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『戦う姫、働く少女』その1

河野真太郎著 『戦う姫、働く少女』






『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の冒頭、スター・デストロイヤーの残骸で部品集めをしているレイの姿を見て、『風の谷のナウシカ』の「冒頭を想起したのは私だけではないはずだ」。「腐海という巨大な菌糸類で探検するナウシカ」とレイのマスク姿、「そしてナウシカのライフル銃とレイの棍棒」、図版にあるように類似は明らかであり、J・J・エイブラムスの宮崎駿をリスペクトしているという発言からしても、これは意識的なものであろう。

そして「二人の類似性はこの見た目にとどまらない。二人とも、主人公級の脇役男性キャラクターとの対照で、その戦闘力が強調される」。
「重要なのは、それではこの類似性はいかなる歴史性から、いかなる社会の変化から生じてきたのか、という問題である」。

スター・ウォーズ・サーガだけをとっても、社会の変化は強く反映されている。旧三部作のレイア姫は「おとなしく騎士に救出されるがままになる、か弱いお姫様ではない」。「男たちにダメ出しをし」、自ら先頭に立って囚われの場からの「退路を切り開く」。しかし同時に、独房で眠っているレイアは「女性的な曲線を強調するようなS字形の姿勢で横たわって」おり、ルークは「思わず見とれる」。「つまり、レイア姫は先ほど述べたような「男まさり」を発揮する前に、まずは女性として性別化されているのだ」。

『帝国の逆襲』において、奴隷にされたレイアは「露出度が非常に高い」衣装を着せられているが、これはレイアが着せられているという前に、言うまでもなくレイアを演じるキャリー・フィッシャーが着せられているということである。レイアはフェミニストであるフィッシャーを映しだすキャラクターであると同時に、その主張がいかに受け入れられていなかったのかを表すものでもある。

フィッシャーはレイ役のデイジー・リドリーとの対談で有名な言葉を残している。「あなたは衣装については闘いなさい。わたしのような奴隷になってはいけない。[……]あの奴隷の衣装と闘いつづけなさい」。
「奴隷」にされていたのはレイアばかりでなく、フィッシャー自身でもあった。

この対談に明らかなように、フィッシャーとリドリーとの間で「フェミニストとしての母娘関係とでも言えるものが結ばれている」。同時に「フィッシャー/レイア姫とリドリー/レイとのあいだには、フェミニストとしての世代間の差違が確実に存在する」。

レイアは前述のような「みずからを女性として物象化しようとする力とつねに闘って」おり、「彼女の時に過剰とも思える強気さは、むしろそこから生じているのではないかとさえ考えられる」。これに対しレイの「力の抜け方」は際立つ。レイは「彼女を女性として対象化/物象化しようとする力からは自由であるように見える」。「全体的な印象として、レイは非常に中性的に描かれており、母の世代のフェミニストたちの苦闘などどこ吹く風という風情であると言ってよさそうだ。その姿は、双子であるが故にルークと同様のフォースを持っているはずなのに、ジェダイになって活躍することはなかったレイア姫の夢を実現した姿なのだろうか」。

フィッシャー/レイアは「第二波フェミニズム」に属する。これに対しレイは「ポストフェミニズム的」である。そして本書で詳述されるように、ポストフェミニズムは「新自由主義」によって生まれ出たものでもある。『風の谷のナウシカ』が実は時代に先駆けて冷戦以後の「新自由主義」的世界を内に秘めているといえば驚く人もいるかもしれない。しかし、レイに象徴される闘う女性の姿はすでに1980年代に「提示されていた新たなヒロイン像」と「ひと脈通じているらしい」ことを思えば、突飛な発想とは思えなくなってくるだろう。

「本書の目的は、これらの、ほぼ支配的となったと言っていい、闘う女性像のあいだに一体何が起こったのか、という疑問を解きほぐすことである」。


「はじめに」で著者はこうことわっている。「本書は基本的にポピュラー・カルチャーにおける女性の表象を論じる」ものであるが、「ポピュラー・カルチャー論としては構想されていない」。ポピュラー・カルチャーを「範囲の定まった対象とみなしてそれを教科書的・網羅的に論じること」が目的なのではなく、「むしろここ三十~四十年間に起こったわたしたちの社会と労働と文化の変遷を色濃くし表現している文化的な制作物を、ある意味では分け隔てなく、ある意味では恣意的にあつかっていく」。

