おいしいそうなケーキ

「おいしそう」にしたつもりが「おいしいそう」だった

会社に黙って会社を休んだ

 

  会社に黙って会社を休んだ。今日の話。

 

 とにかく会社に行けないほどに追い詰められていた。会社に行こうとすると、眩暈がして足がすくんだ、吐き気がした。

 というわけではなく、僕は至って元気だった、と思う。

 

 つい昨日、22時半に退勤して、家についたのが0時過ぎだったのだが、とにかく疲れていた。特別に疲れていた。それなのに、家の電気が止まっていた。

 電気を払う料金もないほど切迫しているわけもなく、単純に払い込みを忘れていただけだった。早く電気料金を口座引き落としにすればいいのだろうに、その一歩を踏み出すのが億劫で、僕はいつまでもコンビニ支払いの手法を取っている。

 

 実は部屋の扉を開ける前からそんな予感がしていた。特別に疲れ切った頭の中で、多分電気が止まるとしたら今日だろうな、と。悪いことや疲れることは基本的に重なって起きる。

 そしたら扉を開けて、本当に電気が止まっていて、何もかもどうでもよくなってしまった。

 

 天気占い。靴を放り投げて、裏返ったら雨が降る、みたいに、電気が止まったら次の日は黙って会社を休む、と何かのルールで決まっているような、そんな感覚だった。何もせずに、音もない部屋の中で寝て、翌日(つまり今日)の11時に目を覚ました。

 

 そうして僕は黙って会社を休んだ。

 黙ってと書いたが、昼過ぎにFAXだけ流した。「こんな失礼な手段で申し訳ありません。今日は休みます。明日は出社します」とか書いて。

 

 

 繰り返すが、僕は決して追い詰められていなかった。

「新入社員 仕事 辞める」でGoogle検索してヒットするブログの人々は、皆「出社しようとすると足が動かなかった」とか「何でもないのに泣いてしまう」とか書いているので、追い詰められた人間にはそういうことが起こると思うのだが、僕の身には全く起こらなかった。

 

 だけど、正常な判断(正常な判断とは? 何をもって正常なのか分からない。今の僕は果たして異常なのだろうか)ができていないくらいには、ある程度追い詰められていたのかもしれない。少なくとも一か月前の僕は、電気が止まったくらいで会社を休もうとは思わなかっただろうから。

 

 恐らく打算的な意味合いもあったと思う。(恐らく~思うという形なのは、なんで会社を休んでいるのか、自分でもよく分からないから。とにかく分からないことが最近多い)

 と、言うのも、あまりにも職場の人が良すぎるのだ。

 僕はかねてより仕事を辞めたくて仕方がないのに、人が良すぎて「辞めたい」を言い出せない。ただでさえ忙しすぎる部署なので、僕が辞めたことで人徳のある先輩方に、より一層の多忙を強いるのが、考えただけで憂鬱になってしまう。「僕のいなくなった日々」考えて、帰りの電車で泣いてしまった日もある程に。致命的に、辞めるが言い出せない。

 それに重ねて、現在職場が転機にあり、ずっと部署を支えていた重要な一人がもうすぐ、別の部署に異動になる、という難しい時期なのだ。既に引き継ぎなども動き出しており、日々が、職場の未来が、重荷になっている。

 

 打算的な意味合いというのは、この「辞める」を言い出すきっかけを作るという意味。もしも黙って休んだ社員がいたら、何かが起きていると察知してもらえるに違いない。向こうに察しと心の準備があれば、それから「辞める」を言いやすい。

 

 なんて愚かで幼稚な手段だろうか。愚かで幼稚な人間だから、そんなことしかできない。辞めると言うのは一瞬のことなのに、それを躊躇して、本来いらないはずの事態を引き起こしている。まるでいつまでも口座引き落としに変えない、電気料金のように。

 

 余計な心配を職場の人徳ある人々にかけて、先輩が今頃どんな気持ちで仕事をしているのだろう、などと考えて、今は本当に憂鬱になっている。あまりにも罪悪感が酷い。

 罪悪感、というよりもこれは罪悪だと思う。

 インスタントの味噌汁とか、栄養のありそうな食べ物が、たくさん詰まったレジ袋が、家のドアにぶら下がっているのを見て、そう思う。誰が掛けたのかも分からないが、間違いなく普段なら仕事をしている時間帯に、だ。

 

 

 ところで、僕は今日外出をしていた。

 十一時頃起床して、電気料金を払い込み、新宿御苑に行ってきた。(会社を休んで、アニメの真似事をするくらいには明らかに元気なのだ)

