久保竜彦、巻誠一郎に会う。12年ぶりの再会

05.29 11:00 LINE NEWS編集部

サッカーW杯の代表選考には、ドラマが付き物だ。
日本でもかつて、話題をさらったメンバー発表があった。

その主役として、明暗を分けた2人。
12年ぶりの邂逅(かいこう)は、人知れず実現しようとしていた。

4月15日、熊本・えがお健康スタジアム。
東京ヴェルディ戦に備え、会場入りするチームバスを降りたロアッソ熊本FW巻誠一郎は、離れて見守る人影に気付いた。

少し近づいて確認する。間違いない。急いで駆け寄り、声をかける。

「タツさん?タツさんですよね!」

短く刈った頭に、無精ひげ。見た目は当時とほとんど変わらなかった。元サッカー日本代表、久保竜彦だった。

再会を喜ぶ後輩に、久保は少し照れたように歩み寄る。ジャージの裾でゴシゴシと右手を拭い、握手をする。

「マッキー、元気そうやな。いくつになったん?」

「38です!」

「そうか。ようがんばっとるな。地震の後、被災地駆けずり回っとったんやろ?聞いたわ」

「ありがとうございます!」

「おう!身体には気ぃ付けてな。試合やろ?早く行きぃ」

深々と頭を下げる巻を背に、久保は手を振ってその場を後にした。

久保はこの日、Jリーグ選手OB会の活動で、地震被害から2年の熊本でサッカー教室を行っていた。

"縁"のある巻が、復興支援のために奔走し続けているとは聞いていた。だからなんとなく、会場入りする姿を遠くから眺めていた。巻がそれに気付いたことで、再会は実現した。

数少ない目撃者になったJリーグ関係者が、ポツリと言う。

「歴史的な再会かもしれませんね。それこそ、サプライズだ」

12年前。久保と巻は、まさに「サプライズ」の当事者として、日本中から注目された。

2006年5月15日、日本サッカー協会はドイツW杯に出場する日本代表のメンバーを発表する会見を開いた。席上、ジーコ監督はリストを読み上げる形で、23人の出場選手を明かしていった。

共同通信

「ヤナギサワ、タマダ…」

22人を読み上げたところで生じた、微妙な間。そこには確かに、意味があった。

「マキ」

報道陣から、どよめきが起きた。まったく有力視されていなかった巻が、メンバー入りを果たした。そこから一拍置いて、今度はざわめきが起きる。会場を埋めた記者たちは、口々に言った。

「久保が、落ちたぞ…」

ジーコジャパンにおいて、久保は特別なストライカーだった。

まるでネコ科の動物のように空中で身を翻して放つ左足ボレー。GKが伸ばした手を越える高さで捉えるヘディング弾。圧倒的な身体能力に裏打ちされた得点力は、ジーコ監督のもとで開花した。

YUTAKA/アフロスポーツ

2004年2月。W杯予選の初戦オマーン戦では、後半ロスタイムに決勝点を決めた。日本をドイツW杯に導いたゴールとして、この得点を挙げる選手、スタッフは非常に多い。

そして久保の評価を決定付けたのが、同年4月の国際親善試合チェコ戦でのゴールだった。ネドベド、ロシツキらを擁する「黄金世代」のチェコは、同年の欧州選手権でも優勝候補に推されていた。

そんな強豪相手のアウェー戦で、久保は見事なゴールを決めた。前半33分、ドリブルで右サイドを駆け上がると、迫るDF2人をかわして左足シュート。世界的名手のGKチェフの左頭上を破って、ネットを揺らした。

アフロスポーツ

久保は直前のハンガリー戦で1得点、直後のアイスランド戦でも2得点と、チェコ戦を含めて欧州遠征3試合連続でゴールを挙げた。世界に通用する点取り屋として、期待される存在になった。

「ジーコジャパンでサッカーするの、面白かったけの」

熊本の夜、2軒目の焼き鳥屋。久保は生ビールのジョッキを店員から受け取りながら、促されるでもなく切り出した。

「ジーコ監督は50歳を過ぎていたけど、相変わらずうまかった。ポストシュートの練習の時、オレがわざと難しいボールを当てても、簡単にめっちゃいいところに落としてくる。それを目の前で見られるってのも、すごく楽しかった」

