当時の自分の限界まで引き出してもらった作品
キャラクターデザイン 北爪宏幸
『機動戦士ガンダムΖΖ』に引き続いてのキャラクターデザインになります。
自分自身、最初の『機動戦士ガンダム』の世代ということもあり、『逆襲のシャア』の企画を聞いた時は「これは安彦(良和)先生がやるべきなのでは」という気持ちになりました。ただ状況的にはそれはもうかなわないことは分かっているわけです。ここはやるしかないし、やる以上は富野(由悠季)監督の“手”になって、富野監督の求めていることはできるだけ形にできるようにしようという、思いで参加しました。
実際のデザインはどうだったでしょうか。
『ΖΖ』と『逆襲のシャア』では大きく違うところがあるんです。『ΖΖ』は『Z』から直接続いて放送されましたが、もともと内田(健二)プロデューサーから聞いたのは、新番組ではなく「『Z』の延長が決まった」ということだったんです。そこで言われたのが、延長する上で新キャラクターが登場するんだけれど、今度は安彦先生は参加されないので、『Z』ガンダムでの作画のテイストで新キャラクターを描いてほしい、ということだったんです。端的にいうと、雰囲気を変えないでほしいというわけです。それに対して『逆襲のシャア』の時は富野監督から「これは新しい作品だから、キャラクターも変えていく」というようなことを言われた記憶があります。『ΖΖ』の延長ではないということで、まずはやってみてほしいと。
戸惑い。そして、魅力の発見。
モビルスーツデザイン 出渕裕
メカニカルデザイン 庵野秀明
庵野さんはνガンダムのコンペにも参加したそうですね。
当時のムックを見ると、近藤和久、小林誠、大森英敏、鈴木雅久、大畑晃一、佐山善則といった方もラフを提出したと書かれています。
映像は記憶の中で生きていく
原作・脚本・監督 富野由悠季
『逆襲のシャア』の冒頭10分を見ながら演出についてうかがいたいと思って来ました。
映像を見ながら、物語論と映像論の話をするというのはちょっと無理でしょう。というのも、映画というのは基本的に記憶に寄っている媒体なんです。観客は映画を見終えた後に、それを記憶の中で反芻して、そこで意味性がわかってくる。そういうものですから、映像をリアルタイムで流しながら、その関係性を語るというのは単純に無理だとしか言えないんです。
お話はわかります。どうして冒頭10分を取り上げようかと思ったかというと、そこが富野監督が書かれた『映像の原則』(キネマ旬報社)の実践として、すごくわかりやすいからなんです。
それはわかります。ただ、結局その話は「映像は記憶の中でその意味性が分かるように構成しなければいけない」ということになると思います。
わかりました。では映像は見ませんが、冒頭の展開を追いかけつつ質問するところから始めさせてください。例えば冒頭は、カメラが月面へ降りていって、アナハイムの工場の中に入り、チェーンのセリフから始まります。
まずチェーンという、まったく新しいキャラクターを出すことで「あれ? この話はアムロもシャアも出てこないじゃないか」というフックをつけたんです。そしてシートをバァーンとめくり上げてガンダムの顔を見せる。ここで観客は「ああ、これで話が進むのよね」と思えるわけです。ドラマを進めるキャラクターから入っていって、背景や道具になっていくものを紹介していく。それがメインタイトルのバックになっているという点では「富野さん、上手いよね」と(笑)。先日、見直してそう思いました。
タイトルが出た後は、今度は地球上にいるクェスにカメラが切り替わります。
物語の展開上、クェスから始めなくてはならないのは当然なんです。でもここで大事なのは、物語を進行させていく流れの中で、ガンダムという商品名――というより、いまや世界観を表わしている象徴ですね――を、いつまでも隠していてはいけないということです。だからスルっと、アバンにガンダムを持ってきました。この構造をとることが、記憶されるべき作品の場合にとても重要なんです。この手のジャンルのつまらない作品は、そこをルーチンで処理していて、どう記憶されるかを考えていないケースが多い。
クェスは親元に連れ戻されてから宇宙に向かうまで、画面左側(下手)から右側(上手)への移動と一貫しています。また、宇宙空間の戦闘はネオ・ジオン軍が下手、連邦軍が上手と分けられています。こうした上手下手を使った情報整理の仕方の重要性は、『映像の原則』でも強調されているポイントです。
