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領土をガッツリ奪った世界史のえげつない講和条約(後編)

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 弱肉強食の論理が当たり前だったかつての国際秩序

「えげつない講和条約」の後編です。

前編では、

  • グアダルーペ・イダルゴ条約
  • キュチュク・カイナルジ条約
  • トルコマンチャーイ条約
  • アイグン条約
  • サン・ステファノ条約
  • フェリーニヒング条約

をピックアップしました。 前編をご覧になってない方はこちらよりどうぞ。

それは後編いきます。


 7. ユトレヒト条約(敗北国・スペイン&フランス)1713年

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 王位よりも領土を取ったイギリスの勝利

スペイン・ハプスブルグ家の国王カルロス2世は身体障害者で子ができず、生前からスペイン王座を巡って争いが起きていましたが、カルロス2世死亡後に遺書によってフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがフェリペ5世として即位しました。

フランスとスペインが一体化することを恐れたヨーロッパ諸国は介入に乗り出し、神聖ローマ、イギリス、オーストリア、オランダなどがフランス領やスペイン領に侵攻しました。戦線は北イタリア、南ドイツ、オランダ、北アメリカなどヨーロッパと北アメリカで戦われ、戦線は反フランス諸国に有利に進んだものの、13年近く戦いは続き、戦いに疲れて議会も国民も講和を求めました。

1713年のユトレヒト条約で、反フランス諸国はフェリペ5世が「フランス王位を求めない」ことを理由にスペイン王位に就くことを認め、代わりに反フランス諸国はスペインとフランスから多くの領土を得ました。

イギリスは地中海のジブラルタルとミノルカ島、北アメリカのハドソン湾とアカディア、ニューファウンドランドを獲得しました。次いで結ばれたラシュタット条約では、オーストリアは南ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国、サルデーニャを獲得。

スペインとフランスは王位を獲得する代わりに膨大な領土を失うことになりました。

 

8. パリ条約(敗北国・フランス)1763年

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イギリスの覇権が決定づけられた世紀の条約

18世紀半ばの国際情勢は、イギリスが北アメリカとインドでフランスとインディアンを圧迫し、ヨーロッパでは新興国プロイセンがドイツの盟主をオーストリアから奪わんとしていました。

 イギリスと同盟を結んだプロイセンがザクセンに侵攻したことで戦争が始まり、フランス・オーストリア・神聖ローマ、スウェーデン・ロシアが同盟し戦いました。その他にもインディアンやムガル帝国もフランスの側に立って戦いに参加しています。

戦闘はヨーロッパのみならず、北アメリカ・インド・西アフリカ・南アメリカでも行われ、「世界初の世界大戦」と言われます。戦闘が行われた場所により呼称が異なり、ヨーロッパでは七年戦争、北アメリカではフレンチ・インディアン戦争、インドでは第三次カーナティック戦争、南アメリカではスペイン・ポルトガル戦争と呼ばれます。

イギリス・プロイセン同盟はヨーロッパと北アメリカでの戦いを優位に進め、イギリスは1763年にパリ条約を締結しました。

これによりイギリスは北アメリカにおいて、カナダ、ミシシッピ川以東アパラチア山脈、フロリダを獲得し、カリブ海ではドミニカ、グレナダ、セントビンセント・グレナディーン諸島、トバゴを獲得。

これにより長年イギリスとフランスの間で続いていた領土の争いは、イギリスに軍配が上がり、以降はイギリスによる国際秩序の構築に一気に流れが向かっていくことになります。

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 9. ロンドン条約(敗北国・エジプト)1840年

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ヨーロッパ列強の介入で防がれたムハンマド・アリーの野望

オスマン帝国のアルバニア人部隊の司令官としてエジプトに派遣されていた軍人ムハンマド・アリーは、実力でエジプト総督の地位に登りつめると、独自に軍備を拡張し、商業の振興を図るなどオスマン帝国から自立する動きを見せ始めました。

1831年、ムハンマド・アリーはギリシャ独立戦争に参戦した見返りとしてシリアの領有を要求していたもののそれを断られたことを不服とし、本国オスマン帝国に宣戦布告(第一次トルコ・エジプト戦争)。

 エジプト軍は8ヶ月でシリア全土を占領しアナトリア半島へ攻め入り首都イスタンブールに迫りました。ここでオスマン帝国がロシアに援助を申し出たため列強の介入を招き、エジプトはシリアとクレタ島の領有を認められました(キュタヒヤ休戦協定)。

オスマン帝国はこれを不服とし、軍備を整えて1835年にエジプトに侵攻(第二次エジプト・トルコ戦争)。しかしエジプト軍は各地でオスマン軍を圧倒し、逆に首都イスタンブールまで攻め込む勢いをみせたため、とうとうイギリスが介入。

オスマン帝国に対しヨーロッパ諸国との事前協議なしにエジプトと妥協しないよう申し入れた上で、親エジプト国のフランスを外交的に孤立させた上、1840年7月15日にイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの4カ国でロンドン条約を締結しました。