このようなアプローチの宿命として、ところによって少々強引かなと思える読み込みもなきにしもあらずであるが、またこういったアプローチによって「一見関係ないと思われるような作品のあいだに意外な結びつきが見出される」という、著者が読者と共有したいという、「知的興奮」を生み出すことにも成功しているだろう。


本書の縦軸となるのが「新自由主義」、「ポストフェミニズム」、そして「承認と再分配のジレンマ」である。

「わたしたちの時代は」、濫用される「革命」という言葉で溢れかえっている。「新自由主義は革命であった」。サッチャー、レーガンなどによる福祉国家への攻撃という形で現実政治・社会を覆い尽くした新自由主義は、「全体主義の暗い記憶をネガとして描き」、「市場の自由とその中での競争」を「ポジの基本原理」とする。国有企業は次々とprivatization(民営化/私有化)されていく。「このような政治経済から出てくる個人の倫理とは「競争」の倫理である」。

労働組合などは「個人の競争を阻害するもの」とされ、「個人を市場の荒波から守る中間的なものも取り去らなければならない」とされる。サッチャーの悪名高き「社会などというものは存在しません」という言葉は、まさにこの価値観を極限まで押し進めたものだ。

サッチャー/レーガン路線を改めることが期待されたブレア/クリントン政権であったが、ふたを開ければむしろ新自由主義の忠実な後継者であったことが明らかとなった。そして「現代において貧困が問題にされる場合、それは階級[クラス]ではなく「アンダークラス」の問題として論じられる」。

ワークフェア、あるいはウェルフェア・トゥ・ワークを、ただ福祉を受給するのではなく働いて賃金を得ることによって尊厳が得られるようにできる社会にすべきだと解釈すれば、それは悪いものではないように聞こえるかもしれない。しかしその実態としては、「貧困問題は階級問題ではなく、道徳の問題」とされたのであった。「貧しい人間は社会制度と階級のせいではなく、個人的な道徳・倫理(の堕落)のせいで貧しいのである。したがって、その解決は個人を道徳的に矯正することを通じて行われる」。
「現代のワークフェアは、再分配と承認を脱構築し、貧困と労働をあくまで個人のアイデンティティの問題に結びつける」。

貧困は社会の問題ではなく堕落した人間による自己責任であるとされ、倫理的な矯正を拒み、強制された労働を受け入れない者は懲罰の対象とされるようになった。
ジェイミー・ペックはワークフェアの本質をこう評する。「労働を強制し、その一方で福祉を残滓化することを目的として、福祉受給者にさまざまなプログラムや義務的な要件を押し付ける」。
その結果何が起こったのかといえば、「ワークフェア政策は、安定的な就労を提供するどころか、「臨時雇い化され、リスクから守られておらず、不安定で脱社会化された労働人口」を生み出」すことになった。


本書から脱線すると、「デフレ脱却」を掲げるはずの安倍政権が、合理的に考えるとそれに逆行する政策である生活保護受給者をはじめとする貧困層への攻撃を繰り返している理由は明らかだろう。一部にある「安倍政権の経済政策はむしろ左派的である」という主張は、ブレア-クリントン政権を「左派」だとした場合には当てはまるのかもしれない。安倍とその周辺がサッチャーの模倣をしていることは、そのスローガン(「この道しかない」をはじめサッチャー政権そのままのものも含まれている)からも明らかだが、さらにはポストサッチャー時代をも取り入れている。そして「臨時雇い化され、リスクから守られておらず、不安定で脱社会化された労働人口」が増加することは、労働者の権利を抑圧して低賃金化を促し、雇用の調整弁として派遣社員など有期雇用の増加を狙う企業経営者にとっては大変望ましいのである。


