pixiv will revise its privacy policy on May 16, 2018. The contents become clearer and correspond to the new European privacy protection law.

Details

It's just a few simple steps!

Register for a FREE pixiv account!

Enhance your pixiv experience!

Welcome to pixiv

"薔薇のように 英国パブリックスクール物語⑤", is tagged with「パブリックスクール」「オリジナル」and others.

※主人公が人種差別に巻き込まれていきますので、苦手な方はご注意を。(あらすじ)創...

美雨

薔薇のように 英国パブリックスクール物語⑤

美雨

7/30/2017 11:29
※主人公が人種差別に巻き込まれていきますので、苦手な方はご注意を。

(あらすじ)創立500年を超える歴史と、誉れある伝統で英国中にその名をはせる、名門パブリックスクール、ウィンザー・カレッジ。ライディングス寮の監督生に選ばれたイギリス王室支流の王子、エドワードは、日本からの留学生、有栖川幸と同室になり、その生活をサポートするよう命じられる。自由奔放で予期しない行動に出る幸に振り回され、辟易するエディ。しかし、幸を知れば知るほど、その思いはべつの感情に変わりつつあった。

なろう」からの転載。注意事項は①novel/8031168に準じます。
 エディは、カギを取り出して柵を開けると、身をかがめて独房のなかへ入った。
「おまえはここを出ろ」
黒ガラスのような目を、極限まで見開いて自分を見上げたユキへそう告げると、エディは、ユキの隣へ跪き、ランプを置いた。
「え……なんで?」
すこし身を引きながらユキが問い返してくる。どう対応していいのかわからないとその顔に書いてあり、エディはわずかに息をついた。
「チャールズ・ポプキンスが自白した。脱走しようとしていたのは自分だと」
告げたとたんユキは慌てたように腰を浮かせ、エディの腕をつかんできた。
「それはうそだよ!ぼくが日本へ帰りたくて脱走したんだ!あの子は巻き込まれただけでっ」
「もういい。おまえ、うそをつくときよけいに目をさまよわせているぞ。向かないことはするもんじゃないな」
冷たい石の床へ座り込みながら言うと、ユキは情けなさそうに黒眉を下げ、大きなため息をついた。
「それ、ヴィジィにも言われた……エディにも、その……ぼくのうそバレてたの?」
ヴィジィの名を出されたのが癪だったが、しおしおと項垂れるユキがなんとなくかわいそうになり、エディは指を伸ばしてユキの頭をつついた。
「つむじ」
「いたっ!もお、なにすんだよ!」
頬を膨らませながらユキが頭を押える。唇を突き出した姿が可愛らしくて、エディは口元をほころばせた。
「目をきょろきょろさせて、困ったように眉が下がっている。はっきり言って挙動不審者だったぞ」
「えぇ~、やっぱりそうなのぉ?」
情けなさそうな声を出すユキへ両手を伸ばし、エディはユキが立てるようその肩をとって促した。
「立て。おまえは無罪放免だ。ここから出ろ。道は分かるだろう?一階の食堂へ行ってコックに声をかければ、おまえの夕食を出してもらえる」
鍵が外れた鉄格子の柵へ目を向けると、ユキは、大きな黒目をさらに大きくさせてエディを見つめてきた。
「でも……エディは?」
「おれはここにいる」
「えっ、どうして?」
「おれは、自分への罰のために一晩ここにいる」
ユキはびっくりしたように長いまつ毛をあげた。
「……どういうことなの?」
エディは、あぐらをかいた脚の上に両肘をつき、組んだ指へ額を押し付けた。大きなため息をつくと、ユキが困ったように身じろぎするのが分かった。
「おれは、おれの一時の感情のために自分を見失った。監督生プリーフェクトにあるまじき失態だ」
「何言ってるの、エディ。意味が分からないよ」
エディは顔をあげ、困惑しているユキを斜めに見上げた。エディの視線を受け、ユキは焦ったように目を開いたが、エディに視線を合わせていられないのか、おずおずと目を伏せた。
おなじ年なのに、エディよりも小柄で頼りなく、子どものように見える東洋の皇子。
だが、おれなんかより何倍もユキは大人だ。子どものようなのは、このおれだ。
「おれはおまえが下級生(ジュニア)をかばっているために、うそをついていると気づいていた。冷静に判断していれば、上手に事を納められるはずだった。なのにおれは、おまえがおれにうそをついたことにカッとなってしまったんだ。おまえに信頼されていないと勝手に怒り、独房行きを命じてしまった。これは感情を先走りさせてしまったおれの失態だ」
