「仮説演繹法」という言葉の初出?

May 29, 2018

「いただきますの倫理」はいつごろ広まったのか(1)

1 いただきますの倫理
日本の文脈で動物倫理の議論、とりわけ肉食をめぐる議論をしている際に無視できないのが「いただきますの倫理」とでも呼ぶべきものである。この倫理は、人によって内容に異同はあるものの、概ね以下のような主張から構成されている。

・人間は動植物の命を犠牲にする(「命をいただく」)ことでしか生きていくことはできない。
・人間はそうして犠牲になった動植物にせめて感謝を捧げなくてはならない。
・その感謝の気持ちを表すのが「(命を)いただきます」という食前のあいさつである。
・この感謝の気持ちの当然の帰結として、食材を無駄にする、食べ残しをするといった行為は許されない。

日本人の間で大変ポピュラーなこの考え方であるが、西洋流の動物倫理(19世紀型動物愛護、動物福祉、動物の権利等)の観点からは大変奇妙な考え方にうつる。「いただきますの倫理」を批判するのが本稿の眼目ではないので簡単にすませるが、西洋流動物倫理の観点からは、だいたい以下のような疑問が生じる。

・「動植物」とひとくくりにするが、犠牲にする相手が意識を持つかどうか、苦痛を感じるかは大きな違いのはずである。それが全く問題にされないのはおかしい。
・少なくとも、意識ある動物をできるかぎり犠牲にしないベジタリアニズムやヴィーガニズムの食生活と、そうした動物も犠牲にする通常の食生活が、「動植物の命を犠牲にすることでしか生きていけない」と一緒くたにされるのはおかしい。
・自発的に犠牲になってくれた相手に感謝を捧げるというのは意味がとおるが、人間が勝手に犠牲にした相手に「感謝」を捧げるというのは「感謝」という概念の意味からしても筋がとおらない。泥棒が被害者に感謝するようなものである。
・いずれにせよ、死んだあとに感謝を捧げられても殺された動物にとっては(幸福や苦痛という観点からは)何のたしにもならない。
・同様に、死んだあとに自分の亡骸をどんなに有効活用してもらってもきれいに食べてもらっても、殺された動物にとっては(幸福や苦痛という観点からは)何のたしにもならない。
・逆に、「いただきますの倫理」が「あとから感謝をし、無駄にしないなら、動物に何をしてもよい」という含意を含むものならば、動物虐待を容認する理屈にもなり得る危険性を持つ。
・動物を犠牲にしていることを本当に気にかけるなら、やはりベジタリアニズムやヴィーガニズムという選択肢をもっと真剣に考えるべきではないのか。

こうした西洋流動物倫理からの疑問に対して、さらに「いただきますの倫理」の支持者から反論があるだろうが、ここではそれには踏み込まない。ここではむしろ、この倫理がいつごろから人口に膾炙するようになったかに興味を持つ。

2 「いただきます」という挨拶の起源
「いただきます」という食前の挨拶そのものがいつ広まったかについては篠賀大祐氏が調査をまとめている(篠賀 2013)。篠賀が紹介する資料の一つとして、戦前の食習慣については、成城大学民族学研究所編の『日本の食文化』が1941年の全国調査を整理出版したものが参考になるが、「いただきます」「ごちそうさま」を言うという地域もあれば、何も言わないという地域もあり、回答はかなりまちまちである(成城大学民族学研究所編1990)。また、1983年に70歳以上の女性を対象に食習慣について聞き取りを行った調査もある(井上ほか 1991)。この調査からは、彼女らの少女時代には「いただきます」がそれほど普遍的な挨拶ではなかったのに対し、時代が下るにつれてだれもが「いただきます」というようになっていく様子がうかがえる。(なお、篠賀氏は成城大学の出版した1941年の調査について、59地域中8箇所がいただきますと言うと答えた、とカウントしているが、わたしがカウントしたところ、58件中、「いただきます」を言うと答えた地域が10箇所、言う人もいるという答えが6箇所、他が42箇所であった。篠賀氏は別のデータを見たのかもしれないが、いずれにせよ、戦前における「いただきます」の普及度合いについて篠賀氏の記述をもとにするとかなり過小評価してしまう可能性があるので気をつける必要がある。)
これらの調査結果から、単純に「いただきます」という挨拶が日本の伝統だと考えるのも、最近になってできた言葉だと結論するのもあまり正確ではないことがわかる。