共同通信

ジーコジャパンを救った、オマーン戦の終了間際の得点も、実は監督の教えがあってのものだったという。

「コロコロっと流し込むシュート、ジーコ監督に教わらんかったら、選択肢になかった。それまではGKごとネットに突き刺すつもりで、とにかくドカッと蹴っていたから。すごい人の教えだから、素直に聞けたってのは、やっぱりあると思う。あんな緊迫した場面で決められたのは、教えがきちんと自分の中に入ってきて、自分のものになったからやと思う」

共同通信

ジーコ世代に憧れて、サッカーに夢中になった。

1986年6月。10歳になったばかりのタツヒコ少年は、地元の福岡県筑前町にある小さな電器屋の軒先で"交渉"をしていた。

「どうしても見たいけん、W杯の試合を録画してくれへん?」

この年、サッカーW杯はメキシコで開催されていた。時差14時間。日本時間の深夜に試合は行われており、小学生が見るなら録画は必須だ。しかし久保家には、ビデオデッキがなかった。

Enrico Calderoni/アフロスポーツ

なので、電器店でテープだけを買って、店頭に展示されているデッキで録画させてもらおうと思ったのだ。それだけでは飽き足らず、W杯の様子を伝えるラジオニュースも録音して、何度も聞いた。

「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ!」「ジーコだ!」といった実況の叫び声だけで、スーパープレーを想像した。そしてたぎる思いを抑えきれず、街灯の下で遅くまでボールを蹴り続けた。

細かい泡だけが残った、空のジョッキを見つめながら、久保は当時を振り返る。

「W杯に出たい。ああなりたい。そう思って、マネばかりしてた。ジーコ、プラティニ、マラドーナ。あの世代が自分にとってのW杯のすべて。その後の大会も見たけど、メキシコを超える感動はなかった」

そんなジーコの教えを、直接受けられる立場になった。ここに居続けるために、全力を尽くそう。久保は代表でも先発を重ね、所属の横浜F・マリノスでも結果を出し続けた。しかしそのことが、悲劇を招いた。

アフロスポーツ

「代表でも点が取れ出して、このままやっていけばもっとうまくなれると思っていた。でもちょうどそのころに、腰が痛くなった。代表での活動に加えて、クラブでアジアチャンピオンズリーグにも出るようになって、試合数も増えたってのはあるかもしれん」

時折襲う発作的な痛みは、怖さとなって久保の中に残った。自分で自分にブレーキをかけるようになり、プレーの質は一気に落ちた。

「チェコ戦のころは、もうだいぶ悪かった。たまたま欧州遠征の時期に、痛みが弱まる波が来ていただけだった。悪い波が来たら、怖くて動けない。それを忘れるために、痛み止めの薬を飲んだり、神経にブロック注射を打ったりした」

アフロスポーツ

2005年、代表での出場数はゼロになった。

「それでもジーコさんは、会えばいつもと同じように接してくれた。『タツ、元気か?今日はやる気あるか?』って笑ってくれる。代表合宿中にみんなでキャバクラ行って、週刊誌に写真撮られちゃった直後でさえ、そうだったけんね」

懐かしそうに笑ったが、すぐに表情が硬くなる。

「でもあの時はさすがに、動き悪いって思われていたんちゃうかな。オレもそう思っていた。この落ちていく感じが、どこまで続くんかなあと」

久保竜彦は、W杯でプレーできるのか。

ドイツ大会が迫ってくるにつれ、それは日本サッカー界の一大テーマになっていった。

日本代表のチーム内でも同様だった。ジーコ監督らコーチングスタッフと、メディカルスタッフは、来る日も来る日も久保の起用法について議論を重ねていた。

本人も必死だった。

西洋医学にとどまらず、何にでも手を出した。断食もした。漬物のように巨大なぬか床に肩までつかる「酵素風呂」も続けた。触らずに治すとうたう「気功」にも頼ってみた。

アフロスポーツ

「出たかったけ。あのメンバーでW杯に行きたかったけ。監督がジーコさんで、通訳が鈴木さんで。せやけ、何でもやろうと思っとった」

W杯イヤーの2006年を迎えるころ、久保の腰痛はだいぶおさまっていた。2月18日の国際親善試合フィンランド戦では、代表619日ぶりのゴール。同22日アジア杯予選インド戦でも2得点を挙げた。