自分のなかの未熟な部分をさらけ出すのは何より勇気がいったが、エディはきっぱりとそう告げた。自分から逃げることだけは、イギリス王室の王子としての自尊心が許さない。
これは自分で決めたことだった。
「おまえには悪いことをしたと思っている。早くここを出て部屋へ……」
「ちがうよ!」
いきなりユキは、必死な目をしてエディの腕に追いすがってきた。
ユキの細い身体が目の前に迫り、ぎゅっと握りしめられて、エディは動転して身を浮かしかけた。
「ユキ!」
「エディを信頼してないとか、そんなんじゃないよ!ほんとは真っ先にエディへ相談したかったんだ!でもっ……」
そこまで叫んで、ユキは逡巡するようにふくよかな下唇を噛んだ。
「……でも、エディの迷惑になったらどうしようって思っちゃって……」
一瞬、驚きで何も返せなかった。
「……なん、だって?」
ユキはエディを見上げ、今にも泣きだしそうな目で数回瞬いた。瞬くたびに、漆黒の瞳は艶を帯びて潤みだし、エディは胸を突かれた。
「ユキ……」
「エディは[[rb監督生:>プリーフェクト]]だから。だから、責任でも取らされることになったらどうしようって。そんなことになるくらいならぼくが全部をかぶったほうがいいって思ったんだ。日本に帰りたかったって言えば周りは納得するでしょう?」
「何を言っている!おまえはおれをもかばおうとしたのか……っ」
激高すると、ユキは黒髪を乱して首を振った。
「そんなつもりはないよ!ただ、エディが罰せられたり、下級生(ジュニア)が退学になったりしたら、王の学徒(キングススカラー)の名に傷がついて、動揺する子たちもでてくるでしょう?でもぼくだったら、アジア人だから仕方ないってため息つかれて終わるだろうなって思ったんだ……」
エディは二の句が告げられなかった。ユキがそんなに深く状況を読み、先回りをして動いたなんて驚嘆に値する。
ただただ、ユキを凄いと思った。
こいつは、ただ甘やかされて育った皇子なんかではない。ストイックで自分を律することができる、立派な皇子だ。おれは、偏見という目で、こいつや日本を見ていたのかもしれない―――。
いまだに驚愕し、口を開いたままのエディを、ユキはまっ黒な瞳で見つめてきた。かと思えば、まつ毛を伏せ、気まずそうに唇を引き結んだ。
「ぼくだって、このように自分へ向けられる人種差別を利用してる。だからぼくは、ぼくを差別する子たちを非難したりできないんだ……」
「おまえはバカか!」
エディはとうとう叫んだ。
力の限り叫ぶと、ユキの身体を引き寄せ、胸に囲い、ぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「エディ!」
ユキがせっぱつまったような声をあげたが構わなかった。片方の手でユキの後頭部をホールドし、細腰をきつく抱き寄せると、ユキはそれだけで動けなくなった。
なんて細い身体だ。小さく頼りなく、心細げだ。このまま押さえつけてなんとでも好きにできてしまいそうだ。
こんな、こんなに細い身体をしているくせに、こいつは何を言っているんだ?下級生(ジュニア)ならいざ知らず、このおれまでも守ろうとしたのか……?
とたん、ぎゅうっと胸がしまり、エディはさらにユキを抱きしめた。何か言おうとすると、のどの奥がつんと痛み、声が震えそうになった。
「おまえは……、そんなことで退学になるつもりだったのか」
「……うん、まぁ、仕方ないかなぁって思っ……んっ、ちょ、エディ!苦しいよ!」
下級生(ジュニア)にしろ、おれにしろ、なぜそこまでしてかばう?おれたちは喧嘩ばかりしているではないか!おまえにとって、おれは、価値観も考え方もちがういけ好かない西洋人なはずだ!そうだろう!?」
「やだな、エディったら自分で言ってる」
ユキはくすくす笑うと、エディの肩口へ頭を乗せてきた。心地よい重みを肩へ感じるのと同時に、なんだかいい匂いがして、とたんに早鐘のように心臓が鳴りだした。
「そうだね。ぼくたち、価値観合わなくて喧嘩ばっかりしてるけど……」
囁くように言って、ユキはそろりとエディの背へ手を回し、上着をぎゅっと握ってきた。背中へ手を回されたことにどぎまぎしていると、ユキはエディの肩へ頭を乗せたままクスリと笑った。
「ぼくをわざわざ迎えにきてくれたり、お風呂で溺れてないか心配してくれたり、夕飯抜きになっても文句言わなかったり、エディって本当は優しいんだって、ぼくは知ってるから……」
そこまで言うと、ユキは顔をあげ、まっ黒な瞳でじっとエディを見つめてきた。
「……ちゃんと話さなくてごめんね」
「ユキ……」
黒い瞳が、さらに潤んでいるように見えて、エディは声を震わせた。