篠賀大祐(2013) 『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』(Kindle版) Amazon Services International, Inc.
https://www.amazon.co.jp/dp/B00GB1IM7K
成城大学民俗学研究所編(1990)『日本の食文化 --昭和初期・全国食事習俗の記録』岩崎美術社
井上忠司ほか(1991) 「資料編 : 家庭の食事にかんするライフ・ヒストリー調査」国立民族学博物館研究報告別冊 16号243-447ページ
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3597&file_id=18&file_no=1


3 もともと誰に対して「いただい」ていたのか

「いただきますの倫理」が定着する以前、「いただきます」の「いただく」対象は、どちらかといえば人間を想定する表現だったと考えられる。たとえば、平成9年度の「農業白書」は「いただきます」の意味についてのコラムをたて、「食う、もらうといった行動に、感謝という気持ちが付加された言葉」と解釈した上で、その内容を以下のように敷衍している。

「禅の修行僧が食事をする時に、心のなかで反省と感謝の意を思い表す「五観(ごかん)の偈(げ)」というものが存在します。このなかには、『功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る」という言葉があります。これは、「私達がいただいている食事は、いかに多くの人達の手間と労力がかかっているか、その労苦を思うとともに、天地自然の恩恵を忘れてはならない」という意味を表しています。
私達が生命を維持するために属する農畜産物は、変動する自然環境のなかで、農家の人々の努力によって育まれた生物であり、流通段階あるいは調理の過程において様々な人の手を経て享受される」ものです。」(農林統計協会 1998, p.30)

ここでは、確かに「天地自然の恩恵」も言及されているが、主眼は農家、流通、調理といった食に関わる人間への感謝である。
今回の記事ではこうした「人への感謝としてのいただきます」の起源をさぐることは主眼ではないのでこれについて今回は掘り下げないが、この記事が「命をいただく」という、近年の「いただきます」の解説で決まり文句のように使われるフレーズを利用していないことからも、1998年の時点でそうした考え方が一般的ではなかったことが間接的に伺える。

農林統計協会 (1998) 『図説 農業白書 我が国の食を考える 平成9年度』農林統計協会

4 新聞に見る「いただきますの倫理」の流布

「いただきますの倫理」がどのように広まったのかを調べるための一つの手がかりとして、新聞データベースの全文検索を利用してみた。対象としたのは全文検索が可能な朝日、読売、毎日の三紙で、三紙のすべてにおいて全文検索が可能な1986年から、「いただきますの倫理」がかなり定着したと思われる2010年までを対象とした。朝日新聞のデータベース「聞蔵」では週間朝日、AERAの記事もあわせて検索可能であったので、それも含めた。これらのデータベースに対し、「命&いただきます」で検索をかけ、上がった候補のなかから「いただきます」が食前の挨拶として使われ、その「いただく」が「命をいただく」ことだと解釈されているものを抜き出した。また、検索結果に一般読者からの投稿が目立ったため、読者からの投稿の数も別途カウントしてみた。
さらに、「いただきますの倫理」を特徴づける「命をいただく」というフレーズについても検索を行った。この場合も、小児の誘拐事件など明らかに異なる意味で使っているものを除外してカウントを行い、また、読者からの投稿の数も別途カウントした。カウントの際には、ダブルカウントとならないよう、「命&いただきます」の検索語に該当した記事は「命をいただく」の該当数には含めなかった。

この調査は、さまざまな意味で「示唆的なデータ」以上のものではないことを注意しておく必要がある。
・そもそも、こうした明確な形をとらない「倫理観」のひろまりをとらえる手段として新聞記事が優れているとは必ずしもいえない。
・新聞記事のなかにこうした倫理観があらわれた事例の調査としても、今回の調査は表記のゆらぎ(「命」か「いのち」かなど)や別の表現を考慮に入れておらず、行き届いたものとはいえない。また、新聞以外の媒体も検索対象に含めている場合が一部ある(週間朝日、アエラ)ため、新聞記事の調査という意味でも厳格ではない。
・データベースそのものの信頼性も検証されていない(命&いただきますで本当にこれらの語が登場する該当期間内のすべての記事が検索結果として上がっているのかどうかの保証がない)

