サッカーW杯の代表選考には、ドラマが付き物だ。
日本でもかつて、話題をさらったメンバー発表があった。
その主役として、明暗を分けた2人。
12年ぶりの邂逅(かいこう)は、人知れず実現しようとしていた。
4月15日、熊本・えがお健康スタジアム。
東京ヴェルディ戦に備え、会場入りするチームバスを降りたロアッソ熊本FW巻誠一郎は、離れて見守る人影に気付いた。
少し近づいて確認する。間違いない。急いで駆け寄り、声をかける。
「タツさん?タツさんですよね!」
短く刈った頭に、無精ひげ。見た目は当時とほとんど変わらなかった。元サッカー日本代表、久保竜彦だった。
再会を喜ぶ後輩に、久保は少し照れたように歩み寄る。ジャージの裾でゴシゴシと右手を拭い、握手をする。
「マッキー、元気そうやな。いくつになったん?」
「38です!」
「そうか。ようがんばっとるな。地震の後、被災地駆けずり回っとったんやろ?聞いたわ」
「ありがとうございます!」
「おう!身体には気ぃ付けてな。試合やろ?早く行きぃ」
深々と頭を下げる巻を背に、久保は手を振ってその場を後にした。
久保はこの日、Jリーグ選手OB会の活動で、地震被害から2年の熊本でサッカー教室を行っていた。
"縁"のある巻が、復興支援のために奔走し続けているとは聞いていた。だからなんとなく、会場入りする姿を遠くから眺めていた。巻がそれに気付いたことで、再会は実現した。
数少ない目撃者になったJリーグ関係者が、ポツリと言う。
「歴史的な再会かもしれませんね。それこそ、サプライズだ」
12年前。久保と巻は、まさに「サプライズ」の当事者として、日本中から注目された。
2006年5月15日、日本サッカー協会はドイツW杯に出場する日本代表のメンバーを発表する会見を開いた。席上、ジーコ監督はリストを読み上げる形で、23人の出場選手を明かしていった。
共同通信
「ヤナギサワ、タマダ…」
22人を読み上げたところで生じた、微妙な間。そこには確かに、意味があった。
「マキ」
報道陣から、どよめきが起きた。まったく有力視されていなかった巻が、メンバー入りを果たした。そこから一拍置いて、今度はざわめきが起きる。会場を埋めた記者たちは、口々に言った。
「久保が、落ちたぞ…」
ジーコジャパンにおいて、久保は特別なストライカーだった。
まるでネコ科の動物のように空中で身を翻して放つ左足ボレー。GKが伸ばした手を越える高さで捉えるヘディング弾。圧倒的な身体能力に裏打ちされた得点力は、ジーコ監督のもとで開花した。
YUTAKA/アフロスポーツ
2004年2月。W杯予選の初戦オマーン戦では、後半ロスタイムに決勝点を決めた。日本をドイツW杯に導いたゴールとして、この得点を挙げる選手、スタッフは非常に多い。
そして久保の評価を決定付けたのが、同年4月の国際親善試合チェコ戦でのゴールだった。ネドベド、ロシツキらを擁する「黄金世代」のチェコは、同年の欧州選手権でも優勝候補に推されていた。
そんな強豪相手のアウェー戦で、久保は見事なゴールを決めた。前半33分、ドリブルで右サイドを駆け上がると、迫るDF2人をかわして左足シュート。世界的名手のGKチェフの左頭上を破って、ネットを揺らした。
アフロスポーツ
久保は直前のハンガリー戦で1得点、直後のアイスランド戦でも2得点と、チェコ戦を含めて欧州遠征3試合連続でゴールを挙げた。世界に通用する点取り屋として、期待される存在になった。
「ジーコジャパンでサッカーするの、面白かったけの」
熊本の夜、2軒目の焼き鳥屋。久保は生ビールのジョッキを店員から受け取りながら、促されるでもなく切り出した。
「ジーコ監督は50歳を過ぎていたけど、相変わらずうまかった。ポストシュートの練習の時、オレがわざと難しいボールを当てても、簡単にめっちゃいいところに落としてくる。それを目の前で見られるってのも、すごく楽しかった」
共同通信
ジーコジャパンを救った、オマーン戦の終了間際の得点も、実は監督の教えがあってのものだったという。
「コロコロっと流し込むシュート、ジーコ監督に教わらんかったら、選択肢になかった。それまではGKごとネットに突き刺すつもりで、とにかくドカッと蹴っていたから。すごい人の教えだから、素直に聞けたってのは、やっぱりあると思う。あんな緊迫した場面で決められたのは、教えがきちんと自分の中に入ってきて、自分のものになったからやと思う」