感動に突き動かされ、つい涙を浮かべてしまいそうになるのを、寸前のところで耐える。英国の王子たるもの、たとえ母親の葬儀のときでも泣いてはいけないのだ。
「まったく、おまえは分かりにくいんだ!しかも自己完結している。危険だ!今度からこういうことがあったら、ちゃんとおれに相談しろ。おれはおまえにかばわれるほど頼りなくはないぞ。ひとりですべてを抱え込もうとするな」
「う……はい、ごめんなさい」
ユキは素直に謝ってきた。ほんとうに反省しているのだろう。眉尻が下がっている。エディはすこし息をついた。
「もういい。おれも悪かったからな。カッとなっておまえを独房へ放り込んでしまったこと、反省している。……すまなかった」
正直に心に刺さっていた思いを告げると、ユキはびっくりしたようにエディを見上げた。
「うっそ、イギリス人が謝った!」
「おまえ、おれをなんだと思っているんだ!悪いと思ったら謝るのが筋だろうが!」
憮然として怒鳴ると、ユキは声を立てて笑った。
「ごめんごめん、気を悪くしないで。ぼくの英語の先生がイギリス人は何があっても絶対に謝らないって言ってたからさ」
「おまえの教師は英国に恨みでもあるのか?」
ユキは笑いながらさあどうだろ?と答えた。エディと目が合うと、口角を引き上げてにこりと微笑んでくる。たったいまのこの笑顔が、自分だけに向けられたものだと思うと、胸につっかえていたわだかまりが溶けていく感じがした。
「それから、もうひとつあるんだよ。あのね……」
「なんだ?」
ユキはいきなり俯き、恥ずかしそうにエディの上着をつまんでもじもじし出した。その仕草はあざとすぎるだろう!と内心で叫びつつ、ユキを覗き込むように首を傾けると、ユキはエディを上目で見上げて、可愛らしくはにかんだ。
「あ、あのね、ぼく、エディなんか大っ嫌いって言っちゃった……」
「なに……?」
ぎゅっと眉根を寄せると、ユキはばつが悪そうに、唇を尖らせた。
「自分でエディに話さなかったくせに、すぐに下級生(ジュニア)の言うこと信じちゃうとか、ちっとも事実を検証しないで独房行きを命じるエディなんか、お空の向こうに飛んで行っちゃえとか、その……いろいろ八つ当たりしちゃった。ごめんなさい」
「おまえ……」
言わなければいいのに、わざわざ告白してくるユキが可愛らしく思えて、エディはしのび笑った。胸が震えてどうしようもない。ユキがいじらしい。こんな小さな身体で、おれまでもかばおうとするなんて。
「それは、拗ねているんだろう?」
自分でもどうかと思うほどあまい声で囁くと、ユキは頬どころか耳まで赤くした。
なんだかあまい空気が漂っている。ユキは正真正銘の男なのに、恥じ入る姿は少女ようにかわいく見える。いや、そこいらの女よりもユキは可愛い。
エディは熱に浮かされたように、ユキの頤へ指を伸ばした。
「ち、ちがうよ!」
拒否されるかと思いつつ、ユキの顎先を人差し指と親指でそろそろと撫でると、ユキはますます頬を染めて、長いまつ毛を震わせた。
あまりにユキの反応が初々しく可愛らしかったために、エディは身体が固まり、指を引っ込められなくなった。ほんのりピンク色に染まった目元に、漆黒のまつ毛がかかる様がなんとなくセクシーで、不覚にもドキドキと心臓を高鳴らせてしまう。
「でも、エディに呆れられちゃったかもって思ったらすごく悲しくなって、それで……」
エディは指先を伸ばして、そっとユキの眼元をなぞった。
「泣いていたのか?」
「ちがっ……」
ユキはとっさに叫んだが、ややあって黒ガラスのような目をうろうろとさまよわせ始めた。
「……ちょとだけ……なら」
エディはたまらなくなって、折り曲げた人差し指で、ユキの頤を持ち上げた。うつむくことを許されなくなったユキは、一瞬エディと目を合わせたが、恥ずかしそうに頬を染めて目を伏せた。
「ヴィジィと何を話した?」
突然ヴィジィの名を出されて、ユキはびっくりしたように目を瞠った。
「なにって、なんでかばったとかそういうこと……」
ほかには?やつはなんと言っていた?」
エディは、人差し指と中指でユキの顎先を固定し、親指の腹でそっとユキの唇をなぞった。もう一度触れたいと思っていたユキの唇は、信じられないほど柔らかく、ふくよかだった。おぼつかなく口を開けるさまがキュートで、どうにも抱きしめたくてたまらなくなる。この唇にキスしようとしたヴィジィが許せない。今度会ったら宇宙の彼方まで蹴飛ばしてやるのだ。
「なにってふつうだよ。差し入れしてくれようとして……あっ、ちょっとエディ、なにしてるの。くすぐったいよ……」
「おまえに不埒なマネはしなかったか?」
「不埒って……なにそれ、どういうことなの、もう……」
唇を膨らませたユキが凶悪に愛くるしく、エディはユキの腰へ回した腕へ力を込めた。するとそのままユキの身体が自分へしなだれかかってきて、エディはいよいよたまらない気持ちになった。