とはいえ、そうした注意を踏まえて見るならば、十分示唆的だと言ってよいだろう。以下に調査結果を示す。まず以下が集計結果である(クリックで拡大表示されるはず)。

単純集計




数字は左から順に、「朝日新聞で「命&いただきます」で検索して条件を満たすものだけ抜き出したヒット件数」「そのうち読者投稿件数」「朝日新聞で「命をいただく」で検索して条件を満たすものだけを抜き出したヒット件数」「そのうち読者投稿件数」、以下読売と毎日で同様にならんでおり、最後に総計と投稿のみの合計を掲載している。
最後の総計のみグラフ化したものが以下である(上に同じ)。

総計グラフ







グラフから見て取れるように、1980年代(1986年以降)は条件に該当する記事は三紙を通して一件も存在しなかった。1990年代にも「いただきますの倫理」に類する考え方に対して散発的な言及はあるものの、言及数が三紙あわせて10件に到達するのはようやく2000年になってからである。そして、グラフからは、2005年から2006年にかけてもう一段階の盛り上がりを見せていることが読み取れる。これは2000年に総合学習の時間が導入され、食育基本法が2005年に制定された、という教育の変化と深くかかわっていると思われるが、その分析はまたの機会にゆずる。
投稿についての集計結果からは、1998年以降2010年にいたるまで、この問題についての投稿が毎年この三紙のどこかに投稿されてきたことがわかる。特に、2001年などは記事総数10件のうち6件が読者投稿である。こうした読者投稿の比率が高いかどうか判断するには他の倫理問題についての記事などと比較する必要があるだろうが、

5 新聞等における初期の言及の内容

今回注目したいのは、このグラフが上昇し始める前の、「初期」の「いただきますの倫理」への言及である(もちろん、1985年以前については調査していないわけであるから、これを「初期」と呼ぶのはより長期的な調査の結果不適切だと判明する可能性は十分にある)。ここには、「いただきますの倫理」の源泉がどこにあるかの秘密が隠れている可能性がある。

検索にかかったなかでもっとも古いのは1991年03月05日 の『アエラ』の記事である。「ひとり出版の志村俊司さん」と題する記事で、志村氏が山村の住民について述べるなかに「命をいただく」という表現があらわれる。

 「山奥が、つぎつぎ開発され、自然が破壊され消えていく。自分がその恩恵をうけていながら単純に「木を伐るな」「カモシカを殺すな」「クマを撃つな」という都会人にありがちな自然保護の考えには志村は、いささか違和感をもつ。
 彼らは木を1本伐るにも、けものを1頭撃つにも、「山の神」に手を合わせ、命をいただくという気持ちで山に入っていく。けものを語るときも、「あいつ」とか「あの野郎」と、村人を呼ぶと同じような仲間意識だ。」

ここでは、猟師として直接的に命を奪うことを「命をいただく」と形容しており、現在の用例よりは若干狭い可能性がある。

次に登場するのは1993年2月4日の読売新聞への読者投稿である。「生物への敬語なぜダメなの」と題する投稿のなかで、投稿者(15歳、名前から女性と判断される)は以下のように述べる。短く、また興味深い投稿なので全文を掲載する。

「国語の問題集の解説欄に敬語の誤った使い方としてこんな例が紹介されていた。「コイにエサをあげた」。私はこの短文を見て何が間違っているのかわからなかった。
 ところが、説明文に「コイにまでへりくだる必要はない」とある。しかし、この説明は少し違うんじゃないか。
 私は小学生だったから地球上にある生物はすべて共存し合っていると学んできた。人間は、自分たちが地球上の生物の中で一番上の位にあると錯覚しがちだが、他の生物がいなければ生きていくことすらできない。命はどの生物にも等しくある。
 私たちが食前に言う「いただきます」は、料理を作ってくれた人への感謝の気持ちのほかに、その材料となった動、植物に対して「あなたたちの大切な命を頂くかわりに、あなたたちの分も含めて地球を大切にしていきます」という誓いの意味も含んでいるのだ。それなのに、どうして「コイにエサをあげた」では、だめなのだろう。」

この投稿での「いただきます」には「あなたたちの大切な命を頂く」という、現在の「いただきますの倫理」で定番となっている意味合いに加えて、「地球を大切にする」という誓いの意味も含まれているという。用例として現在のような形で定着していないことを示唆しているのかもしれない。

次の用例は毎日新聞の1994年7月14日の記事である。これは童話大賞についての記事だが、童話のなかで「いただきます」といって食事をするトラに関連して、受賞した著者が以下のようなコメントをつけている。