共同通信
ジーコ世代に憧れて、サッカーに夢中になった。
1986年6月。10歳になったばかりのタツヒコ少年は、地元の福岡県筑前町にある小さな電器屋の軒先で"交渉"をしていた。
「どうしても見たいけん、W杯の試合を録画してくれへん?」
この年、サッカーW杯はメキシコで開催されていた。時差14時間。日本時間の深夜に試合は行われており、小学生が見るなら録画は必須だ。しかし久保家には、ビデオデッキがなかった。
Enrico Calderoni/アフロスポーツ
なので、電器店でテープだけを買って、店頭に展示されているデッキで録画させてもらおうと思ったのだ。それだけでは飽き足らず、W杯の様子を伝えるラジオニュースも録音して、何度も聞いた。
「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ!」「ジーコだ!」といった実況の叫び声だけで、スーパープレーを想像した。そしてたぎる思いを抑えきれず、街灯の下で遅くまでボールを蹴り続けた。
細かい泡だけが残った、空のジョッキを見つめながら、久保は当時を振り返る。
「W杯に出たい。ああなりたい。そう思って、マネばかりしてた。ジーコ、プラティニ、マラドーナ。あの世代が自分にとってのW杯のすべて。その後の大会も見たけど、メキシコを超える感動はなかった」
そんなジーコの教えを、直接受けられる立場になった。ここに居続けるために、全力を尽くそう。久保は代表でも先発を重ね、所属の横浜F・マリノスでも結果を出し続けた。しかしそのことが、悲劇を招いた。
アフロスポーツ
「代表でも点が取れ出して、このままやっていけばもっとうまくなれると思っていた。でもちょうどそのころに、腰が痛くなった。代表での活動に加えて、クラブでアジアチャンピオンズリーグにも出るようになって、試合数も増えたってのはあるかもしれん」
時折襲う発作的な痛みは、怖さとなって久保の中に残った。自分で自分にブレーキをかけるようになり、プレーの質は一気に落ちた。
「チェコ戦のころは、もうだいぶ悪かった。たまたま欧州遠征の時期に、痛みが弱まる波が来ていただけだった。悪い波が来たら、怖くて動けない。それを忘れるために、痛み止めの薬を飲んだり、神経にブロック注射を打ったりした」
アフロスポーツ
2005年、代表での出場数はゼロになった。
「それでもジーコさんは、会えばいつもと同じように接してくれた。『タツ、元気か?今日はやる気あるか?』って笑ってくれる。代表合宿中にみんなでキャバクラ行って、週刊誌に写真撮られちゃった直後でさえ、そうだったけんね」
懐かしそうに笑ったが、すぐに表情が硬くなる。
「でもあの時はさすがに、動き悪いって思われていたんちゃうかな。オレもそう思っていた。この落ちていく感じが、どこまで続くんかなあと」
久保竜彦は、W杯でプレーできるのか。
ドイツ大会が迫ってくるにつれ、それは日本サッカー界の一大テーマになっていった。
日本代表のチーム内でも同様だった。ジーコ監督らコーチングスタッフと、メディカルスタッフは、来る日も来る日も久保の起用法について議論を重ねていた。
本人も必死だった。
西洋医学にとどまらず、何にでも手を出した。断食もした。漬物のように巨大なぬか床に肩までつかる「酵素風呂」も続けた。触らずに治すとうたう「気功」にも頼ってみた。
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「出たかったけ。あのメンバーでW杯に行きたかったけ。監督がジーコさんで、通訳が鈴木さんで。せやけ、何でもやろうと思っとった」
W杯イヤーの2006年を迎えるころ、久保の腰痛はだいぶおさまっていた。2月18日の国際親善試合フィンランド戦では、代表619日ぶりのゴール。同22日アジア杯予選インド戦でも2得点を挙げた。
「慎重に整えていったけ、調子良かったんよ。年始のころは。このままごまかしながら、いけるんちゃうかなと思ってました」
クラブに戻っても、Jリーグ開幕の3月5日京都サンガ戦で2得点。「W杯のエースは久保」と待望する声は、再び強まっていった。
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久保と12年ぶりの再会を果たした翌日。