唇をなぞっていた指を滑らかな頬へ、そして耳たぶへ滑らせて優しくもみしだくと、ユキはまるで何も知らない生娘のようにピクリと肩をすくめた。
「あっ、あの、エディ……ちょっ……」
「この際言っておくが、フランス人は、気に入った者なら男だろうが女だろうが見境なく口説くようなやつらなんだ。十分に気を付ける必要がある。おまえのように無防備でいると、直ちにやつらの手練手管に付け込まれて……」
「……こんなふうに?」
ユキはうっすら涙を浮かべてエディを見上げていた。熱を帯び、潤みきった黒目をまともに見てしまい、エディはうわっと叫んでユキを放り出してしまった。
自分は今、いったい何をしていた!?ユキの唇をさすって、それから耳たぶを……っ。
「十分に分かったよ、エディがこうやってだれかれ口説くってことが」
涙目で睨まれて、エディは耳まで赤くしてしまった。
「な、なにを言っている!そんなわけないだろうが!」
「もう!イギリス人ってすんごい不埒!」
ユキの恥ずかしそうな表情をまともに視界へ入れ、エディは衝撃のあまり身動きできなくなってしまった。この世に生を受けて17年、清廉潔白に生きてきた自分が、まさか不埒と言われてしまうなんて。
「おまっ、おまえがものほしそうな顔でおれを見上げるからだっ」
つい大声で怒鳴ると、ユキは見る間に赤面して、頬を膨らませた。
「なにそれ、まるでぼくが淫乱みたいな言い方しないでよ!最低!エディのスケベ!」
「なっ!?それはおまえだろが!いっ、淫乱とか言いやがって!恥ずかしくないのか!」
「エディのほうが恥ずかしいよ!ぼくの耳たぶをいやらしい触り方して!」
「ふつうに触っただけだ!」
怒鳴り合うお互いの声が独房へ反響する。それが一番恥ずかしいことにふたりで気付き、エディもユキも一様に口を閉ざした。
「……ね、ねぇ、この話題やめない?」
「賛成だ。そうしよう」
ユキの提案にエディがうなずき、ふたりして黙った。辺りに異様な静寂が続き、耐え切れなくなってエディはユキのほうを向いた。
「とにかく、おまえには何の咎もないんだ。さっさとここを出ていけ」
「いやだよ」
伝えるべきことだけを伝えて横を向くと、ユキから軽快な答えが返ってきて、エディはぎゅっと眉根を寄せて再びユキを振り返った。
「何を言っているんだ。早く出て行けと言っている!」
「エディがここにいるならぼくもここにいるよ」
ユキは、呆気にとられているエディなどそ知らぬふりで座り直し、背筋を伸ばした。
「ぼくだってエディにうそをついたんだ。罰を受ける権利があるよ。だからここにいる」
「おまえはバカか。罰を受ける権利など聞いたこともない」
「うるっさいなあ。ぼくが罰を受けるって言ってるんだからいいでしょ」
「よくない!」
「いいの!」
「この石頭が!」
「え~。石頭から石頭って言われるなんて心外!融通きかないのはどっちだよっ」
「おまえだ!」
「エディだよ!」
不毛な怒鳴り合いを続け、ややあって滑稽なことに気付き、ふたりして再び沈黙した。
「……この話はやめよう」
「賛成。そうしよ……」
ユキが返事をしたのを皮切りに、辺りに静寂が戻った。
ふたりして黙ったまま、目の前に置いたランプの、ほの暗い明りを見つめ続けた。夜が更けてきたのか、辺りはいっそう肌寒くなり、尻を付けた床石は冷たくなるばかりだ。
それなのに、なぜか心は温かく、気持ちは凪いでいる。不思議な気分だった。
ほのかに揺れる蝋燭の明かりをじっと見つめていると、わずかにユキがエディへ身を寄せてきた。
「寒いのか?」
身体が小さく、筋肉量の少ないユキは、さぞかし寒いに違いないのに、ユキは首を横へ振った。
「寒くないもん。ちょっと人恋しくなっただけ」
それは寒いからだろう、強がるな、と言い返そうとしてエディはやめた。もうせんない口喧嘩はやめだ。いまだけは素直になってもいいはずだ。
エディはそっとユキの背中へ腕を回し、細い肩へ手を置いた。抗議されるかもと思いつつ自分のほうへ抱き寄せたが、ユキは何も言わなかった。ただ、エディから見えるユキの眼元が、ほんのり色づいているように感じた。
「……ねえ、あの下級生(ジュニア)どうしてるの……?」
しばらくして、ユキがぽつりと尋ねてきた。
自分がひどい状況にいるというのに、ユキは下級生(ジュニア)の心配をしている。胸が締め付けられるように痛くなり、エディは目を細めた。
「チャールズ・ポプキンスは自室で過ごさせている」
「夕食抜きとかそんなことになってない?」
「ない。反省文は書かせているがな。本人はいたく反省している。殊勝な態度だ」
ユキは傍目に見ても分るほど、その細い肩から力を抜いた。
「よかった~。まだ子どもなのにごはん抜きなんてかわいそうだもの。あの子、ホームシックになってるんだよ。それなのに罰を受けるなんてかわいそうだ」
