カプリスのかたちをしたアラベスク

このブログはフィクションです。詳しくはプロフィール参照。

【最近のできごと】

文学ムック「たべるのがおそい」の編集などを手がける西崎憲主宰の電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より
ぼくの初の単著となる短編集「コロニアルタイム」が発売されました。

また同レーベルより発売中のアンソロジー
「ヒドゥン・オーサーズ」

にも短編を寄稿しています。
この本は新潮社が発行している雑誌「波 2017年7月号」で
王様のブランチでおなじみの書評家・滝井朝世さんにも取り上げていただいています。


ぼくらがセックスできなければ結婚していただろうか?──こだま『夫のちんぽが入らない』書評

※このエントリーにはこだま『夫のちんぽが入らない』のネタバレを含みます。

 

昨日の夜、ゴールデンウィークに登山に出かけて遭難してしまった親子が発見されたというニュースをみた。県警のヘリコプターが見つけたそのとき、親子は覆いかぶさるようにして山の斜面でうつ伏せになった状態だった。午後2時35分、ふたりの死亡が確認された。
こうしたニュースを聞くのが非常につらくなったのは、ぼく自身が父親になってからのことだった。もっとも息子が生まれた瞬間にじぶんのなかに父性が芽生えるなんてことはなくて、生後3ヶ月は妻の実家で育てていて会うのは週末だけで、義母に教えられながら恐る恐る抱く我が子がほんとうに我が子であるという実感がともなわない。やがて神戸の家に妻と子がやってきて一緒に暮らすなかで、ふとした瞬間に「息子が死ぬ」という想像が突然生じるようになった。台所に立って包丁を持つと息子がその刃に切り刻まれ、洗濯物を干そうとベランダに出ると息子が落下していく。そんな想像のせいで、ぼくは2階より高い場所にいるときに息子を抱きかかえることができない。いまもだ。

「子どもが生まれると、残酷な作品を作れなくなる」

ということについて、このときによく考えた。ぼくの結論をいえば、それは子どもがもたらす幸福のイメージによりそうなるのではない。むしろ、子どもが生まれたことによって、以前にもまして残酷な想像はよりリアルに立ち上がる。ただ、その想像というのは、子どもが刃物で身を切らないように、子どもが高いところから転落しないように、子どもを危機から守るために生じるもので、きっと親の──すくなくともぼくの──残虐性とか暴力の欲望とかを反映したものではない。子どもを守るために、父性が穿たれたぼくの身体は残酷な想像をする。それを主題にした原稿用紙100枚程度の小説を書いたのはだいたい1年半ほど前のことだ。

女性が生物学的に母になるのとは違い、「父になる」ということは男に身体的な変化をなにももたらさない。ただ、息子と生活するようになってから息子中心に組み立てられる習慣により、ぼく自身はといえば「身体的な変化」みたいなものをわりとはっきりかんじている。よく肩がこるようになったとか、日が変わる時間までとても起きていられなくなったとか、そういう些細なことばかりなのだけれども、こうした変化によってぼくが興味を持って考える対象や、結論は確実に変わってきた。この変化を実感すると、以前はまったくといっていいほど関心を持てなかった現実に起こったニュースや政治的なものについて、少しずつ興味を示すようになった。そして忌み嫌っていた「私小説」とよばれる小説たちについての関心を持てるようになってきた。

 

目次

 

真実性と私小説

 

 

2014年に文学フリマで話題となり、昨年に書籍化され話題となったこだまによる小説『夫のちんぽが入らない』は作者により「私小説」と銘打たれている。そのとおり内容は作者が体験した実話を元にした、「性器の大きさの不一致から物理的にパートナーとだけ性交できない」という他者から理解を得られるのが難しいと思しき不条理を中心に据えた夫婦の物語だ。夫と性交ができず、職場の学校では学級崩壊が起き、精神的に追い詰められインターネットを通じて知り合った不特定多数の男と行為に及び、後に自己免疫疾患を患い、妊活に失敗し、さらには高校教諭である夫がパニック障害を発症するなど次から次に困難が訪れる。
このあらすじと作者を完全に切り離して「文芸作品」として読むならば、わかりやすい不幸のオンパレードに辟易し、そこに真実性を見出すのはむずかしいとさえ感じる。このテクストの真実性は、あまりも「実話」や「私小説」という触れ込みに頼りすぎているのではないかとかんじ、「つらい話をつらいものとして提示した」という類の文章のあまり良い読者でないぼくにとって本作を「文芸作品として優れたもの」として受け入れることはむずかしい。 

