恋のこと、仕事のこと、家族のこと、友達のこと……オンナの人生って結局、 割り切れないことばかり。3.14159265……と永遠に割り切れない円周率(π)みたいな人生を生き抜く術を、エッセイストの小島慶子さんに教えていただきます。
第8回は、「エロス」について。大好評だった第7回のテーマ「恋愛」の続編です。小島さんが考えるエロスの本質とは?
一時避難所としての結婚
今回はアラサー女性のためのメディア「ウートピ」さんから性愛について書いて下さいというお題を頂いたので、早速「ウートピ」の仁村ヒトシさんと宮台真司さんの対談記事を読んでみました。とても面白かったです。
で、わかりました。なんで私がセックスに興味がなくなったのか、なんで欲情する対象が夫じゃなくて、運慶とか丸山応挙とか狩野元信とかインド洋になったのかってことが。
エロスはめまいだとお二人は言います。でもって不可逆的に自分が変わってしまうことでもあると。
20代の頃の私は猛烈に自己嫌悪が強くて、とても一人では生きていられなかったので、恋人が途切れたことがありませんでした。そばにいる人が必要だったんですね。で、承認されたいのと支配したいのと両方の気持ちが強いものだからすごく厄介な関わり方になって、大抵は愛想を尽かされるわけですが、なぜかその手の重たい女への耐性が高い男というのもいて、夫はその最たるものだったから結婚することにしました。
しかし結婚してみたら、歪んでいるのはむしろ夫の方かもしれないと気がつきました。彼は自身のあらゆる欠点や負の感情に、善良さとぬくもりを感じさせる素敵なワーディングで偽りのラベルを貼り付け、自らを騙す名人だったのです。当然私はそれに気づかず「この人といると世界がましなところに見えるわ」などとうっとりして同衾(どうきん)したわけですが、いわばカルト宗教に入信するようなもので、一時避難場所としては良かったものの、次第に実世界との乖離が生じました。
本物の「セクシー」は言葉から生まれる
現実世界を知らしめる最たるものといえば子どもで、私は彼らがまっさらな赤子の状態からだんだん世界を発見して、やがて複雑な一つの人格を形成していく様をつぶさに見ることによって、夫の人格の胡散臭さに気づくこととなりました。大自然の美しさに触れて、テーマパークのキラキラは作り物だと知ってしまったのです。
私を温かい世界に招き入れて“善きもの”に変えてくれたかのように見えた夫の存在は、背骨の上下が入れ替わる程の衝撃で私を不可逆的に変えてしまった「子どもの誕生」という大事件によって吹き飛びました。めまいと変化こそが性愛ならば、子どもを産んで育てること以上のエロスがあるでしょうか。だって自分の腹の中から人体が出てきたんですから。しかも自分とは違う性別の、何を考えてるかわからない他人が。
夫へのカウンセリングも試みました。なあなあ夫よ、いろいろきれいごとを言っているけど、あんた自分と向き合うのが怖いだけなんじゃないかい。良い子のボクちゃんの着ぐるみを脱いで、裸の胸に我が子を抱きなよ、と。
それから15年。残念ながら、夫は変わらないままです。若い頃に本を読むとか、いろいろものを考えるとか、語彙や表現を増やす機会があればよかったのかも知れません。でも彼の辞書には「なんかいい感じ」「なんかやな感じ」「いいこと」「悪いこと」ぐらいしか載っていないみたい。したがってせっかく自分が今までいろんな感情に偽りのラベリングをしてきたことに気づいても、ラベルをはがした後の事物を新たになんと名付けていいかがわからないのです。それで、黙っちゃう。それ以上何も変わらない。
言葉や、言葉の源となる「自分の内側や外側に何かが生じたことを感知する力」を持たないと、人は不可逆的に変わることはできないのではないかと思います。だから、彼はセクシーじゃないのです。
官能とは何か?
私は、人が変わるところを見たい。文字通り日々変化し続ける超新鮮な生命体である息子たちによってその悦びを知ってしまった身には、夫と生きる人生は砂漠のように味気ないものに感じられるようになりました。かくて私の性欲は封印され、前回書いたような脳みその交わりを求めてさすらう身となったのです。
で、絵や彫刻はなんで私にとってエロいのかというと、たぶん、見るという行為を通じて自分と世界との関係が劇的に変わるからです。美はとてつもなく饒舌な存在ですから、そこには濃密な対話があります。
オーストラリアでの生活もやはり官能的です。花と干し草と潮の香りを胸いっぱいに吸い込んで瑠璃色の波に浸れば、自分が肉を持った存在であることがありありと感じられ、呼吸は世界との交わりであることを実感します。波も雲も草花もいつも新しく一度きりで、いくら見ても飽きることがありません。傍にいる夫だってきっと毎日新しいはずなのに、私はもう、それを発見しようという気持ちになれないのです。
脳みそでするセックスの相性
こんなことを書くと、冷たい女だと思うかもしれませんね。自分でも、残念でなりません。なぜ、夫に期待することができなくなってしまったのか。いくら耳を澄まし、目を凝らして答えを待っても、彼から何かが湧き出してくることはありません。まだ喋れない赤ん坊の眼差しや、舌を持たない風や光が、こんなにも豊かに世界を語るというのに。
もしかしたらある瞬間から、私の耳目が彼に対して閉ざされてしまったのかもしれません。あるいは、私が彼に届く言葉を持っていないのでしょう。あるのはただ、諦めだけです。それでも日常は平穏に過ぎていきます。ささやかな喜びや安らぎも感じます。これはこれで幸せなんじゃないかと思う一方で、やはりどこかで待ち望んでいるのです。私をどうしようもなく変えてしまう他者との出会いを。すっかり冷たくなった器官に、再び血が通うようになる日が来るのを。
結婚生活において性愛を重視する人には、セックスの相性以上に、相手が言葉を持つ人かどうかを見極めることをお勧めします。肉体でするセックス以上に、脳みそでするセックスの相性が大事です。自分の話を黙って聞いてくれる男性は確かに優しい人に見えるけれど、話しかけるばかりではお腹は一杯になりません。
互いに味わい、飲み込み、深く混ざり合う対話があってこその快楽です。それは耳障りのいい言葉じゃないかもしれない。言語ですらないかもしれない。肉の交わりの最中に囁かれるものでもなく、愛について語る時の言葉でもありません。長い間一緒にいても、それに出会える瞬間はほんのわずかです。だから見逃さないようにしないと。
その人がどんな態度で他者との交わりに臨んでいるのかは、うわべの言動ではわからないもの。彼が苦しんでいるとき、怒っているとき、欲望が湧き上がり、制御し難い激情に見舞われたときや、深い後悔に襲われたとき、どのような態度でそこに身を投じるのか。最も光の当たらない場所で他者を捉える眼差しに、彼の正体が現れます。それはいつか官能の最果てで、他ならぬあなたに向けられる眼差しでもあるのです。