閑話休題。
宮崎駿の『魔女の宅急便』は「やりがい搾取とアイデンティティの労働をみごとに示した作品」として分析できる。
キキは親元を離れ修行に向かう際に母親から「大事なのは心」というアドバイスに加え、「笑顔を忘れずにね」という忠告を受ける。この忠告は原作にはなく、映画によって加えられたものだ。これは「忠告というよりは予言、またはキキを縛りつける呪いの言葉」となる。キキは「能力を磨いたり、見知らぬ町で無事に暮らしたり、職業を得てお金を稼いだりというよりもなによりも、「笑顔でいること」が成功の条件として課されるのである。笑顔が成功の秘訣という意味ではない。笑顔でいること自体が成功なのである」。

そしてキキは「健気」な印象を与える「営業スマイル」をうかべる。「この瞬間に、キキの笑顔は文字通りに感情管理から感情労働へと変換されている」。

キキはパン屋のおソノに出会って間もなく「あなたが気に入った」と言われる。そしてキキの仕事の成否は「宅急便の運び人としてのスキルよりも、いかなる人的コネクションをつくるかにかかっている」。「もっとも成功するのが、ニシンのパイの宅配を依頼する裕福な老女とのコネクションである」。

おソノや裕福な老女に気に入られるというのは、始終仏頂面を浮かべていたのでは、まずあり得ないであろう。キキは飛ぶ能力を失うと、猫のジジに向かって「素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」と言う。この「素直で明るい」という言葉は、「外国語への翻訳がかなり難しい概念」である。英語のhonestにはobedienceというニュアンスは含まれないが、日本語で「素直であること」は「従属的であること」と「魔法のように結合された日本独特のジェンダー概念」であり、ここでキキの労働が「ジェンダー化された感情労働であること」が物語られている。「キキの魔力、宅急便をするために必要な、飛ぶという能力と、「素直で明るい」ことは一体なのであり、能力の喪失とはすなわち感情管理、アイデンティティ管理の失敗のことなのだ」。

映画『魔女の宅急便』は、『僕だけがいない街』などと同様に「ひとりぼっちの人生は失敗である」という「コミュニケーション能力を強調」する「ポストフォーディズム」的な面を持ち、また常に笑顔でいることが求められるのは、働いて賃金を得ることによって尊厳を得ることを強調し(この作品においてキキの始める宅急便の仕事は、「クリエイティヴな自己実現をともなう職業として描かれる」)、社会の問題を個人の倫理にすり替える新自由主義ともリンクする。

宅急便を介護職に入れ換えて考えてみるとよりはっきりとするかもしれない。介護士の不足は明らかに劣悪な労働環境と低賃金が原因であるが、行政側は介護はやりがいのある仕事であるというイメージ戦略によって介護士不足に対処しようとする。行政が手掛ける啓発ポスターに、疲弊しきって暗く沈む介護士が登場して待遇の改善が訴えられることはまずないだろう。そこにいるのはフェイスブックで「いいね!」が押されるような、キラキラと輝かんばかりの笑顔を浮かべた、「素直で明るい」と評されるであろう人物だ。そしてこのような「素直で明るい」人物は、労働組合を結成したり、行政や政治に政策の歪みを改善するよう激しく迫ることのない、「従順」な人物でもあろう。


2014年に公開された『魔女の宅急便』の実写版は、「女性の活用、つまり男女共同参画社会のプロジェクト」とタイアップした。そればかりか、「余談」として付け加えられているように、「あのワタミともタイアップ」しているのである。

「働く女の子をフィーチャーした作品」である『魔女の宅急便』の原作が出版されたのは1985年、「つまり男女雇用機会均等法[……]が制定(翌年に施行)された年」であった。
均等法が「ポストフェミニズム状況のはじまりを印象付ける法律」であるというのはどういうことだろうか。

第一波フェミニズムは「参政権や財産権といった法的な面での女性の権利を獲得しようとする運動」であり、第二波フェミニズムにおいては「参政権といった法制度では覆いきれない女性の権利」が問題とされた。また第二波フェミニズムは「欧米の福祉国家下で生じた」というのも重要なポイントである。「福祉国家下で典型的な家族形態とは男性が働き、女性が主婦となる核家族であった。福祉国家はそのような性差別を制度化したものであり、第二波フェミニズムはそれに対する異議申し立てでもあった」。

