う。
最初に結論から言うと、「ぜんぶ昭和農村の男尊女卑と家父長制が悪い」です。
長野の山村で産まれ育った、私の父母
私の母は、1950年代初頭に生を受け、長野の山村で育った。「郊外」や「地方」という言葉すら生ぬるい、最寄りのコンビニへ行くのにも車で30分以上山を降りる必要がある、文字通りの「山村」。バスは、1日2本しか来ない*1。母の実家はそこで農業を営んでいた。
こう書くと、とてつもない貧困家庭のように思われる方もいるかも知れないが、母の家はその村で代々村長を務めるような村の権力者の家柄であり、東京近郊に不動産を持ち、某企業の役員を兼任する、「村の名士」だった。
父もまた同じ時代、近隣の似たような山村で、長男として産まれた。父の実家から母の実家までは、車で約1時間。特に特筆する点はない、普通の農家。家柄のかけ離れたこのふたつの家でなぜお見合いが成立したのか、私は甚だ疑問だったが、父の本家筋は村の中で比較的大きな家系だったので、見合いの話もこの本家の親戚が持ってきた話だったようだ。
両家の見合い結婚は、初顔合わせであっさり成立した。お互いが次に会ったのは、結婚式の式場だったという。
母はこのとき24歳。1970年代の当時としては、「行き遅れ」に片足を突っ込んでいる年齢。両親からのしつこい結婚の催促に辟易し、「もう誰でもいいか」という気分でOKしたそうだ。
対する父は、とにかく「長いものには巻かれる」タイプ。ひたすら自分の意思が弱く、親の言いなりで生きてきた人間だったので、この見合いに際しても、断る理由は何も無かった。例え相手が母でなかったとしても、父は絶対に、この縁談を断ることはしなかっただろう。
かくして2人は結ばれた。これが、全ての失敗の始まりだったのである。
父の家に居た『モンスター』
結婚後、母は長野の父の実家で「父/父両親/父の祖父母」の3世帯家族として暮らすことになる。1年後には私も産まれ、4世帯家族となった。父の祖父母の代(私から見た曾祖父母の代)は戦争を体験した世代で、当時おおよそ、70歳。
この父の祖母が、『モンスター』だった。私もこれまで40年の人生で色々な人間を見てきたが、あんな化物には、未だお目にかかったことがない。
とにかくいつもヒステリックで、少しでも気に入らない事があると周囲に当たり散らす、喚き散らす、相手を攻撃する。東京大空襲を経験しており、その際に肩に刺さった金属片の影響で片腕が不自由で、古傷が痛む時などは、更にこの傾向に拍車がかかるようだった。
祖母は、私が7歳になる頃まで生きていたので私も多少は覚えているが、とにかくいつも怒鳴っていて、理不尽に相手を責め立て狼狽させる、ひたすら攻撃的な人間だったという記憶しかない。共に暮す家族も、正直なところ厄介者として存在自体に辟易していたし、村では「Ta-nishiンとこの頭のおかしいババァ」として極めて悪い意味で有名で、陰で嗤い者にされていた。
空襲の負傷が、彼女をこんな人間に変えてしまったのか?元からそうした攻撃的な気質の持ち主だったのか?それは分からない。とにかく当時の祖母は、ひたすら家族の厄介者であり、邪魔者だった。
この祖母の「世話係」を押し付けられたのが、母である。
祖母は、年齢から来る衰えと肩の傷により、しばしば長期入院を余儀なくされていた。母はその入院のたび、祖母のベッドの脇に布団を敷いて泊まり込み、付きっきりで看病することを命じられた*2。家族ですら愛想を尽かしたこの厄介者の世話を、24時間体制で、ほんの数年前まで赤の他人だった母がする、のである。
当然、母は疲弊した。この時期母は、ストレスによる過食から肥満になり、風呂に入ればなぜだか涙が止まらなくなったという。
こうしたとき、夫である父が母を守り、サポートに回るべきではなかったのか?と私は思うのだが、父は当時、建設関係の仕事で東京に単身赴任をしており、母の元にはいなかった。それに、もし母の元に居たとしても、父は母を守らなかっただろう。父は、彼の両親の傀儡であり、親に逆らうことなど絶対にしない、考えることすらできない。そんな、意思を持たない愚鈍な人形なのだから。
疲れ果てた母は、実家に助けを求めたが、そこでの対応も冷淡なものだった。
「女は嫁に行ったら、その家の言いつけに素直に従って尽くすものだ。文句を言うな。お前が悪い」
これは、明治時代の話ではない。1980年の話である。ほんの40年前、こんなカビの生えたような家父長制が。男尊女卑が。「女は幼くして親に尽くし、嫁に行って夫に尽くし、母となったら子に尽くせ」そのものの物言いが。長野の山村では、当たり前のような顔をして生き延びていたのである!