"サプライズ選出"について振り返る場として、巻は熊本市中心部のドーナツ店を選んだ。「女子高生みたいですよね」と笑いながら、禁煙フロアのテーブルにコーヒーを置く。
「重かったです。とにかく重かった」
語り出すと、表情は一転して硬くなった。
「W杯は夢でしたから、選ばれたと知った瞬間は、もちろんうれしかったです。でも、タツさんの代わりみたいな形でしたからね。それがものすごく重かった」
共同通信
通りかかった客が、巻に気付いて声を掛けようとしたが、あまりに真剣に話す様子を見て自重した。
「タツさんは見る者に『ひとりで試合の流れを変えてくれるんじゃないか』と期待させるだけのものをお持ちでした。世界を相手に、どこまでやってくれるんだろう、と。一方、僕は自分ひとりで戦況を変えられるようなFWではなかった」
苦笑いしながら、コーヒーに少しだけ口をつける。
アフロスポーツ
「タツさんの代わりじゃなければ、もう少し気が楽だったと思います。正直『なぜ自分なんかが選ばれてしまったんだろう』と考えることもありました。タツさんや、他の選ばれなかったFWにものすごく失礼になるから、絶対に口には出せませんでしたけど。誰にも打ち明けられないのも、とても苦しかった」
傍らのカップから立ち上る湯気が、強い語気で乱れる。
「自分がW杯に出たことに意味を見いだせたのは、ちょうど10年後、熊本地震が起きた後です。どこの避難所に行っても『あ、巻さんですよね!』と言って、支援を受け入れてくださった。『サプライズ選出』と注目されて、顔や名前が知れ渡っていなければ、あんなにスムーズにはいかなかったんじゃないかと思うんです」
巻誠一郎提供
静かに、だが何度もうなずく。
「今回、タツさんがわざわざ待っていてくださって、僕のことをねぎらってくれたのは、ものすごくうれしかったです。12年経って、ようやく気持ちの整理がついたような気がします。タツさんの代わりはきつかった。でも、タツさんの代わりだったからこそ、巡り巡って熊本のために働くことができた。今はそう思えます」
「マッキー、そんなこと言うてたんですか。そこまで期待されとるとか、自分じゃ正直よう分からんかった」
都内のカフェ。サッカー教室をするために上京してきた久保は、あごひげをなでながらポツリと言った。
06年5月。年始から復調の兆しを見せていた久保だが、今度は足首の痛みに悩まされるようになっていた。
「最後のころは、腰や足首が固まってしもうて、身体が動かんかった。注射を打ちすぎて、感覚もめちゃくちゃやった。直前の親善試合、オレが出た方がいいか、出ない方がいいかで、代表のチーム内でもめとったのも知っていた」
それでもW杯メンバー発表直前も山形に赴き、一縷(いちる)の望みにすがるように、断食道場で回復をはかっていた。東京に帰る新幹線の車内で、携帯電話が震えた。横浜F・マリノスのチームマネジャーは、複雑な感情を押し殺すようにして、久保に落選を伝えてきた。
アフロスポーツ
「自分の中で、出られんかもしれんというのは、考えんようにしてました。だから最後も道場に行ってましたし。でも、落選の連絡を受けて、正直ちょっと楽になったところもあった。もう、いろいろ考えずに済むなと」
ふっ、とため息をつく。しばらくして、言葉を継ぐ。
「もちろん、やっぱり出たかったのう、と思うところもありました。整理がつかんまま、1週間くらいは何もする気がおきんかった」
少し切なそうに、眉根を寄せて語る。
「それだけ、ジーコさんとW杯に出るというのは、自分にとって大きなことだった。86年、膝の痛みを抱えながら『ここで終わってもいい』と言ってプレーしていたジーコさんの姿が、忘れられん。あれが自分にとってのサッカーであり、W杯だった」
落選後、ジーコさんと会うことはなかったのか。
「ないですよ。ないない。ジーコさんにはすぐW杯があったし。オレのことなんか、もう覚えてもいないでしょう」
ならば、会って話してはどうだろうか。LINE NEWSはJリーグ広報部から、リーグ25周年に合わせて来日するジーコさんの単独インタビュー許諾を得ていた。
「えっ!ジーコさんに会えるの?オレが?」
(取材協力=Jリーグ、ロアッソ熊本 取材・文=塩畑大輔 撮影=松本洸)
後編「久保竜彦、ジーコ元監督に会う 12年ぶりの邂逅」に続く。記事は明日11時に公開予定。乞うご期待!
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