心底ほっとしたように笑うユキを、エディはまぶしいものを見るように目を細めて見下ろした。
もし、ユキがウィンザーを訪れず、エディと出会っていなかったなら、自分は何も考えずに下級生(ジュニア)を容赦なく断罪していただろう。独房に入っていたのは下級生(ジュニア)で、ユキや自分ではなかった。
おれは確実にユキに影響されている……。
それはクリスに指摘されたように、心の中にユキを住まわせてしまったということなのだろうか。
分らない。だが、ユキと出会ってたった一日で、エディは自分のなかに未熟な部分があるのを知った。教えてくれたのはまぎれもなく隣りにいるユキだ。
「……ラリーとケイトがチャールズ・ポプキンスを説得したんだ。本人もおまえにかばわれたことで良心の呵責を感じていたんだろう。洗いざらいすべてを告白した」
ふたりの下級生(ジュニア)たちが、ユキのために動いたことも、エディにとっては驚きだった。昨日出会ったばかりの、遠い異国の人間のために、ラリーとケイトはチャールズ・ポプキンスを諭したのだ。
これでユキさんは退学にはなりませんかと、必死な顔をして尋ねてきたラリー、そして、独房へ放り込まれたユキの身の上を心配するケイトも、ユキはクリスだけではなく、彼らをも惹きつけている。
「そっか……悪いことしちゃったなぁ」
思いがけないユキの反応に、エディは目を丸くした。悪いのはどう考えてもユキではない。なのになぜ、ユキは悪いことをしたなどというのだろうか。
「なぜそう思う?」
「だって、年下の子たちを悩ませちゃったもん。丸く収めるはずだったのにさ……」
「そもそも脱走しようとしたんだ。丸くおさまるはずがないだろう」
「それはそうなんだけど……。はぁ……いろいろ反省だなぁ」
ユキは大きなため息をつき、折り曲げた足を抱き込んで、ひざのなかに顔を埋めた。ユキがなにを反省し、なにをこんなにも落ち込んでいるのか、エディには分らなかった。
考えも価値観も違う極東の皇子。ただの甘やかされた皇子さまかと思いきや、年下をかばう気概がある。悄然と首を垂れるユキの、細い首すじを見つめ、エディはふと息をついた。
「……おまえは、愛されて育ったんだろうな」
え、と声に出してユキが顔をあげ、エディはそんなユキを、口元をほころばせて見た。
「おまえ、兄弟はいるのか?」
「いないよ。ぼくひとりっ子だから」
「そうか。家族は?おまえの家族のことが聞きたい」
自分でも今までにないことを質問していると分っている。入寮してこの方、だれかに兄弟のことや家族のことを尋ねたことなどなかった。だがすこしでも隣りに座るルームメイトのことが知りたい。
ユキはすこし面映ゆそうに首をすくめた。
「お父さんは東京大学の教授してる。日本語学の研究者なの。お母さんは、女子大の講師かな。栄養学の先生でね、お祖父ちゃんはむかしは外交官だったけど、ぼくが生まれたころにやめて、早稲田大学のフランス語講師してたんだ」「教師一家だな、勉学には厳しかっただろう?」
ユキはぜーんぜん、と首を振った。
「お父さんはただのオタクだよ。日本語オタク!祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。これだけで世の儚さを言い表しているんだ、素晴らしいと思わないかい?ってイッちゃった目で聞いてくるただのやばいおっさん!お母さんはお母さんで、この世で一番素晴らしい味覚はうま味よ!グルタミン酸とイノシン酸のハーモニーこそ至上!って、いつも利尻昆布握ってるし、お祖父ちゃんは、女子大生たちとコンパしてカラオケしてウハウハしてる。ぼく、勉強しなさいって言われたこと一回もなくってさあ、そんなことよりお出しとれるようになりなさいって何回もお出しとらされて、いやになって家出したこともあるんだよ。2時間くらいだったけど。だいぶ家庭崩壊してると思う」
エディは吹き出してしまった。
「楽しそうだな」
「楽しくないよぉ。母さん、昆布は煮立たせるんじゃないの!って目ぇ血走らせて怒るんだよ!?いまは男子厨房に立ち入らずなんてナンセンスよ!ってばしばし料理指導されたしさぁ。ぼく、もしかして拾われてきた子なんじゃないかって疑ったもん」
「おまえが料理にうるさいのは母親仕込みだったんだな」
「その横で、お父さんが古書開いて悦に入ってる。で、さらにその横でお祖父ちゃんがにやにやしながら女子大生とメールし合ってる。へんな家だよ、ほんと」
エディは今度こそ声に出して笑った。
「どうして11歳のとき入寮しなかったんだ?その予定だったんだろう?」
もし、ローティーンのときにユキに出会っていたなら、自分はどんな人間になっていただろうと思い、エディは首を振った。もしなど、ありはしない。
ユキは、艶めいたまつ毛を悲しげに伏せた。
