八重の相対も分けるべきという論も、どちらも一長一短あるように感じるのです。
生涯広布&一筋兄弟さんもどうやら同じく感じてるようだけど、「八重の相対」は相対の論としてコンパクトにわかりやすくなってると感じております。
いやそもそも波田地さんはその趣旨で「八重の相対」の論を言われてるように感じたのだけども。
「わかりやすさ」では八重の相対がいいけれど、これからさらに100年後200年後と、そういう長い時間まで視野に入れると、「八重の相対」どころかもっとさらに増えていくことが予想できません?
そうした視野からすれば、分けるべきという論も理解できるんです。
今の段階で分けたほうが教義上正確なものと感じる反面、すでに「五重の相対」自体を消してるも同然の教義を学んできてる人には「分ける意味」を知る負担が増えてるぶん、それだけ理解のハードルが高くなってしまうんじゃないでしょうか。
どちらもそれぞれ一長一短あるし、このまま併用して「五重の相対とは分ける意味」を実感としてちゃんと理解できる人は分けた側の正確な教義を学べばいいでしょうし、相対論の全体的な「概念」の理解には「八重の相対」のほうがわかりやすいのではないでしょうか。
(僕個人は分けるのを支持したいけど、どちらがいいかは信仰する側の個人差が生じるんじゃないでしょうか。長期的にはいずれは分けた側が主流になると感じるのですが、現時点では併用でいいんじゃないかと感じるのです)
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