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語り継がれることのない歴史
多くの人は知らずそのまま有耶無耶になるであろう歴史
残るのは記録とし書かれた本のみ、誰も触れたがろうとしない歴史
 
長文ではありますが、纏めてくださった記事があるので掲載させて戴きます。


 
以下は、9月3日、虐殺のあった日に亀戸署にいた全虎岩氏の証言です。この証言を生き生きと形象化した短編が、江馬修の「血の九月」(1930年作、1947年発表)です。
 
全虎岩
私は一九二一年苦学するために日本に渡り、神田にあった朝鮮学生会館に出入りしました。
そこで朝鮮独立の重要性を知り、その方面での友人関係を多く持ちました。そうするうちに南葛労働組合の人々と知り合うようになり、朝鮮の独立は朝鮮の労働者階級が日本の労働者階級と手を結んで支配権力を打倒しなければ達成できないということになり、私は亀戸町の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正十一年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動をしました。
大正十二年九月一日十一時五十八分、私はヤスリ工場で仕事中でした。
……
 二日の夜(七、八時頃)だったと思います。附近の人々があちこち集まってがやがや話していたので側へ行ってみると、炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことをいっていました。私は何故朝鮮人を殺すのだろうと不審に思いました。夜になって朝鮮人が多勢逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が二十人ばかり居ました。
行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中へ逃げ込んだ人まで追いかけ、日本刀で切り殺していました。私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は三日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む三人はやっと逃げのび亀戸警察署に収容されました。私はあとでこの人たちに会い虐殺の実態を確かめることができました。あちこちで朝鮮人殺しのうわさがひんぱんに伝わってきました。工場の人達は私に外に出たら危ないから家の中に居るようにと言って無理に押し込み、外で見はりまでしてくれました。
 翌日(三日)の昼頃になってこのままでは危ないし、警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行った方が安全だと言う事を聞き、工場の友人達十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向いました。街に出てみると道路の両側には武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹槍などで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたが、やっとの思いで午後三時頃亀戸署に着きました。すでに道場は朝鮮人同胞でいっぱいでしたので私は隣にある二階の講堂に入れられました。夜十時過ぎ頃にはここも超満員になりました。全部で千人は越えたと思われます。入口には巡査が立って警戒しました。中国人は全部で五十人程でしたが道場と講堂の間の通路に座らされました。
 四日明け方三時頃、階下の通路で二発の銃声が聞こえましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず二名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
 朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに三、四十の死体が積んでありました。この虐殺について、私は二階だったので直接見ては居りませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。
虐殺は四日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。四日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ五日の夜まで続きました。
……
虐殺は五日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立話から聞いたことですが、「国際赤十字」その他から調査団が来るという事が虐殺をやめた理由だったのです。六日の夕方から、すぐ隣りの消防署の車二台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四ツ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積みあげ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場にいき、死体を埋めたあとを実際に見ました。
 死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは七日の午前中でした。
 虐殺を免れた同胞は七日の午後、警察の庭に集合させられました。そして何の説明もうけず亀戸の駅に行き、線路づたいに歩かされました。私達の周りは武装した騎兵が取囲み、重々しい空気が流れていました。私は一人一人殺すのが面倒くさくて機関銃などで一度に殺す目的でどこかに連れていくのだとしか考えられず、足が地につきませんでした。私達は習志野まで歩かされました。習志野には十一月迄いて更に青山の練兵場に移されました。
 そして私は他の同胞と共に帰国するつもりでいましたが、南葛労働組合の同志達がどうなっているのかをどうしても知りたかったので、亀戸のヤスリ工場にもどりました。まもなく警察署の中で虐殺された同志が十一名であることを知り、その遺族達にも会うようになりました。 
 警察は河合〔川合(河合)義虎―引用者〕を始めとする南葛労働組合の幹部が警察署の中で革命歌を歌い、大衆を扇動するからやむをえず殺さざるを得なかったと言っているが、そんな事は絶対になく、始めから虐殺が目的で警察に連行したことが、虐殺当時警察署の中にいた私がいちばん良く知っております。そこで遺族たちは、虐殺について裁判問題にするからぜひ証人になってもらいたいと希望したので、私はそのまま残ることにしました。ところが裁判は開いてもらえず、真相を訴えようとする私に対して厳しい弾圧を加えました。こんなわけで今日まで私は公式に真相を訴えられずにきました。
 当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際に見たのでなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が、橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島附近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。その人達の多くも騎兵隊や自警団によって虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸署に逃げ込んだ人もいました。(奈良県大和郡山市)
 高橋磌一他『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』(徳間書店、1975年、194‐197頁)
 
 
★亀戸警察署における朝鮮人虐殺に関する最近の報道
「当時、亀戸署で通訳として働いていた朝鮮人とみられる人物が、「日本の軍人が一斉に剣を抜いて朝鮮人83人を一度に殺した。妊婦も1人いたが、腹を切った時に出た子どもまで突き殺した」と証言し、朝鮮人虐殺の実態を調査していた在日本韓国基督教青年会の崔承万(チェ・スンマン)氏が記録した」(聯合ニュース2014/01/21)
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2014/01/21/0200000000AJP20140121001000882.HTML
 
 
「約300人の朝鮮人が習志野騎兵第十三連隊によって亀戸警察署で虐殺された」「当時、目撃者(亀戸署で通訳として働いていた朝鮮人とみられる人物)の名前は羅丸山」(連合ニュース2014-08-31)
http://m.yna.co.kr/kr/contents/?cid=AKR20140829159400056
 
写真:
① 川合義虎(1902~ 1923)労働運動活動家、初期の共産主義運動活動家
長野県生まれ。小学校卒業後、日立鉱山の旋盤工となる。1922年、渡辺政之輔らと南葛労働協会を組織。第1次日本共産党に入党し、1923年、国際共産青年同盟の支部として日本共産青年同盟を創立し初代委員長となる。関東大震災直後の混乱に乗じ、習志野騎兵第十三連隊によって亀戸警察署で他の組合運動員らとともに虐殺された。
http://www.hurp.info/event/otona/vol4/houkoku4.html
 
川合は、殺される数カ月前、雑誌『赤旗』編集部の朝鮮問題に関する質問に次のように答えている。「日本の労働階級は、朝鮮植民地の絶対解放を叫び、経済的にも政治的にも民族差別撤廃を主張し、具体的に朝鮮より軍隊の撤去、日鮮労働者の賃金平等を要求し、運動上の完全なる握手と、同一戦線に立つことを、 最大急務として努めなければなりません」
 
 
② 江馬修(1889~1975)小説家
高山市空町生まれ。斐太中学を中退し上京。神田区役所に勤める傍ら田山花袋の門に入り、自然主義文学に取り組んだ。1911年に処女作の短編『酒』で文壇デビュー。1916年ヒューマニズムを基調とした長編『受難者」がベストセラー。関東大震災を体験して社会主義に関心を持ち、マルクス主義に入っていき、1926年に日本プロレタリア作家同盟参加、中央委員を務め、全日本無産者芸術連盟機関誌『戦旗』編集委員となった。のちに、思想弾圧が強まったため飛騨へ帰り、雑誌『ひだびと」の編集に携わる傍ら、代表作となる長編『山の民」を執筆。
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e279752.html

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