「入寮しようとした年の春に、お婆ちゃんが心筋梗塞で倒れちゃったんだ。病院に運ばれて意識不明になって……」
祖母の話をするユキの声はすこし震えていて、エディはユキの肩を抱いた手に力を入れた。
「お祖父ちゃんはイギリスに行きなさいって言ったけど、お婆ちゃんのそばを離れたくなくて、イギリス行きを諦めたの。学校の帰りに毎日お見舞いに行ってた。だけど、結局お婆ちゃんはその年の秋に意識不明のまま亡くなっちゃった……」
「そうか……」
「ぼくが最初に倒れたお婆ちゃんを見つけたんだ。帰宅したら、居間にお婆ちゃんが……」
当時の光景を思い出したのか、ユキは細い肩を震わせた。11になるかならないかの少年にとっては、さぞかしつらく、衝撃的な出来事だっただろう。エディはしっかりユキの肩を抱き寄せ、胸に囲った。
ユキは抗わず、素直にエディの胸へ身を寄せてきた。
「ぼくのことより、エディは?兄弟いるの?」
反対に聞き返されて、エディは目をすがめた。
「ひとつ上の兄がいる……」
「え~意外!エディって長男かと思ってた。お兄さんがいるの?」
びっくりしたようにエディを見上げ、ユキは大きな黒目を瞬いた。
「……あれ……?ってことはウィンザーに……」
以前ユキへ、王室の男児はすべてウィンザーへ入校するのが慣例だと伝えていたことを思い出し、エディはうなずいた。
「入校すべきところだが兄は入校していない。なぜなら生まれつき身体が弱く、赤ん坊のころから手術を繰り返してきたからだ。いまはどうにか普通に生活できるようになってきたが、季節の変わり目ごとに体調を崩す。とてもじゃないが、寮生活はできないと判断された」
いままで誰にも言ったことのなかった家族の話を、エディは初めて口にしていた。
ユキは言葉もなく、ただ漆黒の瞳を見開いた。
「そう……なんだ……」
「父はウェリントン公爵ヘンリー王子殿下だ。貴族院議員をしている」
「公爵?わお。エディってほんとに王子さまなんだ~」
いまさらのように目を丸くするユキをぎろりと睨み、エディは続けた。
「母は……母のことはあまり記憶にない」
「え……?」
ユキがわざわざ身体をひねってエディを見上げてきたが、エディはユキと目を合わせなかった。
「母は、病弱の兄につきっきりだった。ロンドンは空気が悪いからと、いまもコーンウォールのカントリーハウスにふたりで住んでいる。おれはロンドンのタウンハウスで、乳母(ナニー)に育てられたんだ。母の記憶はあまりない」
エディには、母に抱き上げてもらった記憶がない。かろうじて父には頭を撫でてもらった記憶があるが、抱かれたことはない。父はいつも厳しく、エディは父の背中と、頭を撫でられる手のひらの感触しか覚えていない。
エディの家は、エディが幼少のころから相続問題で揺れている。兄は、長男でありながら病弱であるために、父、ヘンリー王子より爵位継承を拒否された。父はいまでも爵位は次男であるエドワードへ譲ることを公言しており、生まれたときから献身的に兄の面倒を見てきた母は、当然ながら兄に爵位が渡らないことを不満に思っている。
それはときに、エディへの当たりがきつくなるほどに……。
だがそれは、ユキは知らなくていいことだ。
ユキは何も言わなかった。ただ、黙って両手を伸ばし、エディの首へ抱きついてきた。
「な……なんだ……っ」
慌てふためいてユキの細い身体を引きはがそうとすると、ユキはぎゅうぎゅうにエディを抱きしめてきた。
「ユキ……っ」
「お母さんの代りはできないけど、ぼくがエディを抱きしめてあげるから!」
何度も何度もユキには衝撃を食らわされてきたが、今回ほど多大な衝撃を受けたことはなく、エディはしばらく動けなかった。
エディを抱きしめてあげる……そんな言葉、生まれてこの方ただの一度も言われたこともなければ、実際にされたこともない。それなのにユキは、細い腕でしっかとエディを抱きしめてくる。
一瞬、頭のなかがはじけたように真っ白になったが、すぐさま自分を取り戻して、エディは、ユキを引きはがそうと細い身体をつかんだ。
「おまえ!おとッ、男がでかい男に何をしている!?」
顔どころか全身がカーッと赤くなっているのが分かり、エディは慌てふためいてユキを押しのけた。
「でかいとか男とか関係ないよ!よしよし、寂しかったんだね。いい子いい子。いい子だからね」
抱き込まれた頭を、まるで子どもにするように撫でられて、エディは今度こそ愕然としてしまった。
ぽかん開けていた口を慌てて閉じ、狼のように低く唸る。
「……おまえは抱きしめているのではなく、縋りついているだけだろが」
ユキは何かに気付いたようにエディから離れ、頬を赤くした。
「なにそれ、ひどいよ……エディ、ちょっと小さくなって」
「無理を言うな」