「「いただきます」そう言って私の子どもたちは、毎日トラのようにたくさん食べます。そして、トラよりもたくさんの命をいただいて生きています。
「命は命が支えている」などと言ったところで、子どもは聞いてはくれません。
でも、童話ならどうでしょう。子どもの心に、少しは届くのではないでしょうか。」

これは児童教育の文脈で「いただきますの倫理」に相当する考え方を述べているものとして、その後の多くの用例のはしりとなるものである。

次の用例だが、同じ毎日新聞の1994年6月26日と1995年5月24日に、長野県の山菜採りについての記事があり、両方の記事で、「「山菜を食べることは自然の命をいただくことです」とお年寄りは言う。」というほぼ同じ文が登場する。なぜ1年たって同じ趣旨の記事が再掲されたのかはよくわからない。


同じく1995年には、朝日新聞で京大教育学部教授藤本浩之輔氏の署名記事に「いただきますの倫理」に類似した考え方が登場する(5月10日)。藤本氏は、「いただきます」「ごちそうさま」は「あまりに短すぎるので、掛け声化している」となげき、もう少し長い食前の挨拶をいくつか提案するが、その最後の一つが以下である。

「私たちは、天地自然の大いなる生命によって生かされています。また、多数の人々の力によって生かされています。感謝の心をもっていただきましょう。」

これについて、藤本氏は「これは、われわれ人間に自分の力だけで生きているのではなく、自然や多数の人々の力によって「生かされている」という意識を強調したものである。」という。ストレートに食べられる動植物の生命に言及していないので、ここで言う意味での「いただきますの倫理」にあたるとは厳密にはいえないが、感謝の対象を人間から大幅に広げている点では「いただきますの倫理」につながる面があるといえるだろう。

1997年の3件については簡単に列挙する。
1997年1月21日の朝日新聞で横浜市立若葉台西小学校の教諭が行っている教育実践についての記事中に以下のような記述がある。

「(前略)六年前から、担当する道徳の時間に、子どもたちにこう問いかけてきた。「クモの巣にチョウチョがひっかかっていたらどうする?」
 答えは「かわいそうだから助ける」から、「人間だって魚とか食べて生きているから、そのままにしておく」まで様々。「では、チョウチョは自分の命をプレゼントしてあげていると考えたら?」。子どもたちは、沈黙しながらも懸命に自分で考えようとする。
 「結論は出しません。日常の『いただきます』や『ごちそうさま』が、実は生命をいただいているのに気づいてもらうのが狙いです」」

同紙同年6月13日の記事では佐藤国雄氏が以下のようにのべる。

「我々は動植物、つまり人間以外の魚や鳥獣、草木など、「生きもの」の生命をちょうだいして生きてきた。
 だからこそ、食べる前に合掌して「いただきます」と唱えた。「お命ちょうだいします」という祈りであった。ところが、近代技術で食品が加工されて姿を変え、店頭に並ぶ。勢い、「いのち」に対する考えも遠のく。」

同年6月14日の読売新聞の記事は、臓器移植法案についての記事のなかの言及である。

藤井正雄・大正大教授(浄土宗僧りょ)「宗教的には食事でさえ、生きている命をいただく意識があり、日本には遺骨崇拝もある。多くの反対意見を切り捨てて強行しては、移植医療を台なしにしてしまう。立法は妥協の所産。二案を合体させるべきだ。移植医の合意ではなく、医学界の合意を作ってほしい」


これらの記事からは、「いただきます」というのは「命をいただく」ということである、という結びつけがすでにある程度人口に膾炙しはじめていることが伺える。
ただ、ここまでの用例は、冒頭に整理したような「いただきますの倫理」が全面的に展開されているわけではなく、どちらかといえば「いただきます」と「命をいただく」の言葉の結びつきの指摘にとどまっているものが多い(倫理面を強調している藤本氏の記事は逆に「命をいただく」というフレーズが登場しない)。もう少し発展した形を見るにはさらにあとの時期の記事を見る必要があるが、その作業はまた次回にゆずる。
もう一つ気づくのが、ここまでに挙げられた用例でも、受賞した童話の例をおそらく除いて、すでに存在する考え方について述べる形をとっているということである。つまり、「いただきます」が「命をいただく」という意味であるという考え方自体は、ここで見るような散発的な発言を行っている人々にとって、自分が思いついたものではなく、人からきいたものだと意識されていたようだということは言えるだろう。


iseda503 at 16:09│Comments(0)

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