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インターネットと私小説

誰かと関わりたいわけではないと言いながらもメールアドレスは公開していた。誰もあてにしていないし、誰の話も聞きたくない、信用していない。でも聞いてほしい。メールでもいいので私の話を聞いてほしい。とても矛盾していた。

こだま『夫のちんぽが入らない』

ただ、この作品が作品としての一貫性を力強く支えていたのは、上に引用した一節だ。これは「私」がインターネットの日記でつらい心情を吐露し、不特定多数の男性と性的な関係を持っていた時期にでてくるものだが、特定の誰かではない誰かに向けてまるで海に便箋を流すように感情を吐き出す様は、変な言い方になるけれど「まさにインターネットのテクストそのもの」だ。特に、ゼロ年代のブログとか、ああいった雰囲気を強くかんじる。

インターネット、とりわけブログ的な自己表現と私小説について、ぼくは以前にはあちゅう『通りすがりのあなた』の書評ですこし言及した。 

www.waka-macha.com

はあちゅうの小説はフィクションとしての加工がなされたものだけれども、はあちゅう個人の体験をベースとした体験記的なカラーが強い短編がほとんどで、『夫のちんぽが入らない』ほどではないけれども「はあちゅう」というキャラクターによって小説そのものが支えられている印象がある。こうした作品と作品外部にいる作者の距離の近さという点で共通のものをかんじるけれども、圧倒的に異なっているのが読者意識だ。結論からいえば、『通りすがりのあなた』は「10年代的ブログ」なのに対し、『夫のちんぽが入らない』は「ゼロ年代的ブログ」である。無論、こうした意識を作者が持っているとか持っていないとか、そういうのはここでは関係ない。
ぼくも一応長くブログをやっている人間なので、ブログの文章は近年特に大きく変化したことを実感している。その変化は『通りすがりのあなた』の書評で書いたのだけれども「ブログが金になる」という価値観の誕生によるものだ。PVやアフィリエイトの収益がブログの価値を示す明確な指標となり、この数字を伸ばすためのマーケティングが近年のブログ界では主流となっている。SEOへの配慮や、書き手のキャラクター化を行うなどの手法が確立され、しかし読者獲得のための個性作りが無個性さを強調させている。インターネット的な文章は「意味をすばやく消費する」ことにとりわけ特化していて、はあちゅうの文章はそうした意味を「伝える」ということに特化している。何かを伝えるためにフィクションが援用されていて、物語そのもののために小説があるわけではないとぼくは読んだ。こうした私小説性が援用された小説は、「事実は小説よりも奇なり」という思想を助長しかねない。ぼく自身、小説として表現される世界と現実の世界はそもそも厳密な比較対象として挙げられる適切さがないと考えている。小説が想像力を欠いた読まれかたにさらされてしまう危険性があるような気がしてならい。だからなんとない嫌悪感がある。

『夫のちんぽが入らない』にもそのような危険性がある。しかし、本作のようなゼロ年代のインターネットの文章は、利益を出そうとか読者を増やそうとかそういう意識が希薄だ。「誰もあてにしていないし、誰の話も聞きたくない、信用していない。でも聞いてほしい」という意識は、意味とか伝えるとか、そういうものから遠い位置にあって、それは「表現」という行為にちかい。散文を言語表現にするための技巧などはほぼ使われていない本作が、「表現」にちかい文章になっているということについてぼくは懐かしい気分になった。じゃあ「表現」とは何か、といわれてもうまく答えられないのだけれども、得体のしれないエネルギーが推進力となっている文章は、野蛮だけれども読んでいてすがすがしい。ほんらいなら、このような文章は不特定多数のだれかの目に触れる位置にありながらもだれにも読まれない、というケースが多い。しかしそれが発見されたということじたい、奇跡的で希望的なことだとおもう。