 流石に缶ビールとチョコレートを買っていくような真似はしないし、例のベンチに腰掛けることもしなかった。でも、良かった。

 ただ木と草と池を見て、風で舞い散る粒子が何かの種だと観察したり、それが楽しかった。御苑を歩いている瞬間は、暗い感情が一つも存在しなかった。

 そのあとで書店に寄って、誰かの詩集と『氷菓』を買った。

 携帯は一日中「機内モード」のままだけど、いい一日(いい一日 とは)だったと思う。

 

 

 大きく脱線するが、暗い感情について、書いておきたいことが一つある。

 

 先日の日曜日なのだが、僕は生まれて初めて、死にたいと本気(?)で思ってしまった。

 

 僕は本来、脳が「こういう理由があるから死ぬことにメリットがある」と理性的に考えて、心の方が「まあ死にたさもあるけどさ、怖いから死にたくないよね」と言う、脳と心のバランスでやっている。けれどその時はとにかく、凄い衝動で、心の方が「今、死にたい!」と叫んでいて、逆に脳が「いや、流石に死ぬとかまずいでしょ…」とドン引きしている状態だった。

 分からないけど、脳と心が一緒に「死のう」を想った日が、人の自殺する日なんだと思う。

 

 

 死にたくなったきっかけは思いつかないけど、「社会人一年目感想」(今は消してある)を先週書いてみて、改めて色々実感されたことがあったのだろう。あるいは、実家に帰省して、僕が仕事を続ける前提の話しかされないのが嫌だった。もしくは、疲れていて正常な判断ができなかった(分からないことは全部、疲れていて正常な判断ができなかったで辻褄を合わせていこうと思います)。

 

 僕は何よりも、初めて心が「死にたい」と思ってしまったことがショックで、それを今でも引きずっている。あれ以来死にたくないけど、次はいつ「死にたい」が発生してしまうのかと思うと、怖くて胸に穴が開いた気持ちになる。変に胸が軽いような。

 

 これはいよいよマズいのかも、と思い今週中に辞表を提出しようと思っていたのだが、何故か働き始めると死にたくなくなる。

 ひょっとしたら、「死にたい」は錯覚だったのかもしれない。もしくは、考える時間があるから辛くなるのであって、考える暇がないほどに働ければ、永遠に働けるということなのかもしれない。脳が麻痺しているだけで、ひょっとするとあまり元気ではなかったのかもしれない。よく分からない。自分が辛いのかどうかという根本からして、よく分からない。とにかく分からなことが最近多すぎる。

 

 そんなことがあって(?)(文節が適当かもしれない)、Twitterを見たくない。暗いツイートしかできないし、言わなくていいコンプレックスとか書いてしまいそうになる。

 まあ結局こうして暗いブログを書いているけど、永遠に暗いツイートが並ぶより、ブログ一つにシュッと収まった方がマシじゃないですか。

 

 ツイッターは感情を伝えるのに適さないツールだと思う。

 僕がいくら死にたいを感じたって、Twitterに「死にたい」と書いたら「死にたさ加減」が伝わらない。16時にお昼寝して、20時に目が覚めた時の絶望感も、ツイートしたら伝わらない。「20時に起きたんだ」で終わり。

 挙句、暗いツイートが並ぶと、ツイートの向こうにある現実を考えるに足らない人々が、「辛ぶり屋さん」とか烙印を押してくる。押されたことないですが、押される気がしている。

 まあ感情を伝える意味なんてそもそもないのですが、自分の感情を誰かに理解してほしい、という気持ちが人にはあると思う。僕にはある。

 はてなブログだと、どんな感情なのか伝えやすい、気がする。きっちりと「伝えるぞ!」という場が用意されているので、読むほうも、ちょっと身構えてくれるので。

 

 

 僕が今日一日かけて、幼稚な手段で設立したのは、そんな感じの聞き手にちょっと身構えてもらえる場面。「伝えるぞ!」の場面。はてなブログ

 かけまくった心配と迷惑では全く釣り合わない矮小な一場面だけど、ようやく決断の場を作れて少し嬉しい。

 

 明日は誰よりも早く出社して、まず謝りたい。それとお礼を言いたい。それから辞職願を提出したい。

 

 最低限、退職の一か月前に連絡してね、と決まりに書いてあるので、多分五月の終わりには退職できるのかなと思う。

 

 

 提出しないと今日が無駄になるので、がんばれ!

 

みんなも色々がんばれ! みんなって誰だか分からないですが。

 

 

書きたいことを書いていたら滅茶苦茶になっちゃったよ。正気に戻ったら消そう。