祖母の世話以外にも、母はひたすら父の家で扱き使われた。農業の手伝い、掃除洗濯食事の世話、なんでもやらされた。「嫁」とは「イエ」に仕える「労働力」であり、母は、その為に外部から招集された奴隷に過ぎない。それが、1980年の長野の農村の常識だった。
完全に孤立した母は、それでもなんとか耐えていたが、数年後、ついに爆発した。もう耐えられない。私はこの家を出ていく。東京に住む夫の元へ行き、夫と子供と私だけで暮らす。そう宣言し、母は父の実家である長野の家を、幼い私を連れて出て行った。
母 vs 父一族
東京へ逃れ*3、事態は好転するかと思われたが、残念ながらそうはならなかった。母の行動は父の家で大問題となり、母は一族の問題児として扱われ、ひたすら批判と罵倒の対象となった。
批判者の中には当然、一族の傀儡である、父もいた。逃げた先の東京の家でも、母は父からひたすら批判された。お前は本当に情けない、駄目な嫁だ、と。父と母の間では、ケンカが絶えなかった。
『母 vs 父一族』。そんな家庭で、私は育った。「本当にあの嫁は薄情者の駄目な嫁だ」と、父一族が母を罵倒する声を右耳から聞き、「本当に頭が古い、親の言いなりの情けない夫だ」と、父を侮辱する母の言葉を左耳から聞きながら私は育った。
しばらくして母は、フェミニズム的な言説に共感するようになっていった様子だったが、これはあの長野の農村で味わった、男尊女卑と家父長制から受けた苦難の影響があったのだろう。
そんな声を聞き続けるうちに、私は決意した。私が築き上げる家庭は、絶対にこんな地獄のような場所にはしない。悪いのは、イマドキあんな古臭い家父長制と男尊女卑で、母をモノとしか見ていない長野の連中と、そんなクズ共の言いなりになっている、情けないマザコンの父だ。
私が結婚するとしても、絶対に父のようにはならない。とにかく妻を大切にする。たとえ世間や一族を敵に回しても、私だけは最後まで妻の味方でいる。そんな結婚をする。
俺が、妻を守るんだ。
正確には私は、母を守りたかったのだろう。父は地方に仕事に出ていてほとんど家に帰って来ず疎遠だったので、悪口を聞かされる頻度は父→母への物よりも、母→父への物の方が、圧倒的に多かった。そうして私は、母の言葉に強く影響され、母の言い分に偏って同情したのだろう。母のヒーローになりたいと考えたのだろう。
その想いはある種、呪いのようなものとして、いまでも私の中に息づいていると感じることもある。
母の家の後悔
母はその後、40歳の若さで癌を患い、6年後にこの世を去った。「母 vs 父一族」の構図は、結局最後まで崩れることは無かった。
母が他界した数年後、私は母の両親と3人だけで飲んでいた酒の席で、聞いてみたことがある。
「なぜ、あなた方は"あんな家"に、大切な娘を嫁に行かせてしまったのですか?」
あらゆる意味で、あらゆる方面に、あまりにも無礼すぎる質問だったが、すべてを察知したご両親は、絶対にイエの外に漏らすなと前置きした上で、こう応えてくださった*4。
「あんなキチガイみたいな人間が、あの家に居るとは知らなかった。あいつを嫁にやった後、村の友人に言われたことがある。"あんな家に嫁にやっちまったのか!あの家には、とんでもないキチガイが居るぞ。娘さん、苦労するだろうな…"と。それを聞いて、びっくりしたんだ。そんなヤツ、見合いの日には姿も見せなかった。きっと、親戚中で隠していやがったんだろう。卑怯な連中だ。知っていたら、絶対に嫁には行かせなかった」
「俺たちは、あいつの言い分をもっと聞いてやるべきだった。あいつをあの家に嫁に行かせたのは、失敗だった。それなのに俺たちは、(田舎の家父長制的な)常識に囚われて、あいつの味方をしてやれなかった。後悔しかない」
「あの家の連中のことは、もうどうでもいい。可能な限り縁を持ちたくないし、顔も見たくない。でも、Ta-nishi達が産まれて来てくれた。血が繋がっているおまえ達のことだけは、あの家のコトとは関係なく、大切にしたい」
私は、涙が止まらなかった。
絶対に出会ってはいけなかった2人
以上が、私が見聞きしてた事実である。私はお見合いは最悪の結婚制度だと考えているが、それは、このような「お見合い結婚の失敗例」を、眼前で目の当たりにしてきたからに他ならない。
相手がどんな人間なのかも分からない。家族にどんなキチガイが居るかも分からない。そんな相手と何も考えずに結婚することが、リスクでなくて、なんなのか?
もっとも、ここまで酷い、嫁をモノとしか考えていないような一族は、山村の農家ですら、イマドキまず存在しないだろう。離婚も一般化した現在、あまりにもハズレだったなら、最悪離婚すればいい。こうした事は現代ではそこまで大きなリスクではないのかも知れない。
そう考えると、これはお見合い制度の問題なのではなく、家父長制と男尊女卑の問題なのだろう。母はリベラルで、自立と自由を愛する個人主義者だった。そうした(当時としては)新しい時代の価値観の人間が、一昔前のシステムに取り込まれた時の軋轢の結果が、この物語なのかも知れない。
なんにしろ、母と父一族は、最後まで対立したままだった。父一族の母に対する罵倒は、今でもなお、続いている。
「父と母は、絶対に出会ってはいけない2人だった」
これだけは、私が絶対的な確信を持って言える、確かな真実である。