これはキュタヒヤ休戦協定でエジプトに割譲されたシリアをオスマン帝国に返還させるというもの。

エジプトとしては到底飲める条件ではありませんでしたが、味方であるフランスがイギリスとの摩擦を恐れて深入りをせず、それをみてイギリス・オーストリア・オスマン軍がベイルートに上陸しエジプト軍を攻撃。エジプト軍は各地で敗北を重ねてエジプトに撤退し、1841年6月に最終的にロンドン条約を受け入れました。

これによりエジプトの国力は大幅に下がり、精強さを誇った軍隊も大幅に削減されてしまいました。

 

10. トリアノン条約(敗北国・ハンガリー)1920年

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後にハンガリーを親ナチスにする遠因となった条約

1867年のアウスグライヒ(和協)にて、ハンガリーはオーストリアと同君連合を結び「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立。ハンガリーは現在のスロバキア、ルーマニア、ウクライナ、スロヴェニア、クロアチアの一部の領土を含む大国となりました。

しかし第一次世界大戦ではハンガリーは中央同盟側で参戦し敗北。戦後オーストリアとハンガリーの同君連合は解消され、しかも講和条約として結ばれたトリアノン条約で、ハンガリーはハンガリー平原を除く広大な領土を他国に割譲することになりました。

ユーゴスラヴィアには有数の農業生産力を誇るヴォイヴォディナ地方、ルーマニアには水力資源と鉱物資源を有するトランシルヴァニア地方を割譲。ハンガリー唯一の国際貿易港フィウメ(現リエカ)も失い、ハンガリーは戦前の地域の72%、人口の58.3%を失うことになりました。

これによりハンガリーでは旧領土回復を望む声が主要世論となっていき、第二次世界大戦ではナチス・ドイツ側に立ち、トリアノン条約で失った領土の回復を目指して周辺国に攻め入ることになります。

 

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11. ポーランド分割条約(敗北国・ポーランド)1772年

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ポーランドを亡国へ導いた決定的な条約 

中世に広大な版図を誇った東欧の大国ポーランドでは、17世紀後半に貴族同士の主導権争いが周辺諸国を巻き込んだ戦争に発展し、ロシアが強く内政に干渉するようになっていました。

1768年、一部のポーランド貴族の保守派が反ロシアの反乱を起こすと、ポーランド全土で攘夷運動が起こり、4年にも渡って抵抗運動が続きました(バール連盟闘争)。

結局反乱は鎮圧されるのですが、これによりポーランドの内政に強い影響を持ったロシアの覇権が揺らぎ、プロイセン・オーストリアに領土交渉をさせる結果に繋がりました。

当時、プロイセンはポーランド領ポンメルンと東プロイセンの割譲を要求し、オーストリアはプロイセン領シュレジェン地方の割譲を要求し対立が続いていましたが、ここにおいてシュレジェン地方の代わりにポーランドを割譲してオーストリアに与えるという政治的妥協がなされました。 

1773年9月にポーランド分割条約がロシア・プロイセン・オーストリアで取り交わされ、分割案はロシアの息のかかったポーランドの共和国議会によって即、可決。

プロイセンは要求通りポンメルンと東プロイセンを獲得し、オーストリアはシュレジェン地方の代わりにガリツィアとマウォポルスカを獲得、ちゃっかりロシアも参加し西ドヴィナ川東岸を獲得。 ポーランドは領土・人口の1/3を失いました。

その後もポーランド分割は続き、22年後の1795年の第三次分割でポーランドは消滅することになりました。

 

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12. トルデシリャス条約(敗北国・ポルトガル)

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結果的にスペインがポルトガルを出し抜いたが世紀の領土分割交渉

1492年、スペインの援助によって大西洋の航海を試みたコロンブスが「インド」に到達したことを受けて、当時の二大海洋先進国であるスペインとポルトガルは海外進出ブームに湧きました。

今後とも西方で発見される新領土は両国の争いがあることが懸念されるため、1493年に教皇アレクサンデル6世の仲介により、カーボベルデから西に100リーグ(約482キロ)の地点を通過する子午線を境界線にして、それより西で新たに見つかる土地をスペイン領、東で見つかる土地をポルトガル領とする「教皇子午線」を設定されました。

しかしポルトガル王ジョアン2世はスペイン出身の教皇アレクサンデル6世を信用しておらず、スペインに有利な設定であるとして反発し、スペイン王フェルディナンド2世と直接交渉して境界線を再設定させようとしました。

そうして両国による再交渉で、教皇子午線から250リーグ(約1207キロ)ほど西にずらした線(西経46度37分)の西がスペイン領、東がポルトガル領とするトルデシリャス条約が締結され教皇もこれを承認しました。

これにより、ポルトガルはブラジルを獲得しましたが、スペインが新大陸の大部分を獲得する大義名分を得たため、結果的にポルトガルはスペインに出し抜かれる形になってしまいました。

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まとめ

戦いによって領土がガラッと変わっていく様は、世界史好きにとっては醍醐味ではあります。

当時の人でも、領土を獲得する方はこれ以上ないほど楽しかったかもしれませんが、奪われた方はたまったもんじゃありません。というか、死にたいような気持ちだったかもしれません。

今後も、大規模な国家間戦争は減るでしょうが、争いは続くでしょうし、「えげつない条約」は後々様々な災いの種を巻くのは歴史が証明しているわけですし、今後は「これはえげつない」と言われるのは歴史の中だけにしてほしいものです。