これは、ごく当たり前なことで、日本の演劇の世界が上手と下手の意識を持ったときからやっていることです。聞くところによると、ヨーロッパには不思議なことに上手下手という概念はないそうです。それでも方向性を使って演出はされているので、これは本当に普遍的なものだということができます。世の東西を問わず、キスシーンの時、たいがい男性が右側に配置されているというのは偶然でもなんでもないんです。そして、これをちゃんと“劇”の表現にきちんと取り入れましょう、ということなんです。
冒頭のシャアとアムロの戦闘ですが、その合間に「地球を背にしたアムロ」「地球を間に挟んで下手にシャア(サザビー)と上手にアムロ(リ・ガズィ)」という構図が出てきます。それぞれが本作全体のコンセプトを示す画面になっています。
そういうことに観客が気付く必要というのは、本来的にはなくていいことです。観客は鋭いので、必要な映像の組み合わせをきちんとやっておけば、あとは説明をしなくても、抵抗なく思い出せるところにいってくれます。「映画とは記憶である」という話はそういうことなんです。……それでいうと、コンテをきっている時に気にかけていたのは、「アムロをなるべく早く地球を背景にして喋らせたい」ということでした。それをどの位置に持ってこれるか。漠然と考えていたわけではありませんが、実際問題、ここまでアムロの立ち位置を示す画面が作れなかったのは、ちょっと失敗だったかなという気持ちがあります。優れた映画っていうのは、そういうところの手際がいいものですから。
『逆襲のシャア』の場合、物語を牽引していくのはシャアです。
それは当然『逆襲のシャア』というタイトルを付けたときから決まっていました。ただ、牽引者ではあるのだけれど、劇というものは牽引者がいれば成立するほど簡単なものなのか、という問題があります。そう考えたときに、シャアが必殺兵器で最後に勝利者になっていいのかという問題がでてくるわけで、映画ではむしろ、彼が情けないところまでいってしまう方向を選びました。そこがドラマの構造の妙なんです。平たくいうと「それって面白くない?」ということです。……今回、音響の調整もあったので全編を改めて見直しましたが、ドラマの構造という点では『逆襲のシャア』はよくできてるなと驚きました。たとえば登場人物の立ち位置を、最低でも二重にセッティングしているのはよかったです。
富野監督の作家性について
プロデューサー 内田健二
そもそも『逆襲のシャア』の企画はどう始まったのでしょうか。
今では、具体的な発端は覚えていないんです。ただ大前提として『機動戦士ガンダム』の劇場版がヒットして、ガンダムのプラモデルも非常に売れたという状況があったわけです。その後、富野監督は『ガンダム』以外の作品を世に出してきたんですが、そこにまた“ガンダム待望論”が出てきたわけです。それが『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダムΖΖ』だったんですが、商業的実績は期待値は越えられませんでした。そこで「もうちょっと『ガンダム』をやろう」という雰囲気があったのが86年、87年のころなんです。富野監督も『ΖΖ』は若手に委ねた作品だったので、自分としてやりたいこともあったと思います。
素朴な疑問ですが、そういう状況の中で『逆襲のシャア』の脚本が提出されたら、関係者は驚いたのではないかと思うのですが。たとえばあのラストシーンとか。
違和感はなかったですよ。僕自身は、ガンプラファン的なミリタリズムとか設定考証に重きを置くのはマズいと思っていたんです。ガンダムの魅力というのは、そこにはないだろうと。むしろ青春ものだったり人間ドラマだったりするのがガンダムなので、だから、マニアックなファンが喜びそうなところに細かく分け入らないほうがいいと。一方、富野監督は『伝説巨神イデオン』や『ダンバイン』で、『逆襲のシャア』のラストに通じるようなエンディングを描いてましたから、富野監督の作家性が生み出すものとして、すごく自然に受け止めていましたね。
フレームの違いを忘れないように
美術監督 池田繁美
『機動戦士ガンダムΖΖ』の流れで『逆襲のシャア』に参加されたわけですよね。
そうです。劇場なので描き込みを細かくしなければいけないなとは思いましたが、TVからの流れもありましたから、がらっと変えることはなかったです。富野監督からのオーダーも、特に大きいものはありませんでした。富野監督は、少しアニメから離れていた後だと最初に必ず「背景が暗い」という指摘をするんです。そして制作していくうちに、そういう指摘は減ってくるんです。『逆襲のシャア』の時は、TVから連続していたので、そういうこともありませんでした。
劇場版として意識した点はありますか?