「ねえ、エディ。何かあったらぼくを頼ってね?エディが寂しいときとか悲しいときとかいっぱい抱っこしてあげるし、一緒に寝てあげるから!人間はね、生きていくためには大きな愛が必要なんだよっ」
エディは、真剣な顔で力説してくるユキを呆気にとられて見つめ、それから大きなため息とともに、その両肩へ手を置いた。
「……勘弁してくれ」
「えぇ~?なんでだよっ」
「おまえと話しをしていると気が狂いそうになる。これが文化の違いか……?」
「また言ってる。しかも気が狂いそうとかなに?ひどいよ~」
「あぁ、分った分かった、この話は終了だ」
ユキを突き放して右手を振ると、ユキは盛大に頬を膨らませ、唇を突き出した。
「もお。イギリス人ってほんっと素直じゃないんだから」
「日本人はへんだ」
「へんで悪かったね。イギリス人のほうが超へんだっての!偏屈で融通きかないし」
「おまえな」
ぎろりとユキを睨むと、ユキは睨まれているというのに、おかしそうに笑った。この視線で寮の者は一発で黙るというのに、ユキはひるむことすらしない。
「……でも、エディがほんとは優しいの、ちゃんとわかってるよ。真面目なのも知ってる。とても熱心にぼくの面倒を見てくれようとしてるのも、ぜんぶちゃんと伝わってるよ」
思いがけないユキの告白に、動揺して凍り付くエディへ、ユキは屈託なく微笑んできた。
「エディのこと、ちゃんと大好きだよ!」
I like you very much.と言われ、エディはひっくり返りそうになった。
「おまっ、そんな言い方したら誤解するだろう!?」
「え?誤解?なんで?I love you very muchって言ってるわけじゃないじゃん」
エディは、愕然として前髪をひっかき回した。
「あたっ、あたりまえだっ」
「じゃあなんて言えばいいんだよ?I like you a lot?」
「あまり使わない言い回しだな」
「え~、イギリス人ってこだわり強すぎ。I really like youとか?」
「バカ!もっと誤解するだろが!」
ユキはむうっと唇を突き出した。
「だから何の誤解だよ!I have some feelings for youとか?これいいんじゃない?秀逸!」
「おまえはおれを口説いているのかっ?ふつうに言え!I like you as a friend、もしくはI want to go together as a friend peacefullyだ!」
「友人として?うわ~、堅っ苦しい!イギリス人らしすぎ!ただ大好きって言ってるだけなのにくどくど注釈つけてさ、想像を絶するウザさだよ!めんどくさい」
「ぬかせ!おれは誤解を招かないようにだな……」
「ぼくのエディへの気持ちは、やっぱりI like you very muchだよ」
ユキは目を瞠ったエディへ、とびっきりの笑顔を向け、温かい手でエディの手を握った。
「ここへ来てくれてありがとう。ぼくといっしょに罰を受けてくれて、すごくうれしい。エディとまたちゃんと喋れるようになって、ぼくは心から安堵してる。喧嘩してる間は、もうエディと関係作れないかもって思って、ほんとは悲しかったんだ。Eddy……I like you very much. Please Keep in touch with me forever」
言うだけ言うと、ユキはエディの肩へ頭を預けてきた。エディは呆気にとられ、しなだれかかってきたユキの肩をつかんだ。
いまだかつて経験のない熱烈な告白に、身体の底からカーッと熱くなるのが分かった。
「ち、ちがう!その言い回しではだめだ!おおおおまえの気持ちは分かったが、あっ、あっ、ああ、愛の告白をしているようではないか!I like you as a friend、Please be my friend foreverだ! as a friendをつけろ!as a friend! friendだ!友人として!」
うろたえて喚くと、ユキの身体はさらにエディへ傾いた。不思議に思ってユキを覗き込んでみれば、ユキは長いまつ毛を閉じて規則正しい寝息を立てていた。
な、な、な、なっ―――。
―――なんなんだ、こいつは!?この状況で寝るかふつう!?
などと大絶叫しそうになるのを寸前で堪え、エディは行き場のない衝撃を、大きなため息とともに吐き出した。
「おれはいつまでこいつに振り回されなくてはならないんだ……?」
片手で目を覆ったとき、ユキの楽しそうな寝言が聞こえてきた。
「うふっ、ブタバラハシオデ、ヤキトリハタレデ~」
「……またか」
エディは呆れ返りながら、そろりと上着を脱いでユキへかけてやった。
―――エディ、大好きだよ。ずっとずっとつながっていようね。
だが、まぁ、こんな夜もいい。
エディは、唇の端を引き上げて声もなく微笑むと、安心しきって眠りこけるユキの身体を抱き寄せ、胸に囲ったのだった。