「慎重に整えていったけ、調子良かったんよ。年始のころは。このままごまかしながら、いけるんちゃうかなと思ってました」

クラブに戻っても、Jリーグ開幕の3月5日京都サンガ戦で2得点。「W杯のエースは久保」と待望する声は、再び強まっていった。

アフロスポーツ

久保と12年ぶりの再会を果たした翌日。

"サプライズ選出"について振り返る場として、巻は熊本市中心部のドーナツ店を選んだ。「女子高生みたいですよね」と笑いながら、禁煙フロアのテーブルにコーヒーを置く。

「重かったです。とにかく重かった」

語り出すと、表情は一転して硬くなった。

「W杯は夢でしたから、選ばれたと知った瞬間は、もちろんうれしかったです。でも、タツさんの代わりみたいな形でしたからね。それがものすごく重かった」

共同通信

通りかかった客が、巻に気付いて声を掛けようとしたが、あまりに真剣に話す様子を見て自重した。

「タツさんは見る者に『ひとりで試合の流れを変えてくれるんじゃないか』と期待させるだけのものをお持ちでした。世界を相手に、どこまでやってくれるんだろう、と。一方、僕は自分ひとりで戦況を変えられるようなFWではなかった」

苦笑いしながら、コーヒーに少しだけ口をつける。

アフロスポーツ

「タツさんの代わりじゃなければ、もう少し気が楽だったと思います。正直『なぜ自分なんかが選ばれてしまったんだろう』と考えることもありました。タツさんや、他の選ばれなかったFWにものすごく失礼になるから、絶対に口には出せませんでしたけど。誰にも打ち明けられないのも、とても苦しかった」

傍らのカップから立ち上る湯気が、強い語気で乱れる。

「自分がW杯に出たことに意味を見いだせたのは、ちょうど10年後、熊本地震が起きた後です。どこの避難所に行っても『あ、巻さんですよね!』と言って、支援を受け入れてくださった。『サプライズ選出』と注目されて、顔や名前が知れ渡っていなければ、あんなにスムーズにはいかなかったんじゃないかと思うんです」

巻誠一郎提供

静かに、だが何度もうなずく。

「今回、タツさんがわざわざ待っていてくださって、僕のことをねぎらってくれたのは、ものすごくうれしかったです。12年経って、ようやく気持ちの整理がついたような気がします。タツさんの代わりはきつかった。でも、タツさんの代わりだったからこそ、巡り巡って熊本のために働くことができた。今はそう思えます」

「マッキー、そんなこと言うてたんですか。そこまで期待されとるとか、自分じゃ正直よう分からんかった」

都内のカフェ。サッカー教室をするために上京してきた久保は、あごひげをなでながらポツリと言った。

06年5月。年始から復調の兆しを見せていた久保だが、今度は足首の痛みに悩まされるようになっていた。

「最後のころは、腰や足首が固まってしもうて、身体が動かんかった。注射を打ちすぎて、感覚もめちゃくちゃやった。直前の親善試合、オレが出た方がいいか、出ない方がいいかで、代表のチーム内でもめとったのも知っていた」

それでもW杯メンバー発表直前も山形に赴き、一縷(いちる)の望みにすがるように、断食道場で回復をはかっていた。東京に帰る新幹線の車内で、携帯電話が震えた。横浜F・マリノスのチームマネジャーは、複雑な感情を押し殺すようにして、久保に落選を伝えてきた。

アフロスポーツ

「自分の中で、出られんかもしれんというのは、考えんようにしてました。だから最後も道場に行ってましたし。でも、落選の連絡を受けて、正直ちょっと楽になったところもあった。もう、いろいろ考えずに済むなと」

ふっ、とため息をつく。しばらくして、言葉を継ぐ。

「もちろん、やっぱり出たかったのう、と思うところもありました。整理がつかんまま、1週間くらいは何もする気がおきんかった」

少し切なそうに、眉根を寄せて語る。

「それだけ、ジーコさんとW杯に出るというのは、自分にとって大きなことだった。86年、膝の痛みを抱えながら『ここで終わってもいい』と言ってプレーしていたジーコさんの姿が、忘れられん。あれが自分にとってのサッカーであり、W杯だった」

落選後、ジーコさんと会うことはなかったのか。

「ないですよ。ないない。ジーコさんにはすぐW杯があったし。オレのことなんか、もう覚えてもいないでしょう」

ならば、会って話してはどうだろうか。LINE NEWSはJリーグ広報部から、リーグ25周年に合わせて来日するジーコさんの単独インタビュー許諾を得ていた。

「えっ!ジーコさんに会えるの?オレが?」

(取材協力=Jリーグ、ロアッソ熊本 取材・文=塩畑大輔 撮影=松本洸)


後編「久保竜彦、ジーコ元監督に会う 12年ぶりの邂逅」に続く。記事は明日11時に公開予定。乞うご期待!

詳細はスマートフォンから

続きはアプリで、快適に LINENEWS