三浦玲一はポストフェミニズムの特徴をこうまとめている。「それは、先鋭的にまた政治的に、社会制度の改革を求めた、集団的な社会・政治運動としての第二波フェミニズム、もしくはウーマン・リブの運動を批判・軽蔑しながら、社会的な連帯による政治活動という枠組みを捨て、個人が個別に市場化された文化に参入することで「女としての私」の目標は達成できると主張する」。

著者はこれを補足して、ポストフェミニズムとは第二波フェミニズムが訴えた教育の権利や働く権利の実現を経てのものであるとする。「もちろん、これらが本当の意味で実現されたとは(とりわけ日本では)いえないものの、そういった権利が実現されたことにされた状況、それがポストフェミニズムだと、とりあえずは定義できるだろう」。
そしてポストフェミニズムはまた、「八〇年代以降の新自由主義の成果でもあった」。
「第二波フェミニズムの政治目標から「集団的な社会変革」を取り除き、「個人の立身出世」を代入すれば、ポストフェミニズム状況ができあがるということだ」。

本書でたびたび言及されるのが「フェイスブック社の最高執行責任者」であり、「ディズニー社の社外取締役でもある」、シェリル・サンドバーグだ。サンドバーグがベストセラーになった著書『リーン・イン』で強調するのは「内なる革命」である。「つまり、女性をめぐる外側の制度の変革ではなく、内面、アイデンティティの革命だ」。
「内なる革命」を唱えるサンンドバーグに代表されるポストフェミニズムと、「革命」を連呼する新自由主義とのつながりは、言葉の面からも明らかだ。

サンドバーグを批判して『リーン・アウト』を書いたドーン・フォスターは、「サンドバーグが代表するような現代のフェミニズムを「企業[コーポレート]フェミニズム」と喝破する。それは、「国家の支給する有給育児休暇、より強力な福祉セーフティネットといった女性の集団的権利を求めたり、さらには女性が労働組合に加入することを推奨したり」はしない」。
「企業フェミニズムは女性の解放を集団的な政治行動によってではなく、個人の努力によって達成することを目指す」。

フォスターはこれを「トリクルダウン・フェミニズム」と批判する。一握りの富裕な女性が登場したところで、女性全体に富がしたたり落ちることはない。それどころか、「不況の影響をもっとも強く受けるのは女性」であり、「国会議員やCEOになる女性がひとにぎり増えたところで、その三倍の女性が二〇年前と比べて低賃金の職業から逃れられなくなっている」。

そしてこのような女性間の格差を肯定する「企業フェミニズム」は「資本主義にとって都合の良い」物語なのである。均等法以降の日本のみならず、世界的に女性の賃金は低いままである。にもかかわらず男女平等が実現したかのように振る舞うことによって、企業は女性という低賃金労働者を存分に「活用」できるのである(反動的父権主義が明らかな安倍政権がなぜ「女性活躍」を唱えるのかはこれでわかるだろう。当初は「活用」として批判を浴びたために「活躍」へと言い換えた)。

ガラスの天井を打ち破るなら、それは「同一賃金同一労働と同時に実現されねばならない」し、「労働の女性化、つまり労働力の流動化やダンピング(そしてそれが引き起こす女性内部での分断)への抵抗とともに実現されねばならない」はずだ。にもかかわらず、サンドバーグのような例外的な存在によって、「新自由主義的な競争の前提は保存したままに、ごく一部の女性が蜃気楼のごときグローバル・エリートとして、略奪による蓄積の隠蔽をしている」。

『セックス・アンド・ザ・シティー』と『ブリジット・ジョーンズの日記』を対比すると、前者が女性として「勝ち組」で後者が「負け組」を表しているかのように見える。しかし、ブリジット・ジョーンズは出版社からテレビ局へとやすやすと職を移れるように(それどころか労働そのものがあたかも存在していないかのようだ)、貧困とは全く無縁である。「負け組」女性の生態や恋愛劇を自虐的に描いているかのようであるが、「ブリジットは本当の負け組ではないことにも気づかなければならない」。


といったあたりで長くなったのでその2に続く。



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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