意識したのはフレーミングの違いです。当時のTVは4:3のスタンダードで、劇場版はビスタサイズ。フレームが変わるというのは、簡単なように思えて意外に大変なんです。どうしても慣れたフレームで描いてきた時の意識が抜けなくて、横に長くなった左右の部分が絵として全然足りない状態になってしまったりするんです。そこは富野監督からも言われましたね。ただ富野監督の指摘は難しくて「劇場というのは華があるんだよ」なんて言い回しをするんです(笑)。
かなり挑戦的なことをやった作品です
撮影監督 古林一太、奥井敦
『逆襲のシャア』ではお二人が撮影監督としてクレジットされています。
エフェクトで世界観を作ることができた
作画監督 大森英敏
大森さんはメカやエフェクトの作画監督を担当されたそうですが、本編の制作に先立って富野監督や内田プロデューサーから提案されたことなどありましたか?
はい。富野(由悠季)監督から「エフェクトをどうしようか」と相談されました。劇場作品ということで、僕としてもこれまでのTVシリーズとは明らかに違う熱量を加えたいと思いました。
何か参考にしたものはありましたか?
特にはありませんでした。例えば、サザビーとνガンダムではファンネルのビームの発射構造自体が違います。そういう部分もかなり考えさせられました。ビーム・サーベルの切り合いについても、『スター・ウォーズ』でやっているような表現にはしたくなかったので、最終的にサザビーとガンダムのサーベルが交わったときは丸くしたんです。ビーム同士が干渉し合うことで、エネルギーボールになってしまう。その次の瞬間、どっちの出力が高いかによってエネルギーボールが消されてしまうんです。その流れから、相手を切断できるのではないかという考え方を設定に載せました。あと宇宙空間の爆発ですね。基本は丸でいきましょうと。富野監督から「煙を出したくない」というオーダーもあったので、光球をフェイドアウトさせる方向で考えました。
多くの学びがあった作品でした
作画監督 磯光雄(小田川幹雄)
どういう経緯で参加されたのでしょうか。
『Zガンダム』で動画、『ガンダムΖΖ』で原画と動画で参加していたので、その流れで制作デスクの高森宏治さんに呼ばれました。当時はスタジオ座円洞にいて『ゲゲゲの鬼太郎』(第3期)をやっていたんですが、ペンネームでアルバイトの原画をやらないかとお話を頂きまして。ギュネイとガンダムの戦闘がほとんどでしたが、その後、「座円洞にも100カットぐらいやってもらえない?」と相談を受けて、当時の社長の向中野(義雄)さんに話をしたら引き受けてくださって。その結果、会社に行って本名で『ガンダム』描いて、帰宅してまたペンネームで『ガンダム』描いて、ってことになっちゃいました(笑)。その後さらに高森さんから作画監督も頼まれることになり。そんな経緯でペンネームと本名の両方でクレジットされています。
「痛み」を感じさせるような演技を
作画監督 稲野義信
どういう経緯で参加されたのでしょうか。
記憶がだんだんと薄れているんですが……。『戦闘メカ ザブングル』などで仕事をしたことがあった内田(健二)プロデューサーから声をかけられました。スタジオに入ったのが87年10月ごろだったと思うので、だいぶ制作が押し迫ってからですね。北爪さんの手がまわらない部分の、キャラクターの作画監督ということだったので、北爪さんと打ち合わせをしました。その時に、外国人ぽい感じを出したいので首を長めに描いてほしいと言われたことは覚えています。ただ僕自身はキャラクターは似ないほうなので、芝居を修正することが中心で、キャラクターの顔の修正は作画監督だった南伸一郎さんがやってくださっていたはずです。