 翌朝、エディは芝生を刈る園丁より早く起き、校長(ヘッドマスター)の邸宅へ赴いた。
校長の邸宅は、ウィンザーカレッジ内にあり、礼拝堂から見て東に位置している。
今年103歳を迎える英国最高齢の校長は、建築以来500年間、住む人間は変わっても、その姿を変えていない邸宅に、5つ年下の奥方とふたりのメイドとともに80年以上住んでいる。
エディが校長宅の呼び鈴を鳴らしたとき、早朝という時間帯にもかかわらず、校長はきっちりと正装してタイを締め、自室のロッキングチェアに座り、ゆるりとパイプ煙草をふかしていた。
使い古された、クラシックなダークブラウンのパイプは、英国の老舗パイプメーカー、パーカー・オブ・ロンドンのものだ。すみずみまで丁寧に磨かれているため、使うほどに重厚な艶を醸し出す。
幾重にもしわが寄る老体とは裏腹に、きちんと正装し、白髪を撫でつけた彼の姿からは、誉れあるウィンザー・カレッジの校長ヘッドマスターだという彼の自尊心プライドが窺え、エディは身の締まる思いで彼のまえに立った。
ウィンザーグロップという、髪を七三に分けて撫でつけるこの髪型は、現代ではダサいと評されめったにする者はいなくなった。だがこの髪型は、名門ウィンザー出身のエリートであるという証だ。いまでも、ウィンザーを母校とする老人たちは、自尊心をもってこの髪形をしている。
「このような早朝に申し訳ありません、校長」
姿勢を正し、深々と立礼すると、校長はしわがれた指で豊かな白髭を撫でた。
「よい朝でなによりだ。エドワード・ジョージ・アンドリュー・パトリック・ディヴィット王子よ、なに、年寄り早起きなので構わぬ」
100歳をとうに超えた校長は、そうは思わせぬ、かくしゃくとした声でエディの名を呼んだ。
正式に名を呼ばれ、緊張しつつもう一度頭を下げると、校長は朗らかな声で笑った。
「よい朝であるのに、こわばった顔でどうしたのだね?」
「はい。夕べ、わが寮の寮長(ハウスマスター)であるサー・ウィリー・カークランドが校長のもとへいらしたと思います。そのことで弁明とお願いを申し上げに参りました」
エディは、今回の不祥事をすべて自分が被るつもりで校長のもとを訪れていた。とにかくユキが退学になることだけは避けたかった。そのためなら自分が退学処分になっても構わないと心に決めていた。校長へ願い出、なにがなんでも聞き入れてもらうつもりだった。
校長はゆるりと紫煙を吐き出し、おおと声をあげた。
「確かに夕べ、久方ぶりにカークランドくんがわしをたずねてくれた。話しが弾んでのぅ、ついウィスキーが進み、ハンナに取り上げられてしまったわい」
ハンナとは、60代のメイドのことだ。エディはすこし微笑んだ。
「サー・カークランドよりことのいきさつを聞いておいでだと存じますが、今回のことはユキの責任ではなく、おれの管理不行き届きで……」
「おお。カークランドくんより聞いている。ユキ・アリスガワ殿下は、スムーズにライディングス寮になじみ、きみと仲良く過ごしていると」
思いがけない校長の言葉に、エディは意表を突かれ、目を見開いた。そんなエディに気付かず、校長は嬉しそうに眉尻を下げ、しわだらけの指でパイプを弄んだ。
「ユキ殿下は日本国の由緒ある有栖川宮家の皇子だ。きみと相性が良いと思ったのだがどうだろう?ウェリントン公爵エドワード王子殿下から直々に彼の様子を聞きたい。彼は元気にしているかね?」
にこにことしわでたるんだ頬を緩ませながら問う校長からは、例の事件寮長を知っている風はこれっぽっちも見受けられなかった。エディは心のなかで夕べの寮長(ハウスマスター)の姿を思い出した。
彼は神妙な顔でシルクハットをかぶり、事の次第を校長へ報告しに行ったはずだ。なのに、校長は何も知らされていない。そればかりか、ユキはつつがなくライディングス寮で過ごしていると報告を受けている。
頭のなかにステッキでシルクハットをちょいと上げ、髭の生えた口元をニヤリと引き上げる寮長(ハウスマスター)の姿が浮かび、そして消えた。
……サー・カークランド……、あなたという人は……。
エディは自分の胸を押え、ややあってしっかりと校長の目を見た。
「はい。ユキ皇子は元気にしております。彼は、とても優秀で勤勉で下級生(ジュニア)を思いやる心にあふれた、立派な皇子です」
エディの答えに大いに満足したのか、校長は嬉しそうに何度も白髭を撫でた。
「そうであろう。日本は遠い異国の地だが、学ぶべきものが多いのだ、エドワード王子よ」
「……はい。おれもそのように思います」
エディはなんのわだかまりもなくそう答えた。いまはなんの屈託なくそう思える。
「おれはユキを尊敬しています。そして、おれの生涯の友となる予感がしています。ともに切磋琢磨していける友人を得ることができておれは幸福だと……」
校長は穏やかに頬笑んでエディを見つめていた。高齢のため、かすかに淀んだブルーの瞳は、慈愛に満ちあふれている。
「……そう思っております」
「彼のことを好きになれそうかね?」
エディは一瞬目を閉じ、大きく息を吸った。
「はい。最初は喧嘩ばかりしていましたが……いえ、これからも彼とは喧嘩をするでしょうが、それでもおれは、ユキに出会えたことを神に感謝しています」
校長は満足して頷いた。
「わしも感謝しているよ……」
つぶやくように言うと、校長は感慨深げに持っていたパイプを見つめ、やがて艶やかなパイプの側面をしわがれた指で撫でた。
「平和なこの時代にな。英国の王子と日本の皇子が政治的な障りもしこりもなく、ともに手を取り合い睦まじく過ごしてゆける、この穏やかで素晴らしい時代に……」
「……?」
すぐに意味をくみ取ることができず、目線をあげると、校長はのどを震わせて笑い、なぞかけでもするようにエディへ使い古されたパイプを見せた。
「このパイプのメーカーを知っているかね?」
突然ちがう話を向けられて、エディは豆鉄砲を食らった鳩のように、瞼をしばたたかせた。
「パーカー・オブ・ロンドンです。確か現在は、ダンヒルグループに吸収されています」
「その通りだ。パーカー・オブ・ロンドンは1923年にロンドンに誕生した。これはその年に製造されたパイプだ。製品のクオリティも高いが、わしは1923年という年を忘れないために、80年以上もこれを使っている。わしの生涯において1923年という年は、特別な年なのだ……」
そこまで言って、校長は眉根を寄せたエディへ、どこかうら悲しげ眼差しを向けた。
「さあ、自らの寮へ帰りなさい。エドワード監督生よ。きみの寮の寮生たちが、きみを待っていることだろう」
「はい」
校長は、短い返事をしたエディへ穏やかな微笑みを見せ、軽くうなずいた。



Send Feedback