不条理と幸福

私たちは性交で繋がったり、子を産み育てたり、この世の中の夫婦がふつうにできていることが叶わない。けれど、その「産む」という道を選択しなかったことによって、「産む」ことに対して長いあいだ向き合わされている。果たしてこれでいいのか、間違っていないだろうかと、行ったり来たりしながら常に考えさせられている。皮肉なものだと思う。

こだま『夫のちんぽが入らない』

 本作は「夫のちんぽが入らない」という事象を「不条理」だと読むことで、さまざまな構造が浮かびあがってくる。物理的に性交できないという身体によって、性交や結婚が通常(=多くのひとによって共有されている)持ちうる意味が宙吊りにされ、解体されている様子が書かれているのが上記の引用だ。この構造が明確になることによって、書かれているエピソードのすべてが無秩序に生じる悲劇ではなく、起こるべくして起こった宿命的なものごととしての一貫性を獲得する。そしてそれは「もし夫と性交できたのであれば、身に降りかかったすべての悲劇は起こらなかったかもしれない」というありえなかった可能性を想起させる。
ただ、読み進めるにつれてこの小説で「私」は悲劇を吐露したいというわけではないとわかる。「私」は夫との結婚生活で世間一般の夫婦が築くであろう幸福が失われていて、それを得ようとするほど不可能性だけしか手元に残らない。しかし、「私」は夫との生活に確かな幸福を感じていて、それは「夫のちんぽが入らない」という不条理を超えて勝ち取られたものだ。小説として、この物語は世間一般の夫婦からすれば明らかな不幸といえる不条理と、共有されないオリジナルな幸福で構成されているため、悲劇的な印象はやはり拭えない。ただ、この物語を悲劇と読んでしまうのはおそらくそう読むじぶんの未熟さでもあり、しかしだからといって幸福の物語と読むのも未熟だ。混ざり合うようでいて決して混ざり合わない不幸と幸福が混在していて、その感情を命名することはぼくらに許されていない。

ぼくは息子が生まれてから、息子が生まれなかったときのことをときどき考える。息子が生まれたことによってこれまで自由にできていたことのほとんどができなくなったり、現実的な生活の問題がいっそうに切実になり、小説を読んだり書いたりすることはもうできないんじゃないかともおもった。けっきょく、ぼくは息子がいなくなった世界というのは考えてみてもうまく想像できない。ぼやっとあるさみしさだけが想起され、息子がいない世界を即座に否定する。そしてかわりに妻と結婚しなかったら、という実質的におなじだけどまた違うシチュエーションについて考える。
26歳のとき、ぼくは大学院生で妻は会社員だった。連休を使って留学先まで遊びに来た彼女をピッツバーグ国際空港で見送るとき、結婚についての話になったことはいまでも鮮明に憶えている。たぶん一生忘れない。それまでぼくは彼女と結婚することが当たり前だとおもっていたけれども、もうわかりきっていたじぶんの安定しない人生と真剣に向き合ってはじめて、ぼくの人生にこのひとを付き合わせても良いものか、という悩みが生じた。彼女は結婚して、子どもが欲っしていた。3人欲しいといった。きっとぼくらのあいだの子どもは面倒くさいオタクにしかならないよ、という話はそれまでに幾度となくしていたのだけれども、もしぼくらがセックスできない恋人同士だったなら、そういう会話は絶対にありえなかった。その会話を現実にすることがしあわせだとおもっていたぼくたちの人生に息子がいないのだったなら、あの日の空港で別れてから、ぼくらはもう大学時代のとおい友人として、先輩とか後輩とかの結婚式でたまに顔を合わせる程度でしかなかったかもしれない。いま、ぼくは世界のどこにいたのかもわからない。ちがう街で妻が知らないだれかに抱かれていることだけわかった。